可惜夜 Ⅳ

 身体が震えた気がした。


 気のせいだ、と思っていたが、もう一度震えた。


「__キルシェ」


 こごもったような声で名を呼ばれたように思えたが、沈んでいたい欲求が勝ってキルシェは身じろぐ。


「キルシェ」


 さらにもう一度身体が震えた。


 はっきりと名を呼ばれたように思い、キルシェの沈んでいた意識が呼応するように浮上する。


 どうにか重い瞼を開ける。


 部屋は、帝都のビルネンベルクの邸宅で自分に宛てがわれていた部屋に違いなかった。ただ__。


「__様子を見に来て正解だったな」


 笑いを含んだ声はリュディガーで、まさか、と見ればまさしく彼がすぐそばにいた。


 弾かれるように部屋を見渡す。


 寝台でなく、自分は長椅子の背もたれに身を捩るようにして突っ伏し、意識を飛ばしていたらしい。


 ぶるり、と寒気がするのは、風邪ではなく、寝間着に着替えただけの姿だったからだ。


 暖炉の炎は勢いを欠いていて、部屋も冷気がましている。そんな中で、寝間着だけの状態ではそれはそれは寒い__風邪をひきかねない状態だった。


 とんでもない状態でいた事実を突きつけられ、さらに頭がめぐり始めるが、どこか朦朧とするのは睡魔と酔が醒めきっていないかだろう。


「私……」


「寝ていた。風邪をひくぞ」


 キルシェは額を押さえて身体を引き起こす。最後はふらついてしまったのだが、さり気なく添えられいたリュディガーの手が支える。


「リュディガーは戻ったのではないの?」


「戻ったさ。で、お開きになった。__かれこれ君を送り届けてから2時間は経っている」


 え、とキルシェは目を見開く。


「でも、どうして……」


「君があのあと、ちゃんと寝床につけたか心配になってな」


 リュディガーは部屋の扉を振り返る。


「ノックしたが、反応はない。一応、と確認に覗いたら、部屋は暗くなっていたが、寝台の天幕は閉じられていなくてな」


 彼の指摘通り、寝台の天蓋から垂れる厚手の布は、閉じられていなかった。それは無論、キルシェが寝ていないからだ。


「倒れているんじゃないか、とびっくりして踏み入れば__ご覧の有様だった」


 まあ、とキルシェは自身の失態に言葉を失う。


 恥ずかしくなって、顔をうつむかせて額を抑える。


 そこにふわり、とリュディガーが膝掛けを見つけて、肩にかけてくれた。


「安心しろ。先生は知らない。先に部屋へ上がられて、私が最後で……最後なのは、一応、君のことを確認しようという腹積もりがあったからだが」


「ありがとう、リュディガー」


 いや、と笑うリュディガー。


「__もう、寝床には横になれるのか?」


 どうだっただろう、とキルシェはあやふやな記憶をたどる。


 リュディガーを見送って、しばし長椅子に腰掛けて落ち着いてから、衝立の横の椅子に移って着替えをし、化粧を落として、髪を解いて梳き__


「__大丈夫です。一息ついていたところだった……はず……なので……」


 歯切れが悪くなってしまうのは、一息つくのであれば、寝床へ潜るべきだろう、という彼の指摘がありそうだったからだ。


 現に面前の彼は、含みがあるようで肩をすくめて寝台とキルシェとを無言で示す。ではなぜ、とまさしく身振りと表情で問うているのがわかったのだ。


 これには、苦笑を浮かべるキルシェ。


「その……寝てしまうのが惜しいと思って……」


「惜しい?」


「寝たら、夜が開けて朝になっているでしょう?」


「まあ、大抵はそうだな」


「だから、惜しくて……」


 リュディガーは、近くの一人がけの椅子に腰を据えた。続けて、と仕草で促される。


「窓からの景色が綺麗で……」


 身体を捩って見える視界には、大きな窓がある。


 最後の記憶は、その窓からの景色。


 暖炉の炎の明かりだけにしていたとき、窓の外の明るさに驚かされたのだ。たまたま厚手のカーテンの隙間から差し込んだ明かりがあまりにも眩しかった。


 歩み寄って、外を覗くと積もった雪に月影が反射して、下からじわり、と輝く帝都と、帝都の北側の山並、遠くみえる山並みの輪郭がくっきり、と見えて通常の夜では見られない景色が広がっていた。


 それをもうしばらく眺めていたくて、薄衣まであけて長椅子に撚るようにして座って__そこから意識が溶けていくようになくなった。


「昼間、貴方が、日中は眩しくて空を龍で飛ぶのが難儀すると言っていたのを思い出して、想像していたの。夜がこれほどなら、昼間はさぞかしそうなのだろう、と」


 そうして、連なるように思い出すのは、昼間の出来事。


 __リュディガーが借りていた部屋からは、夜はどんな風にみえていたのかしら……。


 眩しいぐらいだったにちがいないだろう。


 それをこの目で見る機会はそう遠からず訪れるだろう__と考えて、彼とは世帯を持つのだ、とか 色々と思考が散らかって、そうして鮮明に思い出されたのは、この部屋へ送り届けてくれたあとの、抱擁やら接吻やら。


 艶っぽい彼の様まで思い起こされて、キルシェは思わず息を詰めて両頬を押さえた。


 そしてごまかすように頬を押さえたまま揉み、深く息を吐きつつ視線を伏せる。


「__それで、そのまま寝てしまっていたのだわ……」


 忘れていた胸の高鳴りが蘇ってしまって、キルシェは困ったが、同時に部屋が暗くてよかった、と安堵もしていた。


「……まぁ、もう横になれるのなら、移ろう」


「え、えぇ……」


 キルシェは差し伸べられる手を取って、引き上げられるように立ち上がる__が、その勢いはきっといつも通りなのだろうに、身体の芯がふやけてしまっていて、半ば振り回されるような形で立たされた。


 その勢いに均衡を崩し、たたらを踏みそうになるのをリュディガーが腰に手を回す形で抱え支えられる。


「なかなか、抜けませんね」


「そうだろう。それなりに酔っているのは間違いない。__悪酔いはしない酒のはずだから、休むといい」


 頷いて寝台へ向かおうと動き出せば、彼は腰に手を回して支えたまま倣って動き出す。どうやら、この体制のままいくらしい。


 心強いが、彼に対する照れがあるキルシェは、気恥ずかしくうつむき気味に寝台までを進んだ。


 寄り添う__もはや抱き抱えられていると言ったほうがいい体制で、冷えた身体には、彼の身体のぬくもりがじくじく、と染みてくる。


 染みてくるほどに、彼への愛しさは間違いなくはっきりと認識できて、それが彼に悟られてしまうのではないか。そうなったら、また__と拍動が早くなった。


 そうしているうちに、寝台へたどり着き、彼から逃げるようにして離れて寝台にからだを滑り込ませるキルシェ。


 だが、彼がいる手前、上体は起こしたまま__とそこで、離れた彼が開け放たれたカーテンを閉めに向かうのが見えた。


「待って。__開けておいて」


 踵を止めたリュディガーは、しかし、と口を開くのだが、キルシェはふわり、と笑った。


「今夜は、リュディガーも同じ階にいて、何かあれば駆けつけてくれるのでしょう?」


「……わかった」


 やれやれ、とリュディガーは首を振るが、その表情は穏やかに笑んでいた。


 そうして、歩み寄ってくるリュディガー。その歩みは、自分と違ってしっかりとした足取りだから驚かされる。


「リュディガーは、あのあとも飲んでいたのでしょう?」


「ああ」


「まるで、平気なのね」


 いや、と笑ったリュディガーは、寝台の縁に腰掛けると、キルシェへと顔を近づけた。


 びっくり強張っていると、リュディガーは耳打ちする。


「__酔ってはいるさ」


 熱い吐息混じりに囁かれ、キルシェはぞくり、と震えた。


 小さく息を詰めたのを彼は笑い、軽く口づけして寝台から離れるリュディガー。


「これで、安心だ」


 口角に一層深く笑みを刻んで、リュディガーは踵を返す。


 その大きな背中を、キルシェは胸元を握りしめて見送った。


 扉を開けて、今一度かれは振り返るリュディガー。


「__おやすみ」


「お、おやすみ、なさい……」


 扉の向こうに彼が消え、キルシェはそこで大きく息を吐き出し、窓が見える側以外の天幕を手早く閉めて、寝台に見を横たえる。


 とくとく、と早い鼓動。胸の奥底に広がる、春めいた心地に、目を閉じて深く呼吸を繰り返す。


 そうしていると、強張っていた表情が緩み、窓から見える冴え冴えとした景色を見つめた。


 __開けるのが惜しいのは……景色だけじゃない……。


 自分は、この春めいた心地、多幸感にいましばらく浸っていたいのだと、わかった。

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