#2 邂逅⑤






【野分】という名前は彼女の父親がつけてくれた。






秋から冬にかけて吹く暴風のことで、昔は台風や嵐という意味で使われていたらしい。



「野の草をかき分けて吹く風のように、この世に旋風を巻き起こす人間になってほしい」という意味が込められているんだぞ、と小さい頃から誇らしげに説明されてきた。



あいにく彼女にはまだ自分の進みたい道も決まっていないため、風すら起こっていない状態だけれども。





「名前教えたんだから、そっちもどこの誰か教えてくださいよ」





ここぞとばかりにチクチクした声色で尋ねてみる。


しかし、目の前の平安貴族風の男は歯牙にもかけぬという様子で、逆に小馬鹿にしたように顎を上に向けて扇の先を彼女に差し向けた。




「ホホッ!さすが田舎者よのう。この京で麿を知らぬものなどいないというのに」



そのまま後ろにひっくり返ってしまうのではないかと思うほど踏ん反り返って高笑いをしている。


野分は腹が立つ反面、なんだか珍妙な生き物みたいで面白いなと思ってしまった。


こんな光景、テレビ番組のコントでしか見かけたことはない。




「……こちらは、藤原の民部省少輔様だ」


 


その仰々しい肩書は聞いたことがなかった。

野分は政治に詳しいわけではないが、今の日本に民部省という省庁がないということは知っている。


少補という役職も社会経験のない彼女には聞き馴染みのない言葉だった。



「藤原さん?下の名前は?」


「そなたのような下々の者に教えるわけなかろう」


「……もしかして、なんとか麻呂とか?」


「──っ?!なぜそれを?!」




当てずっぽうに口に出しただけだが、あたりだったらしい。

しかも目の前の生き物は顔面蒼白になり、わなわなと肩を震わせている。




 (名前を知られることがそんなに恐ろしいのか。というか、どうせそれも芸名とかでしょ?)




野分は彼の顔をまじまじと眺める。


あまりにも「麻呂」という名前が似合いすぎるその顔に、思わず吹き出してしまった。



「麻呂……ぷくく……麻呂ね……」


「な、何がおかしいっ!清麻呂という名は、母上が付けてくださった立派な名じゃぞ!」



ダンダンッと不機嫌そうに床を踏み抜く勢いで地団駄を踏んでいる。




「あ、藤原清麻呂って名前なのね?」



野分の言葉にハッとした清麻呂はとっさに自分の口を檜扇で覆った。

隣の男も、先ほどとはうってかわってピリッとした空気を纏っている。

指の先が痺れるほどの緊張感がその場に走る。


野分は突然のことに困惑したが、持ち前の空気を読む能力で、この雰囲気を打破するために口を開いた。



「と、とにかく偉い人?なんだよね?」


「……ようやく分かったか。見目だけではなく頭も残念なのじゃな?いとかはゆし……」



ヘラヘラと笑う野分に、清麻呂の肩の力が少しほぐれた。


「……その『かはゆし』は、可愛いっていう意味じゃなくて、「可哀想」っていう意味で使ってるんでしょう。古典で習ったぞ、それ」



いちいち突っかかってくる清麻呂に腹が立ち、自然と立ち上がろうとしてしまったが、隣の男に素早く阻まれてしまった。


この人もこんな奴に従わなくてはならないなんて大変だなと、心の中で同情する。




「ねえ、あなたのお名前は?」




野分は自分の肩を掴んでいる男に尋ねた。

男は少しだけ目を見開いたかと思うと、小さく、




「……要」




と、答えてくれた。



「ありがとうございます、要さん。あなたのおかげて命拾いしました」


清麻呂を完全に無視した形で、要に向かってにっこりと笑顔を見せながら深々と頭を下げる。



「そなた、頭を下げる相手を間違っておろう?」


「は?間違ってないし。実際に助けてくれたの、この要さんだし」



べえっと舌を出して悪態をつく野分に対して、清麻呂がたちまち風船のように頬を膨らます。


真っ白な肌なせいか、焼かれて膨れた餅にも見えた。





「もうよい!とっとと出て行け!時間の無駄じゃったわ!」




虫でも追い払うかのようにシッシッと手で払われ、野分は奥歯をギリギリと擦り合わせながら立ち上がり、




「言われなくても出てくわよ!お世話になりました!」




と、捨て台詞を吐きながらその場を駆け出した。










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