ユウくんの生存義務

ちょうわ

生論

 高校の制服に身を包んで中学の門をくぐる。何人もの下校する中学生とすれ違う。俺と身長は大して変わらないのに、こいつらはみんな二つや三つ下だと意識すると、急に自分が年を食ったように感じた。

 卒業からもう二年も経ったのか――。卒業前から噂になっていた旧校舎の工事が始まったようで、壁は組み立て途中の足場に覆われていた。知らない母校の姿。

 目的の場所に行くために、職員室に顔を出す。鍵を借りていいか、ということを中に向かって叫んだ。元担任が鍵を持って出てきて、俺の顔を見るなり高校はどうかと笑顔で尋ねてきた。まぁ、それなりに、と曖昧な返事をすると、それを前向きに捉えたのか目尻のしわがさらに深くなった。

 本当のところは言えるわけがないけれど。

 挨拶もそこそこに鍵を受け取って、一年を過ごした旧校舎の端の教室に向かった。

 時間は午後四時五分。約束の時間まであと五分。待ちあわせが中途半端な時間なのは俺の事情。ただ、お相手も遅くなるかもしれないと事前に聞いていた――だから、実際会うまではもう十分くらい上乗せして時間を見積もった。

 スマホを見ているうちに、時間が過ぎていく。気づくと、時計の長針が「2」を指そうとしていた。

 来ないかもしれないが、と思いながらも秒針を目で追って、ごお、よん、さん、と心の中で数えていた。

「ぜろ――」

「ユウくんっ!」

 バシーン! 入口の引き戸が信じられない轟音を立てて開いた。それに負けない大声量。

「後ろから覗いて、いたからよかったーって思ってさ、なんかこっち見てなかったからびっくりさせられるかなってした? びっくりした?」

「……したから座れ、落ち着け」

 はーい、と元気よく返事をして、俺の隣まで来て、座った。

「OBのユウ先輩、今日はよろしくお願いしますね」

「……っても、部員はひばりだけか」

 後ろの席に置いたギターケースを撫でる。俺のときは五人いたけれど、もう今は――廃部寸前、か。

「ふふふ、今日はいい日だねぇ」

 だらしなく緩んだ口元を見て、思い出した。買っておいたドーナツをカバンから出して、ひばりの目の前に置く。

「え、え、食べていいの?」

 そう言いながらも、既に袋を開けて中を覗いていた。

「がっつくなよ」

 ひばりに食べ尽くされる前に、自分の分として買ったのを回収する。

「残ったら残ったで颯太の腹に入るだけだから、残るとか気にせずに食べていいよ」

 だいぶ年下の弟の名前を出すと、

「じゃあ残してあげないとね」

と箱にあるドーナツを慎重に選んでいた。

「……それはさておき、なんで俺を呼んだ? 家近いんだからわざわざ学校じゃなくても良くね?」

「あ、うん――、やっぱ、それをまず言わなきゃだよね」

 クリームのはみ出したドーナツにかぶりついたまま返事して、慌てて何口かで全部を口の中に入れた後、最後の一口をやたら味わってから話し始めた。

「と、特に意味はないんだけど、ほら、楽器するってなると近所迷惑になるしさ」

「今まで気にしてなかったろ」

「あ、やっぱり気にした方がいいかなーなんて?」

「急だな」

「ユウくんが卒業してから工事も始まっちゃったし、一度学校に招待を……」

「工事終わった後だろ、それするなら」

「あは、たしかに、そうかも」

 ひばりは、手の中のドーナツの包み紙を見つめていた。

 いつものひばりより返事が支離滅裂。ちらりと外を見た。鳥が通り過ぎていった。

「とりあえず部活しよ! ね、私のよりいいの使ってるんでしょ、ちょっとだけ弾かせてよ」

「それはいいけど、自分のはどうした」

「今日はお休み!」

 机に手をついて立ち上がった。俺のギターのところではなく、教室の窓の方へ向かう。

 窓を開けた。風が勢いよく流れ込んでくる。ひばりの肩まで伸びた髪がひっくり返る。

 風は俺のところまで吹いて、前髪を攫って、視界を開いた。

 そこでようやくギターを取りに来た。

「チューニングするならこれを――」

 別で鞄に入れていたチューナーを出そうとしたが、

「いい」

 と、一蹴されてしまった。

 ギターを肩に掛けないまま――どうせ長さが合わないから調整が必要なのだが――両手で支え、開いた窓に一番近い机に登った。

「ひばり――」

 危ない、と、言う前に、窓のさんに座った。

「私、聞いたんだ、お母さんにさ。ユウくんが、自殺未遂を起こしたってさ――」

 俺の反応を探るように、Cコードをかき鳴らす。音が消えるまで、互いに無言でいた。

「絶対音感なんてないからさ、この音がずれてるのかなんてわかんないや」

 Cマイナーを鳴らした。少しずつずれているのだろう、きれいな響きとはいえない音だった。

「ユウくんが何を考えてるかなんて、全くわかんないけど」

 弦を覗き込んで、小さい手で必死に弦を押さえていた。けれど、鳴らした音は響かず、短く跳ねただけだった。

「だめだこりゃ」

 また、Cコードを鳴らした。よく響く。

「ねえ、ユウくん。私と、心中しませんか?」

 まっすぐ、俺の目を見てくる。

 返事が思いつかない――気づいたら、目を逸していた。

「私じゃ、だめかな?」

 前髪が俺の顔を隠してくれない。ひばりの顔も、同じ。泣きそうな目が、震える唇が、視界の中に入ってくる。

 だめだ、としか言えない。言えないのだ――。俺が死ぬとしても、ひばりはだめなのだ。

「だめに決まってるだろ、ふざけるな」

 わかっていた。こんな言葉では、ひばりを泣かせてしまうのはわかっていた。

 脳裏に映るのは、誰よりも努力家で人当たりのいいひばり。昔から、人に囲まれて、中心にいて、習い事のピアノも、水泳も、体操も、勉強も――自分からやりたいと、楽しそうに続けていたひばりが、俺にはあまりにも眩しくて。両親にも愛された、こんな「いい子」を、日陰者の俺が連れて行って良いはずがなかった。

「――ひばりは、俺よりいい子なんだから生きないと」

 中学一年生の、まだたった十三歳の、優秀な少女だった。――俺とは違って。

「じゃあ――」

 掠れた鼻声。

「ユウくんも、生きるのをあきらめないでよ」

 手首の傷が、うずいた。

 ひばりは俺に持っていないものをたくさん持っていた。

 どうして、俺にかまってくれる?

「昔した結婚の約束、覚えてる?」

 予想もしない言葉に面食らった。なにも良い返事が思い浮かばない。

「あんなの、子供の約束で、勝手に消えてくやつじゃ」

 やってしまった。混乱したまま話したって、いいことが無い。ギターを叩き割られても、文句は言えない。

「私は、本気だったらな、なんて思ってた」

 ギターは優しく、ひばりの膝から下ろされ、近くの机に寝かされた。

「ユウくんがまた自殺するかもってのは、今日話して思った」

 否定ができなかった。なんで死ねなかったのか、神を呪ったあのとき――無言の俺、ひばりもなにも言わなかった。顔を見ると、目が合った。今までの誰よりも優しく微笑んでいた。

「その前に、先に行くね」

 ひばりは、ギターのある机に立った。そのまま、窓のさんに右足をかける。

「ひばり!」

 柄にもなく声を荒らげてしまった。

 このたった一回の絶叫で軟弱な喉が軋んだ。

「優くんの幼なじみで、良かった」

 春に鳴く鳥のような、声だった。

 ひばりは、窓の外に、飛んだ。手を伸ばしても、届かない。

 死んではいけない人なのに。


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