【完結】出戻り令嬢の三度目の求婚

丸山 あい

卒業間近 Ⅰ

 書棚や机はもちろん、特に普段そこまで頻繁に使わないところから書物を取り出して、床に店を広げるキルシェ。


 キルシェは3ヶ月足らずしか在籍していなかったし、自身の卒業に必要な最低限のものしか手配していなかったから、両手を広げる範囲に留まる規模だった。


 この中で、持ち出し分は皆無。


 大学の学を修めるのに必要なものは、もちろん持ってはいたが、それは3年前に手放してしまっていたから、ここには不要になった人から譲り受けたものだけ。


 本__特に大学で使うような本は、とても高価。故に、先輩から後輩へと譲っていく伝統ができている。中には、大事に大事に扱う人の手にわたってきて、何代目か__という具合に年季が入っているものもある。


 まだまだ渡せるものを見極めて、広げたものを整理していく。


 __2度目よね……。


 3年前に手放したときも、こうしていた。


 懐かしいものだ。


 当時は、卒業間近で退学を余儀なくされて、志半ばでの出来事。悔しさと哀しさばかりで、これを譲り渡す人は、自分と同じような目にあわず、無事卒業を迎えられるように、と願をかけて分けていたが、今は清々しい気持ちでこれができる。


 まさかまた大学へ戻って、卒業までの不足分だけを履修し直すことで、卒業を迎えることができる__そんな幸運に恵まれるとは思いもしなかったから、本当に嬉しい。


 退学扱いではなく、休学扱いにしていてくれた恩師や学長、そして、それに対応してくれた他の教官らにも感謝してもしきれない。


 __リュディガーにも。


 手に取った一冊。


 大きめのそれは、他の本と同様分厚く、装丁も重厚なもので、とりわけ目立っているものではないのだが、これは自身が退学することになったとき、特に親しいリュディガーという学生に譲ったものだ。


 リュディガーは当時、順当にいってもあと2年はかかるだろうという修めるべき学の量があった。この本以外にも、10冊程度は渡しているはずで、そのほとんどは他の生徒の元へ行ってしまっている。


 この一冊含め、彼に渡したうちの3冊が戻ってきているのは、その3冊だけは恩師の手に渡されていたかららしい。


 __お陰で、困らずに復帰できたわ。


 そういえば、と思い出す。


 絶望を抱えて、当時はこれを彼に譲るようまとめていた、と。


 告げられないこと、ひとり抱え続けていたこと、それらを彼に吐き出してしまうと、彼は間違いなく損得勘定はせず手を差し伸べてしまって要らぬ不利益を被ることが目に見えていたから、嘘を突き通して彼を拒絶したのだ。


「……本当に、こんな風に好転するとは思わなかった……」


 キルシェは、左手の薬指に嵌められた指輪を見る。


 この帝国では、婚約関係になると左手の薬指に、婚姻後は右手の薬指に指輪をはめるのがしきたりだ。


 無論、全てが穏やかに好転したわけではない。死を覚悟するぐらいの、荒療治のような困難を乗り越えねばならなかったのだから__。


 今となっては、ある程度穏やかに思い出せるようになったキルシェは、自嘲してその本を含め、床に広げた本を科目ごとにまとめる。それらすべてを完了し、改めて本棚の中へ収め直して、腰に手を当てて部屋を見渡した。


 片付きつつある部屋は、日に日に生活感がなくなってきた。


 新年まであと一週間。


 そこで審議が行われ、年明け二週間後には卒業が赦される。


「もうじき、ここを出る……」


 少しばかり寂しい気がするが、3年前のような口惜しさはない。


 __本当に持っているもの、少ないのね、私。


 苦笑を浮かべ、埃っぽくなった結っていた髪を解く。軽く手櫛で梳いてから、串を取り出して銀の髪を梳き、部屋を見渡しながら、髪の毛を結い直した。


 使用人がいる生活であったが、独りでも生活できる術を身に着けているキルシェには、感嘆な髪結いであれば独りでこなせるのだ。それも普段する髪結いであれば、鏡がなくても手癖でできる程度に。


 結終わり、ふぅ、とため息を落とす。


 ここにある全てが__一部の高価なものは、帝都の後見人の邸宅で預かってもらっているぐらいで、キルシェの持ち物全てである。


「……何か、足りない気がする……」


 邸宅に預かってもらっているものを思い出しつつ、部屋の私物と照らし合わせて、自分がぽっかり何かを失念している気がしてきた。


 しかし、いくら考えても浮かんでこない。


 __でも、なんだろう……すごく引っかかるもの……。


 紛失したとか、そうした類ではないのは断言できる。


 では、何だろう__小さく唸っていれば、鐘が鳴った。授業の区切りの合図だ。


 このあと、恩師との約束があるキルシェは、思い出すことを後回しにすることにし、部屋を出、同じ棟の階下にある恩師の部屋へと足を向けた。




 恩師はドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルク。ビルネンベルク家は帝国建国の功労者が系譜におり、帝国では名門も名門とされる一族。


 有能な武官を排出している一門であるが、何事にも例外はあるもので、ドゥーヌミオンは文官としての才能に恵まれ、今は大学で教鞭を振るう立場だ。


 ビルネンベルクは南兎の獣人一族で、体躯は細身。南兎の特徴のひとつ天を突く1対の長い耳は、とりわけ彼らの矜持を物語っているようである。


 ドゥーヌミオンは武官ではなく、文に秀でていることもあり、立ち居振る舞いと物腰から、名門貴族の鑑のよう。よく引き立ててもらっているキルシェは、そんな彼に恥じないよう行動をしているおかげで、学だけでなく、多岐にわたる様々を学ばせてもらっている。


「__片付けは順調かい?」


「はい」


 学生には科目ごとの教官とは異なり、総合的に面倒をみる担当教官がつく。


 キルシェの担当教官は、このビルネンベルクだ。


 入学当初、別の教官になったのだが、その教官が入学後すぐに都合により退職してしまった。それは大学側としては、学生へ不信を抱かせる出来事に違いなく、学生には特例で担当教官を選ぶことを許し、キルシェはそれが反映されてビルネンベルクの元へと振り分けられた。


 気性こそ穏やかだが、学には厳しく、また名門出であるからついていけないこと__癖が強い、というのが学生の間での触れ込みだった。それでも、キルシェはビルネンベルクの口調や雰囲気が馴染みやすくて選んだのだ。


「そうか、順調なのか……それは、残念だ」


 わざとらしく言うビルネンベルクは、しかし笑顔だ。


 キルシェは苦笑する。


「残念に思っていただけるぐらいには、優秀でしたか」


「ああ、優秀も優秀。一番の気に入りだって、紹介していただろう?」


「はい、ありがたいことに」


「冗談でも皮肉でもなく、事実だよ」


 ビルネンベルクは執務机から立ち上がって、応接用のテーブルを示すので、キルシェは素直に従った。


 執務机に向かって、右手奥__暖炉の前に置かれた応接用のテーブル。そこの長椅子へ座るよう仕草で促され、腰を据える。


「気に入りほど、順当__場合によっては、繰り上げで卒業してしまうのだよねぇ」


 ビルネンベルク侯爵家が出自であるドゥーヌミオンは、帝都で当主の名代のような役回りもこなしているため、それなりの階級との交流が多い。


 そうした場には、彼は社会経験とよしみを結ばせるべき、という考えのもと付き人として学生を連れて行く。そこでは学ではなく教養と品位を求められることが多く、向き不向きも学生にはある。


「まったく、今後は誰を頼れば良いのか困りものだよ」


 幸いにしてキルシェは、小金持ちのしがない宝石商の家で、教養はもちろん立ち居振る舞いを、名門貴族に引けを取らないぐらいに叩き込まれた。故に、重宝してもらえて、よく連れ出してもらっていた。


 そういう意味でも、多く学ばせてもらえたのだ。


「ご要件は?」


「いつも通り。雑談の相手だよ」


 承知しました、とキルシェは笑う。


 卒業が見込みではなく確定してこの方、こうしてビルネンベルクは呼び立てる。それは無論方便。だの息抜きというわけではなく、彼の授業の手伝いを求められることがもっぱらだ。


「__とは、冗談で、一服したら、ちょっと出かけるから、付き合って欲しいのだよ。良いかい?」


「はい、もちろん」


 よかった、とビルネンベルクは法衣の袂に手を添えながら、優美な動きで置かれたお茶一式を動かす。そして、暖炉の内側に吊り下げられ、湯気を吹き出す鉄瓶を少し熱から遠のけて、折りたたんだ帛紗ふくさで蓋を取り除くと、近くに下がっていた竹の柄杓を沈めて一杯すくい、ティーポットへと注ぐ。


 その仕草、見慣れていても、思わず息を呑む。

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