一年の計 Ⅰ

 かちゃかちゃ、という音に引っ張られるように意識が浮上する。


 目を開けると、天幕の隙間から光が差し込んでいるのが見えた。


 差し込む光に、中空に漂う光の粒が穏やかに輝いているのが見え、キルシェは口元が綻ぶ。


 ふわふわした心地がするのは、昨夜の酒の影響だろうか。


 __頭痛はしないけれど……。


 悪酔いするほど飲んだ経験がないキルシェは、さて今はどうなのだろう、とため息を零して目を閉じる。


 気持ち悪さはない。


 ただふわふわ、とした心地だ。動いてみなければ分からないが、おそらく頭痛もなさそうである。


 __やはりいいお酒だったというのが大きいのかしらね……。


 昨夜、おやすみ、と口付けられたのを思い出し、胸の奥が春めく。


 微睡みが強くなる。


 穏やかな心地にいましばらく__と思っていたところで、瞼の裏が急に眩しく感じられて目を開ける。


 天幕の隙間から差し込む光が、キルシェの顔に当たったのだ。


 __まって……。


 キルシェは息を呑んだ。


 先程までと光の差し込む角度が、あまりにも違うのだ。


 途端に意識がはっきりとして、体を起こした。


 寝台の縁まで移動して、天幕を開ける。


 通常、キルシェの部屋からは朝日は見られないが、日当たりがいい部屋である。その部屋の窓に、わずかに太陽が顔をのぞかせているということは、起床するには遅すぎる事を意味していた。


 失態をおかした、と自覚して寒気を覚え、寝台から飛び出した。


 今朝は、いつも身支度をしてくれるはずのリリーには断りをいれていたから、全て自分でこなさねばならない。


 __彼女がいなければ起きられないなんて……。


 彼女が起こしに来る頃には、起きているのが常だ。間違いなく酒のせいだろうが、酒のせいにはしていられない。


 部屋に満ちる、不思議な良い香りに眉をひそめるキルシェだが、そんなことより、と羽織物を手にとった。


 __せめて彼女が様子を見に来る前までには、身支度をすませなければ……。


 発奮したところで、目に飛び込むテーブルの上の変化。


 化粧机とは別の、窓辺のテーブル。


 パンと卵と、鮮度を保つための丸いガラスの蓋に覆われた2つの皿にはそれぞれ、チーズやハム、蜜柑や林檎といった食べ物が、一輪の花とともに置かれていたのだ。


 とてもいい香りがしたが、正体はこれか。


 暖炉の炎も起こされて、やかんがかけられ、衝立にかけておいた昨夜の衣服は回収されていた。

 

 __もう……彼女、来ていた……。


 さきほど聞こえた、かちゃかちゃ、という音は、テーブルにお膳を用意していた音なのだろう。


 早くも目論見が叶わない、と悟ったキルシェが頭を抱えたところで聞こえる、広間の柱時計の音。


 遠くこもってきこえるが、打つ鐘は十。


 追い打ちをかけられたその音の数に、キルシェは重くため息を吐いた。


 この屋敷で世話になる際は、使用人らに負担をあまり強いたくないということもあって、彼らが余裕を持って身支度を済ませられるようにと、8時半ぐらいにお願いしている。


 大学生活では、朝の弓射の鍛錬があるから、この時期は日の出より少し前であるキルシェにとって、今日の起床はあまりにも遅い起床なのだ。


 ビルネンベルクや、大ビルネンベルク公はもう起床しているだろうか。


 __リュディガーは……間違いなく起きているわよね……。


 彼が寝坊をする様は想像できない。


 食事が部屋に運ばれたのであれば、食堂での食事は終わっているのだろう。ひとりだけ来なかった自分のために、部屋に特別に運ばれたのだ。


 今朝は大丈夫です、と豪語していたのにこの体たらく__抱えた頭を振って、キルシェは身支度を整える前に、用意してもらった食事をとることにした。


 キルシェは隣室の室内用のご不浄を使ってから、部屋の洗面器に水差しから水を注いで顔を洗い清め、食事が並べられたテーブルの席へ歩み寄る。


 ティーポットを持って、沸いたお湯を注ごうと暖炉へと向かうと、扉がノックされた。


 どきり、としながらも誰何するキルシェ。


 相手は、リリーであった。


 入室を許し、踏み入った彼女にキルシェは開口一番謝罪した。


「__ゆっくりしてください、などと言っておきながら……すみません」


 いえ、と笑顔を見せるリリー。


「先生たちは、もう……?」


「はい、お目覚めです。__ご不調などございませんか?」


 問いかけながら、キルシェからティーポットを受け取ると、お湯を注ぎ始めるリリー。


「いえ、全く」


「なら、よろしゅうございました。具合が悪いのだろうか、と……なかなか降りていらっしゃらないので、心配しておりました」


 そしてキルシェにはテーブルへ向かうように促すので、キルシェは素直に従い席に座った。


「面目次第もございません……。ぐっすりと休んでおりました……」


 やかんを戻してティーポットをキルシェのテーブルまで運ぶと、それをテーブルへと置くリリー。


「いいんですよ。お顔のお色もよろしいようで、安心いたしました。聞けば、米のお酒をかなりお召だったとのことで」


「え、えぇ……」


「__ドゥーヌミオン様が、様子見がてら食事を運ぶように仰せで、そのようにさせていただきました」


「ありがとうございます。あの……これを運んでくださったのは、どのぐらい前でしたか?」


 キルシェの疑問に、ガラスの蓋を取り去りながらリリーは口を開くのだが、そこで言葉を選ぶように視線が泳いだ。


「実は、たぶん、これを並べているときの音で、一度目覚めてはいるの……で、また寝てしまって……」


 教えてほしい、と表情で促せば、言いにくそうにリリーは言葉を紡ぐ。


「……1時間……は、前になります……」


 おそらくだが、2時間までとは言わないまでも、それぐらい、ということだ。濁す言い方は、リリーなりの優しさ。


「こちらを運んだ時、お声がけしようかと思って、天幕からのぞかせていただいたのですが、お顔のお色もよくぐっすりお休みでしたので、そのままに……」


「そうでしたか……」


 そもそもを考えれば、天幕を昨日開けたまま、窓を眺めて就寝したはずなのだ。


 彼女が食事を運んできて、一旦テーブルへ起き、開いていた天幕から寝姿を確認した。あまりにもよく寝ていたから、天幕を少し開けるようにして締め、食事を並べ__という流れだろう。

 

 キルシェは重い溜息をこぼす。


「と、とにかく、ごゆっくりお食事を。__あ、ジャガイモのスープがご用意できますが、お持ちしましょうか?」


 明るく提案してくれる彼女だが、またもひとつ仕事を増やしてしまう心苦しさに困ったように笑って首をふる。


「いえ、これで十分です。ありがとうございます」


「ご朝食はこの内容ですが、お昼には御節供おせちくとなっておりますので」


 御節供と聞いて、キルシェは、はっ、とした。


 そうだ、今日は元旦だ。


 新年の最初の日。


 __そんな日にこの体たらく……。


 いつもであれば、初日の出は拝むというのにそれさえもできていないとは。


 __しかも、この時期なら、日課の弓射があったから、毎日のように日の出は見ているというのに……。


 内心ため息を零していれば、リリーがお茶をカップに注いでくれた。


 __リュディガーなら、拝めたのでしょうね……。


 自分より遅く就寝しただろうが、彼ならば__。


「では、お食事が終わるころに、また参ります」


「ひ、ひとりでできますが……」


「左様でございましょうが、お食事の食器をどのみち下げに伺いますので」


「それは……そうですね」


 わかりました、とキルシェは苦笑を浮かべる。


「では、これで__あ」


「どうしました?」


「大事なことを失念しておりました」


 怪訝にすれば、リリーは、ふわり、と笑い恭しく丁寧に礼をとる。


「__あけましておめでとうございます」


 それは確かに、とキルシェは席を立ち、リリーへ恭しく丁寧な年が明けた挨拶を返すのだった。

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