大晦日 Ⅲ
キルシェは部屋に籠もるものの、昼前にビルネンベルクによって呼び出される。
相変わらず上品な香が漂う私室は、暖炉で温められた空気がぼんやりと広がって包み込んでくる。その柔らかい温かさは、ビルネンベルクの懐の深さを物語っているようであった。
「__キルシェ、今日は何か予定があるかい?」
淹れてもらった温かいお茶の湯呑を包み込み、指先を温めていたキルシェは、ビルネンベルクの言葉にきょとん、としてしまった。
「先生のお宅に招かれておりますが……それ以外には、特に」
「なら、時間の融通は利くかな?」
「……はい」
少し迷ったのを見たビルネンベルク苦笑を浮かべる。
「昼前に、お使いをひとつ頼まれてほしいのだよ」
「お使い、ですか」
「そう」
言いながら、ビルネンベルクは封筒をキルシェの前に差し出す。
「__これを屋敷へ届けてほしい。昼前に、というのは、この雪だから早めに動いておいたほうがいい、ということでね」
「えぇっと……屋敷というのは、帝都の、でしょうか?」
「無論。私が行くつもりでいたのだけど、この雪では会議までに戻るというのが難しそうで……。キルシェもどのみち行くことには違いなかったわけだし……屋敷についたら、そのまま寛ぐでもよし……頼めるかい?」
キルシェは、内心苦笑をうかべつつも、こくり、と頷く。
「よかった。助かるよ。__じゃあ、ちょっといいかい?」
促し立ち上がるビルネンベルクにキルシェは、きょとん、としつつも従う。封書を手に席を立ち、外套を手に取ろうとすれば、ビルネンベルクがさらり、と取ってしまった。
キルシェの背後に回ってその外套を羽織らせる所作は、気取っているわけでもなく、彼にとっては当たり前のもの。
素直にそれを受けて、キルシェは袖を通した。
法衣の上に外套を羽織ったビルネンベルクは、キルシェを伴い部屋をあとにする。部屋とは打って変わってじわり、と寒さが支配する廊下へ出、気づかれないように小さく身震いをして、二人は階段を降りていく。
やはりいつもよりも明るい__そんなことを思いながら、すらり、と長い背に続くと、やがて棟の外へ出た。
目を焼くばかりの白い景色に目を細めていると、ビルネンベルクはひとつ大きく外の空気を吸い込んだ。キルシェもつられて、そうしていれば、ビルネンベルクの長く威厳に溢れた立ち耳が珍しく動く。
「__流石だ。仕事が早い」
くつり、と笑いながらひとりごちるビルネンベルク。
言葉の意味するところがわからず怪訝にしていれば、キルシェの視線に気づいて彼は顔をそのままに視線だけ向けてくる。
その目はいかにも楽しんでいるよう。
そして、雪景色へ彼は何を言うわけでもなく、踏み出した。
__音が、遠い……。
早朝よりは、確かにある。
梢に飛び交う鳥が、餌場を相談しているのか、賑やかに鳴いているし、時折雪が落ちる音もする。
音の種類は増えたが、雪が音を食べてしまっているように、響かない。
はぁ、と白い息を吐き出し、その息の行く先を追えば、抜けるような蒼の面色が、枯れ枝、針葉樹の向こうに広がっている。夏のそれよりも抜けて見え、太陽さえ視界に入らなければ、前方を見るよりは眩しくはない。
ビルネンベルクのあとに続けば、道もできているし__
__あら、道がある……。
あまりにも不自由なく歩ける足元に気づき、視線を落としたキルシェ。
ビルネンベルクが先行しているから、道は踏み固められてできたものだろう、と思ったが、その程度でこれほど歩きやすいはずがない。
人一人分は余裕を持って歩ける幅で、石畳まで見えるのだ。その両脇に、盛り上がった雪は、追いやられて盛り上がったようにしか見えない。
__雪かき……してある……。
やがて前方から、ざっ、ざっ、とほぼほぼ規則正しい間隔で聞こえる鈍い音は、雪を掻く音のように思うが、ビルネンベルクの背で確認できない。
「精が出るね、リュディガー」
やや張って呼んだ名に、キルシェは目を剥いた。
少しばかり身を乗り出してみれば、轍のような道の先にいるリュディガーが雪に農具をざっくりと刺したところで動きを止めた。
近づいていくと、彼は農具を引き抜いて改めて雪に突き立てる。
「率先してやってくれるとは、学生の鑑だねぇ」
雪を払うリュディガーは、はぁ、とわざとらしいため息を漏らし、項垂れながら首をふる。
「__これでは出入りが難儀してしまうなぁ、遭難するかもしれない、どうしようねぇ、と大げさに嘆いて、言外にやれ、とおっしゃった方が何をおっしゃいます」
「そういう敏さが気に入りなんだよ」
「敏いとかそんなもの要らないほど、にじみ出てましたよ、要求が」
くつくつ、と笑うビルネンベルク。
「しかしながら、独りでやるとは思いもしなかったが」
「ここ数日は、潰れている者が多いですから、使える者でかつ気持ちよく引き受けてくれる者を探す方が手間なんですよ。その時間があれば、やってしまった方が早い」
「あぁ、なるほど。__てっきり、手柄を独り占めしたいのだと思ったよ」
「また、そういうことを仰る。__それで、どうなさいました?」
リュディガーはビルネンベルクへ身体を向け、その時やっとキルシェがいることに気づいた。
視線があって、彼がわずかに目を見開いたのに対し、キルシェは軽く会釈をする。
「__キルシェにお使いを頼んだのだよ」
お使い、とつぶやくリュディガーは、眉をひそめる。
「帝都の屋敷へ、届け物をね。私が行くつもりだったが、この雪では会議までに戻ってこられない可能性があって……。今夜キルシェは、来ることになっていたし、それでお願いしたのだよ」
キルシェが動くとなれば、警護の任にあてられているリュディガーも動くことになる。
休学する前の感覚が未だにあるせいで失念しがちだが、今の彼は学友として、時間がよく合うからという理由で、よくそばにいるわけではない。
いわゆる、ついうっかりの失念__そこまで考えが及ばなかったキルシェは、内心頭を抱えた。
__今朝、私……。
「……彼女は、用事があると申しておりましたが。それで、今日は籠もりたい、と」
リュディガーの言葉に、ぎくり、と身体がはずんだ。
「おや」
「ですから私は、今日は用事は件の招待まで得にはないと申し上げて、こうしておりますが」
こうして、とリュディガーは両手を使って雪に突き立てた農具と雪を掻いた跡を示す。
「おやおやおや、そうだったのかい?」
二人の視線__特にリュディガーの視線がキルシェには居心地悪く感じられてしまった。
それは、今朝やることがある、と彼の誘いを断ったという経緯があるからだ。
キルシェはぐらかすように笑いながら、言葉を探す。
「その……優先順位は、先生のお使いの方が優先ですから。私のは、大したことではないですので」
「しかし、キルシェ、私のお願い事を優先してくれるのは嬉しいし、ありがたいことなのだがね、内容によっては断ることは当然の権利だよ。」
「それは……はい、承知しております。ですが、今日のは……そこまで……」
「大切ではないのかい?」
「……あぁ……大切ではあるのですが、時間をみつけてできなくはない、ので……ですから、取り戻せるといえばそうですので……」
リュディガーの居る手前、当たり障りのない、だからといって嘘ではないことを伝えるのに難儀し、あまりにも歯切れの悪い回答になったキルシェ。
ふむ、と唸るビルネンベルクはリュディガーを見る。
リュディガーは難しい顔をしていたが、視線を受けて肩をすくめた。
「彼女がいいのであれば、いいのでは? 自分は、決定に従うだけです」
武官らしい口調で言うリュディガーは、姿勢もそれらしくとっている。
その態度から、どこか余所余所しさをキルシェは感じられて、彼がやはり含むところがあるのだ、と察せられるのだった。
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