身支度 Ⅱ

 怪訝にしながらも、素直に従って化粧机の前まで移動すれば、彼はその巾着を開けて、硝子の小瓶を取り出す。


 その硝子の小瓶は一握りほどの大きさで、細長い。ほんのり鮮やかな黄色の液体が満たされていて、栓と足も特に目立った装飾はないものだった。


「香水……?」


 何故、と怪訝にリュディガーを見れば、彼は肩をすくめる。


「香水、変えただろう?」


「え……。あぁ……ええ、そうね。よく使っていたものは、終わってしまいそうで……しばらく代わりの物を使っているの」


「なるほどな。ここずっと違う香りだったから、無くなったのか、と」


 気に入っていたものは、帝都でしか売っていない。


 故郷のイェソドへ戻っている間は、代替の香水で過ごしていて、なるべく気に入りのは使わないで過ごしていた。


 帝都に戻ってからいつでも贖える、と思っていたものの、中々新しい物を用意できず、相変わらずずっと代替の香水である。


 おそらくリリーに頼めば用意してくれるだろうが、彼女はあくまでビルネンベルクの使用人だから、私用を頼むことができなかった。


 最後に使ったのは、冬至の魂振儀があった日だ。


「いよいよ止めを刺してしまいそうで……。よく気が付きましたね」


 リュディガーが視線で香りを試すように促すので、キルシェは封を切って栓を抜いて香りを嗅ぐ。


「__」


 嗅いだ途端、にわかには信じがたく、キルシェはその後何度も鼻を近づけて確かめた。


「……嘘……」


 言葉を失って瓶を眺めるキルシェは、化粧机の隅にひっそりと置いているある瓶を手に取る。その瓶は、底にほんのりと薄い色の液がへばりつくようにあるもので、リュディガーから手渡された物とは異なり、一回りは大きく、栓と足は彫金された錫で装飾がほどこされていた。


 左右の小瓶を見比べて、キルシェは装飾がある香水瓶を開けて、中の香りを嗅ぎ、改めて質素な小瓶の香りを嗅ぎ、比べる。


 その様を見て、リュディガーが微かに笑った。


「西の大通りの、角の店。__それで、間違いなかったか?」


「よく……見つけられましたね」


 間違いなく、質素な小瓶の香水は、同じものだ。


 驚きと、高揚、そして興奮でキルシェの心臓は早く打つ。


「君の香りだからな」


 心臓がひとつはずんで、ぼっ、と顔が火照るのがわかった。鏡をちらり、と盗み見れば、顔が耳まで赤くなっている。


「それを持ちに、今日はあの借りた部屋へ寄ったんだ」


「そ、そうでしたか……」


 なるほど、たしかに何かを回収していたのは見たが、これだったとは__。


「前、通りかかった店で、君の香りがして……なんで君が勝手に出歩いているんだ、と驚いて姿を探したが居なかった。先生と一緒ならいいが、と探している時、香水をいくつか試している婦人らがいて……勘違いだったとわかった。同時にそういえば、しばらく君がこの香りではなかったのを思い出してな。もしかしたら、ないのかもしれない、と。試して見て、君の使っていたものに近いな、と思ったんだが、違っていても困らない程度の量を贖った。__で、ほら……君の知るように、渡せる機会がなかった」


 君の知るように、という言葉にキルシェは、困ったように笑うことしかできなかった。つい数時間前の苦い思いが蘇ってきたのだ。


「同じものならよかった」


「……ありがとう。まさしくだわ」


「お代は、なんて野暮なことは言わないでくれよ。私の数少ない甲斐性だと思ってくれ」


 リュディガーの冗談めかした言い方に、キルシェは、くすり、と笑って頷いた。


 おそらく言われなければ、お代は、と言っていたと思う。


 __彼は、よくわかっている……。よく観察していて……。


 本当に、さり気ないところで、大切にされているのだと実感する。


 胸の奥からじんわり、と温かさが溢れてきて、キルシェは手にしていた装飾のされた香水瓶を元の場所へ戻す。


「早速、使わせてもらいますね」


 言って化粧机の椅子に腰を下ろした。そして、香水瓶を逆さまにし、栓の内側が液に浸るようにしたところで、鏡越しにリュディガーが口を開く。


「今は代わりの物をつけていたんじゃないのか? 身支度は終わったと……」


「香水は、いつも最後なの。いまもし何か香りを感じるのなら、化粧品とか香とか、別の香りだと」


「なるほど」


 部屋を見渡すリュディガーに、ふふ、と笑いながらキルシェは栓を抜き、付着した香水液を左右の手首に塗布する。こすり合わせてから耳飾りのあたり__耳の裏に近い首筋に、それぞれの手首を押し当てて匂いを移した。


 自身にもほんのり、と香る程度。


「それは、鈴蘭の香りだったのだな」


「えぇ、そう」


 瓶に栓をして、限りなく空の香水瓶の並びに置く。


「鈴蘭に香りがあったなんて知らなかった」


「最初は香りが好みで……何の香りだろうとみたら、鈴蘭の香りだと知って、意外に思ったの」


5月に花咲くマイャリス谷間コンバラリア__と言うのもあってか?」


 さすが言語学の権威の担当教官ビルネンベルクの愛弟子で、特殊な任務に際し特別な言語まで教授されただけのことはある。


「それも少なからずあるわ。でも一番は香り」


 __あとで移しておこう。


 ちらり、と時間をみれば、そろそろ移動していい頃合いだ。


 キルシェは腰掛けたまま体を捻って、リュディガーへ体を向ける。


「ありがとう、リュディガー。本当に嬉しいです」


 なんの、と笑うリュディガーに笑い、キルシェはすっく、と立ち上がって移動しようと視線と仕草で提案すると、意図を察した彼は頷く。


 そして扉へ向かって歩み、彼に並んだところで一度歩みを止めて見上げると、彼が笑んで誘うように背後の腰に手を回す。


「あぁ……」


「何?」


 一歩踏み出そうとしたところで、思い出したような声を発するリュディガー。その彼を改めて見上げる隙があらばこそ、腰にある彼の手が滑って引き寄せられ、もう一方の腕も回されて、あっという間に彼の腕の中に収められてしまった。


 そして、背の高い彼が肩口近くまで顔を寄せてくるものだから、キルシェは反射的に身体をこわばらせる。


 それこそ深く呼吸をするリュディガーに、キルシェは身構えて息を止めてしまう。


「……そうそう。この香りだ」


 吐息混じりのその声は、あまりにも耳に甘く、身体の芯が震えるほど。


「今少し違う気がしていたんだが……そうか、君の香りも混じっていなかったからだな」


「リュディガー……っ」


 腰のくびれをなぞる手つきに、いくらかの下心が透けて見え、息を詰めるキルシェ。


 くすくす、と笑う彼に、キルシェは顔が火照って言葉が紡げずにいる。


 からかっているわけではないが、彼のときどき見せる行動や言動は、ひどくキルシェには毒に近いと思えることがある。


 今がまさしくそれだ。


 普段、清廉潔白とした彼がこんなことをするとは思えないでいるから、こうして目の当たりにすると、強く異性としての色気を意識させられて、ただ翻弄されるばかり。


「__あ、あの……リュディガー……そろそろ、行かないと」


「ああ、そうだな」


「呼びに来ますよ」


「声がかかるまで、こうしているのも悪くないが」


 腰のあたりを撫でる手でくびれを引き寄せながら、艶っぽ囁かれ、体の奥が疼くように、ぞわり、と震えた。


 __駄目、無理……っ!


 そのあと、取り繕うこともままならない自分の姿が容易に想像できる。


「せ、先生に、からかわれますよ?」


 逃れるために、ふいに浮かんだ、先生、という言葉。


 自分でも、ビルネンベルクにからかわれるのは避けたいのだ。


 __しかも、リュディガーとのことで……。


 紛うことなき、婚約中の相手とのことで。


「……それは、嫌だな」


 言ってリュディガーは一度強く抱きしめて、大きく吸い込み、吐息のように熱っぽく吐き出すと、わずかに身を引いた。


 そして見られる憮然とした顔に、キルシェは苦笑する。


 彼にとって、ビルネンベルクに茶化されることは、尊敬する恩師とは言え、耐え難く、なるべく避けたいことをキルシェは知っている。


 何故ならば、ビルネンベルクは気に入りであるリュディガーへは、容赦ないのだ。


「__でしょう?」


 このまま開放されるのだ、とおもったのだが、リュディガーは改めて抱きしめて、今一度肩口に顔を寄せてきた。


 その直後、首筋に唇を当てられて、キルシェは思わず小さな悲鳴を上げた。


 途端に血が沸騰するように身体が熱くなって、口から出そうなくらい心臓が暴れ始める。


「ちょっ……」


 流石に強めに大きな身体を押しやろうと、胸元に当てていた手に力を込めれば、彼は身体をいくらか離した。


 信じられない、なんてことを、と抗議の視線を向けるのだが、彼は軽く肩をすくめるだけで流してしまう。


「__さて、行こうか」


 そう言って促す顔は、憎らしいくらい、人の悪い笑みに見えてならない。


 だとしても、こうした状況での上手い抗議の仕方が浮かばないキルシェ。彼もまたそれは承知だろう。


 そんな思惑も透けて見えるのだが、彼の身体を肘で軽く小突く抗議が、キルシェの精一杯だった。


 なんとか平静を取り戻そうと努めていると、すぐそばで、くつくつ、と喉の奥で笑う声がする。


 いっそう彼が憎めしい__が、憎みきれない自分がいる。

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