卒業間近 Ⅱ
お湯を注ぐ柄杓の細く長い柄が、細く長い腕の延長のように錯覚するのは、指先の細さと磨かれた所作のせいだろう。
ただ湯を注ぐだけでこれほど視線を釘付けにできる所作なのは、彼の生まれ育った環境に裏打ちされているのだとキルシェは思う。
「__あぁ、そうそう、リュディガーといえば、さすが中隊長殿だね。さっきの誰を頼れば良いのかって愚痴を話したら、他の学生を、ちゃんと育ててこないからそうなるんですよ、と言われたよ」
えらくなったものだよ、とビルネンベルクはくつり、と笑いながらティーポットの蓋をして、一人がけのソファーへと腰を下ろす。
「__部下をしっかり育ててきて、その部下に席を取られて戻れない中隊長殿が言うと説得力が違うね」
「……まさか、それも彼に……?」
「面白いことを言うからねぇ、言わずにはいられなかった。いい顔をしたのだよ、これが」
くつくつ、と笑うビルネンベルク。
リュディガーは帝国が世界に誇る少数精鋭の部隊__龍帝従騎士団のひとり。龍を駆る龍騎士である。
龍騎士は、このエーデルドラクセニア帝国の君主・龍帝の大御心の体現者であるとされる。故に、武芸だけでなく、為人も求められる。
帝国民であれば誰しもが羨望する的といっても過言ではない。
彼はその部隊の中隊長であったが、中隊長に叙されてそう経たず、志を抱いて暇をもらい、大学へ入学した男だった。
彼は入学後、3年で卒業した。そして古巣である龍帝従騎士団に戻ったが、一年後特殊な任務に就くにあたり、退団し中隊長の地位を返上した形を取ったのだ。
その任務が明けいざ戻ろうとしたものの、退団をした形を取ったため、空位だった中隊長の座には部下がついていた。空位にしておくわけにはいかないし、退団した彼の為に空位にしておくことのほうが、不自然だったからだ。
そして他にも空きはなく、本人は名ばかりの中隊長とならざるをえなかった。
__忠義の果は概して忘恩なり、とはよく言ったものだけれど……。
これは、龍騎士が真っ先に
すべての任務において、見返りを求めて行動をするべきではない。見返りはそもそも無いものと思え、という教えだ。
人知れず任務につき、人知れず命を賭していた彼には、あまりにもな状況であるが、その教えの通り、叩き上げの彼は地位に拘りもないこともあって、気にしていない様子だった。
ビルネンベルクは、彼のことも、立場もよく知っているはずだが、よくそれをつつくのである。
よく諧謔を呈する彼は、時に、嫌味のような皮肉じみたことを言う。それは本当に一部の、よく気心が知れた間柄でのみ、かつ相手の尊厳を踏みにじるほどのものではない。その中にリュディガーは含まれている。
__とりわけ、気に入りだ、と言う学生にはするんだ、あの方は。
渋い顔をして言ったリュディガーが思い出されてキルシェは笑った。
「あまりいじめないであげて下さい」
「だってねぇ、彼、最近、容赦ないんだよ。落第させたことが、よほど気に食わなかったらしい」
「それは……あり得るかもしれないですね。__すみません」
大学では必修の科目がある。その中に、弓射と乗馬がある。
軍学ではないから、そこまで高度なことを求められてはいないものの、最低限の基準はあり、そこを通過するには、そこそこの鍛錬が要するものという位置づけ。
武芸に秀でている武官であるはずの彼は、弓射だけはどうしても成績が振るわず、3年前、担当教官であるビルネンベルクに頼まれて、弓射が得意だったキルシェが指南役として彼の面倒を見ることになった。
それが彼との交流が始まるきっかけ。
その当時は無事、弓射を修了できたリュディガー。
その後キルシェが退学__これは秘密裏に休学扱いになっていた__から復学した3ヶ月ほど前、警護をつける必要があったため、任務の弊害で元の地位に戻れずにいたリュディガーをあてがうことになった。
そもそも彼は、学生だったから大学の色々な事柄への心得もある。加えて弓射の一点は、当時の大学でも、あの龍騎士なのに、と噂になるぐらい不得手だったことは知られている。故に弓射を落第扱いとして、彼を呼び戻し、学生扱いという体裁にしたのだ。
「いやいや、君のせいじゃないよ。そうするのが一番自然だった。__ただまぁ、ちょっと頑張ればできる必修の弓射で落第した初めての学生、という伝説の人になってしまったのだからね。面白くはないのだろう」
リュディガーと担当教官であるビルネンベルクは、冗談で落第について揶揄しあって話題にしていることがあって、リュディガーも納得して笑い話にしているのだが、やはり自分のせいで、巻き込まれる形となった彼には、つくづく申し訳なく思っている。
「妙案だったから、悪いとは思ってはいないよ。__ああ、これも言ったら、処置なしという顔をされたね」
ビルネンベルクは徐にティーポットへ手を添えて、カップに注ぎ、キルシェの前へひとつ配した。
礼を述べて受け、ビルネンベルクは笑んで自身もカップを手に取ると燻らせて香りを愉しみ、口に含む。
「__本当に、可愛がりのある学生だ」
喉へ流し込み、くすり、と笑ってビルネンベルクは呟いた。
「彼もまた、居なくなってしまうのは、なんともつまらない」
「ご挨拶に伺いますよ」
「そう言って、中々来ないのだよねぇ、みんな。__あぁ、君は違うだろうけどね。何と言っても私は後見人だから」
キルシェの後見人は、他ならぬ彼ドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルクだ。
キルシェには、身寄りはいない。いくら身寄りがいなくなったとはいえ、成人であるから後見人は本来必要ないものの、帝都における身元引受人が必要だった。
自分には自覚がないが、生まれながらにして帝国における特殊な血胤者だったらしいのだ。それは寝耳に水もいいところの出来事。
国家の重鎮であるビルネンベルク家の彼が後見人になることは、当然であり、キルシェにとってこれ以上無いほどの後ろ盾であった。
帝都にあるビルネンベルクの邸宅にも、ありがたいことに私室をあてがってもらっていて、高価な私物の一部はそちらで管理してもらっている。卒業後も、身が固まるまではそこで世話になることになっている。
__卒業後か……。
「ところで、君らは順調なのかい?」
「……はい」
お陰様で、と気恥ずかしくてキルシェはややうつむく。
カップを置いて、ビルネンベルクは肘掛けへ軽く重心を寄せた。
そして、無言になってじぃっと見つめてくるので、キルシェは困惑を隠せない。
「……気にかけてほしい、とは言ったが、ここまでのことになるとはね」
「ぇ……」
口元に緩く弧を描くビルネンベルクは、目を細めた。
「昔ね、何かの折……確か……あぁ、思い出した。あれは……そうそう、私のお使いで薬草の束を運んでくれた日に、疲れてるだろうに、律儀に君はリュディガーの弓射の指南を夕刻にして、その最中に眠りこけてしまったのを、覚えているかい?」
「えぇっと……それは、リュディガーが寮の部屋まで運んでくれた日……でしたっけ……?」
「そうそう。そのときにね、そういうお願いをしていたのだ。__キルシェは育ちが良いから、下手な者には任せられない。だからといって私が、ひとりの学生に贔屓するようなことをしてはならないからそう思って、ちょっとそのように言っておいたんだ」
そんなことがあったのか、とキルシェは目をパチクリさせた。
それを見て、ビルネンベルクは笑みを深める。
「__リュディガーが落第したくないのなら、ちょうどよいだろう、とね。一石二鳥だから」
呆気にとられていれば、その笑みが人の悪い笑みになり、彼はお茶の香りを嗅いで一口含む。
「なんとも感慨深いよ」
キルシェはどう反応していいかわからず、口の中の乾きを癒そうと口に含む。
「さぁ、これを飲んだら、出発しようか」
「は、はい」
なにやら頬が妙に熱く感じるが、きっと部屋の片付けで手足の末端が冷えてしまって火照っているだけに違いない。
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