大晦日 Ⅰ

 その翌日から、帝都はいっそう底冷えするようになった。


 冬至に宮中で催された神事が終わり、龍帝の権威の象徴である太陽の勢いは再び戻ってくるはずだが、未だ寒さは強い。


 確かに、米粒ひと粒ずつぐらいには陽は伸びてきている。だが、そのような気がする、というぼんやりとした程度で、常に観測をしているわけではない一般人には認知しにくいもの。


 数週間ごと経過していくにつれ、ふと、あぁ、陽が伸びたなぁ、と感じる程度なのだ。


 帝都では、冬至を過ぎてから雪が降ることが多いということが、そうさせる要因なのだと思う。


 はぁ、と温かい息を吐いて手指を温めるが、焼け石に水のようなもの。白い息を見送りながら、こすり合わせて温める。


 黒い倉の重厚な扉の前まで来たキルシェは、その前で動きを止めた。


「……」


 確かに重いことは重い。だが、それに躊躇っているのではないのだ。ここの扉は外気と同じ温度_

_今で言えば、氷さえ貼る冷え込みの外気そのものだから。


 試しに触れてみる。


 __あら……。


 思いの外大丈夫か、と思い、取手を握った刹那、一気に浅はかさを思い知り、キルシェは手を引っ込めて握り込む。


「……まぁ……そうよね……」


 手袋を持ってくれば良かったとは思うが、以前そうやって持ってきて、倉で紛失してしまったことがある。それは結局見つからなかった。紛失したことに気づいたのが、その日の夕方だったから、というのもあるのだろう。


 なにせ、この倉で弓射の用具を取り出したあと、日課である弓射をこなしている最中も手袋はしないから、手袋の存在を忘れてしまうのだ。そうして気温が暖かくなり、夕方の冷え込みが染みる時間になって、はっ、と手袋のことを思い出したのだ。


 後日、学友が見つけて届けてくれたそれは、なにかの生き物にかじられてしまって、直してどうにかなるような状態ではなかったのである。


 大学へ復帰して、冷え込むようになった昨今、それを教訓としていたはずなのに、懲りずにこりずにもう一度してしまい、それは未だに見つかっていない。


 __外出用でなかったのは幸いだったのよね。


 自嘲してから、手を入念に温めて、決意をして改めて強い意志で取手を取ろうとしたときだった。


「__おはよう、キルシェ」


 背後から声がかかって、不意打ちを食らったように身体を弾ませたキルシェは振り返った。


 見れば、声をかけたのはリュディガーだった。


 屈強な体躯の彼でさえ、珍しく襟巻きをしているから、やはり今朝はとみに冷えているのだと痛感する。


「おはようございます、リュディガー」


「弓射か?」


「ええ」


「久しぶりだな」


「気分転換に、と」


 キルシェはここのところ、部屋にこもりがちで、日課だった弓射の朝の鍛錬__憂さ晴らしとも言う__をしていなかった。


 リュディガーは、日中会うことがあれば交わす会話の中で、毎朝弓射の鍛錬をしているらしかった。


「__で、どうして、倉の前で?」


「扉が冷たくて。覚悟を決めていました」


 あぁ、と笑ったリュディガーは、白い息を吐きながら、周囲__背後を見やる。


 昨日の夕暮れ近くから振り始めた雪が、白み始めた空を弾いて周囲を明るく照らしている。


「膝下くらい積もったな」


「そうね」


 リュディガーはキルシェの脇を進んで、扉へ手をかけると、ためらうことなく開ける。重厚な見た目通りの音を立てて動く扉。その奥に見えた倉は、いつもより明るい。


 外の雪が、光を反射してそれが格子の窓から入り込んでいるからだろう。


「私が寝る頃には、降り方は弱くなっていたが」


「あら? そうだったかしら?」


 踏み入るリュディガーに続いて、キルシェも入り、目的の弓と矢筒の置き場へ足を向けながら、大きな背中へ言う。


 キルシェが寝たのは、日付が変わる頃。手元の蝋燭がかなり短くなり、暖炉も熾になっていたため、頃合いだと見切りをつけて、寒さから逃げるように布団へ入ったのだ。


 リュディガーも、切羽詰まって勉強に追われている立場ではないから、日付が変わるぐらいには寝るらしい、とは聞いているから思わず首を傾げた。


「あぁ……昨夜は、介抱役をしていたから」


「介抱? それって……」


 たどり着いた置き場で、肩をすくめる様に伸びをするリュディガー。


「ほら、卒業を迎えられる者と、残念だった者と、見送る者と、喜びと悲しみが交錯する酒の席。褒められない飲み方がある程度赦される場だな」


 新年を区切りとして、卒業の合否判定が下る。


新年は明日。今日が年の瀬__大晦日おおつごもり


 つまりは、今日まで。


 結果が出てみないことには分からないのはもちろんだが、体感である程度卒業できるか否かはわかるものだし、各学科の教官からの前触れ__成績がとくに振るわなければ__あるものだから、冬至をすぎればどちらかに確定する。


「リュディガーも飲んだの?」


 いや、とリュディガーは笑いながら、自身も弓を持ち、矢筒をふたつ手に取った。


「__忘れているかもしれないが、これでも警護の任務中だぞ」


「そうだったわね」


 キルシェが思っている以上に、色々と制約があるのだろう。


 比較的安全とされている帝都の、それも大学で


「飲んでいるフリはしたが」


「気付かれないの?」


「かなり混沌としているからな」


 キルシェは、目をパチクリさせた。それを見て、リュディガーは小さく笑うと矢筒をキルシェへと渡す。


 さぁ、と促され、キルシェが倉の外へ向かうと、今度はリュディガーが続く形だ。


 倉から出ると、途端に寒さが襲ってくる。蔵の中は、いくらか温かかったのだろう。


 雪の白さに目を細めて手を握り込んで温め、続いて出てきたリュディガーの気配で振り返る。


 重い音を立てて、リュディガーによって閉められる扉。


 彼もまた手袋をしていないのだが、扉の冷たさにまるで動じていないから感心してしまう。


「開閉を任せてしまいましたね」


 なんの、と笑うリュディガー。


「冷たかったでしょう?」


「ああ、まあそれなりに」


 リュディガーもまた手を擦って温めながら、息を吐きかける。


「……まっさらだな。清々しいぐらいに」


 リュディガーは視線をずらして、弓射の広場をみやった。つられてキルシェも見やるが、やはり白さが目に眩しく思わず細める。


「今日、空を警邏けいらする奴らは、眩しいだろうな」


 空を見上げながら、先んじて広場に出るリュディガー。


 キルシェも倣えば、星とともに闇夜が溶けてきた空は快晴で、このまま日が出れば眩しいことは違いない。


 幼少期にいた寄宿学校も雪深い地域だったから、毎日眩しい記憶がある。


 東のイェソド州でも、随一の高さに住んでいたから、冬場見下ろす景色はそれはそれは眩しかった。

 

 __でも、それが嬉しかった。


 目に見えて見える変化は、ありがたかった。


 見違えるほど輝く昼間。そこを行き交う人々もいつもよりよく捉えることができるし、夜でも月明かりだけで細部まで見えるから、とても新鮮だった。


「降雪中でも、龍で飛ぶことはあるの?」


「あるさ。雪が降ったからって、魔物も家に籠もるなんてことはないからな。__本当に、寒い。加えて昼間は目をやるほど眩しいから、寒さをやり過ごすために低く飛ぶと、照り返しがきつくてほとんど見てられない。__龍の目が頼りだ」


 そうなの、とキルシェは帝国の北に弧を描いてそびえる、岩山をみやった。


 そこには、帝国が誇る龍帝従騎士団が駆る龍の巣があり、その膝下には彼の所属する騎士団の本部がある。

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