ラベンダーワイン

裏掟シニメ

ラベンダーワイン

私たちの関係は、ワイン一本で繋がれている。

いつだったかあの人が、ワインが好きだと零した。職場の飲みの席に居合わせたメンバーはワインはおろか洋酒がダメな人が多く、私とあの人だけの密かな視線に気付く者は誰もいなかったのである。

「ラベンダーワインという、お洒落な酒があるのですよ。知っていますか?」

彼は酔いのまわった笑顔で私のほうを向くのであった。私もそのなんとも言えずただお洒落な雰囲気を醸し出す酒を存じてはいたが、きっとあの人に言われなければそこまでに惹かれなかっただろうと思う。

「ええ、存じてーー飲んだことがあるのですか?」

「僕は先日知りました。知って、手に入れてしまいました。ちょうど、うちにあるのですよ」

へえ、それは羨ましいですね。と笑おうとしたとき、彼がまた酔いのまわった甘美な瞳に私を映した。その水晶体につるんと飲み込まれた私はいつもよりも美しくて、思わず見惚れた。その隙を逃さず彼は口を開いたのだ。

「飲みに来ませんか?二人で二次会と致しましょう」

それはそれは見事なまでに妖美で艶やかな、手に入れてはいけないような唇に心を奪われた。私は、嗚呼、迷い込んでしまったのだ!きっともう永遠に戻れはしないだろう。それでもあの人を知りたいと思ったのだ。愚かだったろうな。奪われてしまうのはそれだけではなかったのに。


彼の家はこれまたなんとも言えぬ甘い香りがした。彼はワインを注いで、やがて私たちは乾杯した。それはまるで解れた袖口のようにするすると、口内を歩き回る。そして私たちはキスをして、気が付けばベッドで翌朝を迎えているのだった。

何故ーー。

「何故、私だったのですか」

震える声で問うと彼は呟いた。

「美しかったのですよ」

彼の長い睫毛が透けて見えた。

「それに、悪くはなかったでしょう?」

「なっ……!」

見透かされた気がして思わず顔を背けた。彼はどうしてこんなになってまでも妖美で艶やかに、美しく、微笑を浮かべられるのだろう。気味が悪いような。私のことなどまるで手に取るように分かってしまうような、背筋がぞくぞくとした。

「今日はもう帰りますから。では」

休日でなかったらこうはならなかっただろうか。私は荷物をひったくるように抱え、足早に彼の家を出た。彼は見送りもせずベッドに沈んでいた。

悲しかった。彼が私の思っていたよりも貪欲で、残酷な人種であることが!しかしまた私はそれと同時に、もう一度彼になぞられたくて仕方なかったのだ。薄暗い部屋でなぞられた、私の生命線を。まるで切り付けるように鋭い視線で一瞥されたそれを。私はその快楽を知ってしまった。もう戻ることは出来ないだろうと、それを身に染みて体感するのはまた次の週のことである。


「本日もどうです?」

次の週の終わり、彼は早々に仕事を切り上げた私を誘った。その瞳の奥にあの日の視線が薄く覗いて、私は金縛りにあったように動けなくなってしまう。

「どうです?ワインを嗜みませんか?」

嗚呼。

あろうことか、私の口から飛び出たのはまともな「いいえ」であった。しかし彼に「あらそうですか、それは残念だ」と顔を背けられたとき、私は彼に見捨てられると思い込んだ。またあの呪いにかけられてしまいたいと、そう願ってしまったのだ。行かないでくれ。私は彼の背中に叫んだ。

「行きます」

紛れもない同意の言葉であった。それは単なる同行への同意、ワインへの同意では無い。心とーー身体諸共許してしまうことへの同意でもあった。

「素直、ですね」

猫を愛でるような優しい目で彼はこちらを盗み見た。それ以来私は、逃れることなど出来なくなってしまった。


「本日もーー」

「行かせてください」

「ふふ、恋仲との噂があるようですよ。僕とーー貴女と」

オフィスを出てから彼は言った。

「巫山戯ないでください!私は」

「そうですね、それより歪な関係ですね」

ワインを嗜むーーもはやそれよりも夜の行為が主になっていた。それの為に会っているようなものだ。私はなんて不埒なーー。

「ラベンダーワインは、お好きでしたか?」

「……ええ、とても」

「よかった。僕も好きになってしまってね。そればかり飲んでいます」

好きになってしまってね。

悔しかった。私はこの人の目もまともに見ることが出来ないではないか。それはきっと従順だからではない。私は彼のことを慕っていて、美しいと願って、触ってほしいと思った。それはまるで恋愛ではないか。

「なにか?」

「……いいえ。それより今日は」

彼の家に着いて、私は彼を見上げる。

「酔っ払ってしまえばいいよ」

今までの甘ったるい口調とは違って、少し怖かった。彼は私の目を真っ直ぐに見て、

「この指でなぞられた生命線を伸ばしたいんだろう?」

と囁いた。

全部お見通しというわけだ。彼はきっと他に何人も女性を、虜にしてきたに違いない。そんな遊び人ーーわかっているのに今更手は引けない。悔しくて悔しくてたまらなかった。

「では朝まで、付き合ってくれますかな」

「勿論です、お好きにどうぞ」

彼はその細い指で私の首筋をなぞった。あくまでも生命線ではないところを。やがてまたいつものように弄ばれるうち、私は溶けそうな意識を必死で保って彼の指先を見た。彼はーー左薬指に指輪をしていたのだ。

「待って!」

「なんです?ようやっと」

「あ、貴方指輪を!左手の薬指に」

「ああ……結婚はしていませんよ」

「だとしても!だとしても誰かいるのでしょう!?」

必死に叫ぶと彼は不思議そうに言った。

「貴女とは戯れでしょう?何も気にしなくてよいですよ」

「何故!何故そんなに飄々としていられるの!私は貴方を」

「もしかして、僕に惚れたのですか?だとしたらこの関係はお終いだ。二度と僕とは遊べない。そうしますか?」

「私はっ……!」

涙が溢れ出して止まらなくなる。薄暗い部屋で視界が霞んで、彼の顔も見えなくなった。そのまま永遠に失ってしまう気がして、私は左手を差し出す。

「その指でなぞった生命線を切りつけてほしいんだよ……」

まだ、貴方は確かにそこにいた。緩く、緩く、こちらに手を伸ばしてくる。やがて彼は私を押し倒した。

「生命線をなぞったら貴女は、消えてしまうでしょう。だから僕はいつまでもしませんよ。また貴女とワインを嗜みたいので」

「何故……私だったのですか」

彼はいつもと変わらぬ妖美な笑顔を貼り付けてわらった。

「美しかったのですよ。それにーー悪くはなかったでしょう?」

まるでワインを零したような甘い香りが、二人の身体から、漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラベンダーワイン 裏掟シニメ @mizlim_0728

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ