相和する杯事 Ⅲ
一度大学を志半ばでやむを得ず卒業間近で退学せざるを得なかったとき。その直前に、元帥の祐筆に、と直接声を掛けてもらえていたのだ。
そして、それは、自ら蹴った。
蹴らざるを得ない状況だった。
その時には、他にも出来事が重なって、苦しく切ない思いしかでてこない。周囲への欺瞞もあって、まだ心のどこかで、いい思い出などと軽く捉えることなどできないままだ。周囲の皆は、許してくれているらしいが__。
「新しい元帥閣下は、書類仕事が本当に苦手であらっしゃるらしくてな。だれか有能な者を、と問い合わせがあった。それで、以前も直接打診があったそなたはどうだろう、と考えたのだが……断念した」
キルシェは目を軽く見開く。
ならば何故、断念したのに今こうして連れてきているのだろう。
__断念した話を、わざわざすることもないでしょうに……。
意図がわからない、とその疑念を読み取ってか、レナーテルが含んだ笑いをする。
「半年後に挙式があって住まいが遠方になってしまうことを考慮すると、そなたの負担が大きすぎるからな」
「__っ」
まさかレナーテル学長の口から、こんな場で言われるとは思いもしなかったことで、キルシェはぼっ、と音が出るほど顔が火照った。
顔を挙げることが出来ない。眼の前には、その相手方がいるから。彼が今どんな顔をしているのか気になることはなるが。
「同時に、この片翼院からは、指導員__教員も誰かいないか、と問い合わせていたのです。
「教員?」
「ここに入るものは、齢16の少年少女らです。龍騎士を名乗るからには、それなりに座学を修めていなければならないと、我々は考えています。__だろう? ナハトリンデン」
「はい、そう思います」
落ち着き払った声で、思わずキルシェは顔を上げた。
すると、目があった彼は、ぐっ、と表情を強張らせ、視線を伏せると誤魔化すように右の拳を口元に添えて咳払いをし、残る一方でお茶に手を伸ばす。
その手__無骨な大きな左手の薬指には、指輪が嵌められていて、キルシェは自身の膝の上で握りしめていた左手を、右手で覆うように握った。その左手の薬指にも、同様に指輪がある。
帝国では、婚約中である場合は左手の薬指に指輪を嵌め、婚姻が結ばれると右手の薬指に嵌める習慣で、大学卒業後から彼は、それに倣って嵌め始めた。
「今日、こうしてナハトリンデンがいるのは、打診する相手__貴女と婚約中だと伺ったからです。後見人のビルネンベルク殿には、コンバラリア嬢がよいのであれば問題はないとのことですが、婚約相手に黙って決めてしまうのは忍びないのではないかと、と思いましたので」
確かに、とキルシェは内心思った。
結局この話題は持ち帰って、リュディガーに相談をしていたことだろう。無論、後見人のビルネンベルクにも。
「私が、そなたを推したのは、講書をしていた実績があるからだ。加えて、そこのナハトリンデンの弓射の指南役も任されたこともある。ある意味、文武両道だと私は思った。故に、不足は無かろうと」
「弓射の指南?」
「ナハトリンデンは、必修である弓射を武官でありながら落としそうであったのだ。必修の弓射を落とすなど伝説の学生と言われかねない。しかも龍騎士でありながら、だ。伝説の学生の担当教官などと呼ばれることを危惧したビルネンベルク師が、彼女に指南役を頼んだことがある」
本当なのか、とケンプフェルトはリュディガーを振り返る。
「相違ございません」
自嘲気味に言うリュディガーに、ケンプフェルトは驚きを隠せない様子だった。
「だが、君は、冬至の矢馳せ馬の最後を飾った実力者だろう?」
「それはそれ、これはこれ__と申しますか、彼女の指導があったからこそ、です。彼女の弓射の腕、間違いなくそこらの武官以上です」
「戦闘時とは、違うと思いますが……」
苦笑を浮かべるキルシェ。
入り乱れる戦線で、果たして自分の弓射が役立つとは到底思えない。落ち着いた場で、静かに一矢、一矢、動かない的を狙う__実戦向きとは言いにくいものなのだ。
「キルシェ__コンバラリア嬢は、冬至の矢馳せ馬の候補にも選ばれております」
「なんと」
ケンプフェルトが聞き及んでおらず驚いているのは、候補止まりだからだったからだろう。候補は、所詮、候補でしかないのだ。
「しかも2回も」
「そ、それは、たまたま……。2回目なんて、本当に人数合わせといいますか……そんな程度の選抜理由ですから……」
人数合わせと、警護のリュディガーから離すわけにはいかないから__というのが主な理由だ。
「最終選抜では、落馬もしたりと……見せられたものではありませんでした」
最初選ばれたとき、最後の選抜試験で迷いがあり、キルシェは馬との息が合わず、落馬する事故を経験している。そして、その際、この片翼院が最寄りの処置ができる施設であったため、世話になったのだ。
「ナハトリンデンはどう思う? 反対か?」
足を組み替えたレナーテルが静かに問うた。それを受けて、リュディガーは真摯な顔になって頷く。
「もし彼女が受けたいというのであれば、私は反対しません。__彼女であれば、間違いなく良い指導者になるかと」
「リュディガー……」
リュディガーはキルシェに顔を向ける。その顔は、至極穏やかだ。
「貴女なら、適任だ」
客人ということだからだろう。かしこまった言葉遣いに戸惑ってしまう。
「ここまで聞いて、どうだね?」
ケンプフェルトの言葉に、キルシェは一度視線を落とした。
左手を握りしめていた手を緩め、ひとつ深呼吸をする。
__3ヶ月……どうしよう……。
挙式に向けて、やりたいこと、やらねばならないことがある。
所領から戻ってから卒業を迎え、挙式について話をまとめている最中。職場に復帰するために動いているリュディガーとの摺り合わせは、時間が限られている。
やっと帝都の挙式が、まとまった形を見せ始めたところなのだ。
__それに、帝国が誇る精鋭となる人を指導する立場なんて、私が勤まるの?
脳裏に浮かぶ、恩師の教鞭を振るう姿。
堂々として、余裕があって、貫禄がって、俯瞰して物事を捉えて、大局を見極めていて__。
__先生の姿ぐらいしか浮かばないのよね……。
自分の才能を有能視してくれて、重用しようとしてくれているのも、ありがたいと思っている。だが、それ以上に、教え導く立場というのは自分では力不足ではなかろうか。
一同が、自分の出方を待っている気配が重い。
ぐぅ、と目を閉じて思案続けることしばし。
脳裏に浮かぶ、恩師の姿を振り払うように頭を小さく振ってから、キルシェはやっと口を開いた。
「……今、お返事を出さねばいけませんか?」
恐る恐る尋ねながら顔をあげると、ケンプフェルトが大らかな顔で首を振った。
「いや、3日後までには返事をいただければ。不明なことがあれば、ナハトリンデンに聞くといい。ここを良く知る者なのだから、答えられるでしょう」
色よい返事を、とケンプフェルトに添えられて、キルシェは頷きにくさを誤魔化すように苦笑してお茶に手を伸ばす。
残念なことに、口に含んだそのお茶は、すでに人肌に冷めてしまっていた。
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