第3話「明けない夜の歩き方」

「おはよ」

 陽の光で目を覚まして遊具から出ると、水道の前で歯ブラシを咥えている逢野と目があった。

「あ、うん」と僕は慌てて返す。

「どうしたの?」

 逢野は不思議そうに目を丸くしていた。

「いや、なんでもない」

「そっか」

 そして逢野は何事もなかったかのように、昨日コンビニで買った歯ブラシでまた歯を磨き始めた。そう、何事もなかったように。昨日あったことなど忘れてしまっているかのように。しかし僕はもう知っている。忘れられるはずのないことがあると。

 だからきっと、このいつも通りの逢野は虚勢に過ぎないのだろう。しかし僕にそのことを指摘する勇気などなかった。やはり僕は大丈夫でも何でもない。僕は大丈夫じゃないし、逢野の大丈夫にもなれない。昨夜から痛感していることだ。しかしそれでも、ただ傍観しているわけにはいかない。何も知らないし、何もできないけれど、それでも進むしかないのだ。あの時、逢野の手を引いて走り出してしまったのだから。


 *


「ちょっと散歩してくる」

 水道で顔を洗った後、僕はそう言って公園を出た。そこから少し歩くだけで、それなりに立派な家の並ぶ住宅街に突き当たる。昨日は陽も落ちていてよく見えなかったが、木なんかも植えてあって所謂「閑静な住宅街」という感じだ。公園を出るときに見た時計によると今は五時過ぎ。外には人影がほとんどなかった。

 僕は立ち並ぶ家々を一望する。そうしてそこにの存在を確認して、適当にその内の一つを指差した。煉瓦れんが色の壁に黄色い屋根の二階建て。玄関にはガラスの表札に中野なかのと刻まれている。中野。僕は出会ったことはないが、全国を見渡せばそれなりの人数がいる名前だろう。辺りを確認し、心の中で顔も知らぬ中野さんに頭を下げた。そしていつか中野という苗字の人と出会ったら親切にしようと誓う。だから許してくださいともう一度心ばかりの謝罪をしながら、中野さんのポストに刺さっている、数刻前に配達されたであろう朝刊の新聞を抜き取った。

 そうして足早にそこから立ち去りながら、頂戴した朝刊にざっと目を通す。一面には食料自給率がどうのこうのと大きく書かれている。そのまま二面、三面と、新しい競技場がどうだの、不登校がどうだのといった最近よく耳にするようなニュースが並べられていた。公園の近くに戻る頃には一通り確認が終わり、僕は軽く息を吐く。今朝の新聞にはその記事はなかった。逢野の事件の記事は。要するに、逢野の父親のことはまだ発覚していないと考えていいのだろう。そのことに僅かな安堵あんどを覚える。

 もちろん事が露見するのは時間の問題だ。逢野の父親が定職に就いているのかどうかは知らないが、もし働いていたとして、出勤して来ない、連絡もつかないとなれば職場の人間は逢野の自宅に赴くだろうし、仮にそうでなかったとしても、長い間姿を見せないとなれば近所の人も不審に思うだろう。人が一人死んでいるんだ。いつバレたっておかしくない。だが、とりあえずそれは今ではなかった。今はそれだけわかっていればいい。とにかく、事態が明るみに出る前に、少しでも遠くへ行かなければならないだろう。そう再確認して僕は自販機の横に設置されているゴミ箱に新聞を押し込んだ。

 そうして公園へと戻る最中、僕は自分の変化に多少の驚きを覚えていた。僕が今したことは言ってしまえば窃盗だ。他人の家から新聞を盗んで、それを今しがた捨てた。僕という人間を冷静に分析したとして、普段ならばまずこんなことをするわけがないと言えるだろう。それは道徳心や倫理観といったものは当然の前提として、そもそもこんな面倒が起きそうなことをするメリットがないとわかっているからだ。今だって冷静になってみれば、こんな事をしなくても少し歩いた先にあるコンビニで新聞を買って確認すればよかっただけの話だ。それなのに僕は新聞を盗むことを選んだ。一刻も早く安心したかったからだろうか。それとも非日常に乗せられて、僕の感覚は麻痺してしまっているのだろうか。良くないことをしているのだという自覚が、決して高揚感に繋がっていたわけではなかったと僕は自信を持って否定できるだろうか。わからない。何にせよ今の僕はとても冷静とは言い難い状態にあるようだ。こうして脳内で言葉を尽くして平静を装っても、僕の頭はすっかり茹だってしまっているのだろう。気をつけなければならない。ただでさえ危ない橋を渡っているのだ。自分の行動にもより細心の注意を払っていかなければならないと、そう強く思った。


 *


「おかえり」

 公園に戻ると、まるでもう何年もここに住んでいるかのように逢野がそう言った。あまりに自然な態度でそう言うものだから、少し可笑おかしくなってしまう。僕も同じように「ただいま」と返すと、何故だろうか、こんな当たり前の挨拶をできることが、とても幸せなことのように感じられた。もしこれが公園なんかじゃなくて、普通の家で行われていたとしたら、一体どれだけ素晴らしいことなのだろう。ごく自然で当然のことが、今の僕にはどうしようもなく特別なように映る。

「何してたの?」

「ただの散歩だよ。本当に」

 僕は平然とそう言う。

「アクティブだね」

 本当に昨日とは全く別人のように逢野が返した。もちろん僕はそれが空元気であることを知っていて、だけどそうわかった上でそのまま進んでいくのだと既に決めている。

「準備運動だよ。今日もきっとたくさん歩かなきゃいけないだろう?」

「きっとって何」と逢野の顔が綻ぶ。

「どこに行くかは決まってないから。どうやって行くかも」と僕も笑う。

「変なの」

 それでも、一刻も早く遠くへ。一歩でも北へ。僕たちは足を進めなければならない。

「行く方向しか決まってないんだから、適当に進んだって大丈夫だよ。北にさえ向かっていれば」

「そっか」

「この公園に言っておくこととかある?」

「何? 言っておくことって。」と逢野が不思議そうな顔で訊く。

「……この遊具が楽しかったです……とか?」

 自分でもおかしなことを言っているなと気づく。

「何それ。遊具とか乗ってないじゃん」

 ごもっともだ。そして逢野はこう続けた。

「そうだねじゃあ、結構ぐっすり眠れていい公園でした。かな?」

 そう笑う逢野の言葉が本心なのかどうか、僕には見当もつかなかった。


 *


「蝉って可哀想だと思う?」

 乗車前にコンビニで買ったタマゴサンドを口に運びながら逢野がそう言った。

「どういう意味?」

「昨日蝉の話してたじゃん? だからどう思うかなって。ほら、すぐ死んじゃって可哀想みたいな」

 昨日の逢野はどうやら僕の空疎な話を、一応は聞いていてくれたらしい。あれを蝉の話とカテゴライズするのかどうかはさておきだ。漢字の話のような気もするが。それに電車では蝉の話をしようなんて決まりもないのだから、無理にそんな話をしなくてもいいのではと思う。とはいえ、無視をするわけにもいかないので、僕はツナマヨのおにぎりを開封しながら答えた。

「一週間で死ぬって言うのは嘘らしいね。だいたい二週間から四週間だとか。まあそれでも人間からしたら短いんじゃない? 人間の感覚に当てはめること自体がナンセンスなのかもしれないけど」

 どこかで何度も聞いたことがあるような、当たり障りのない答えだ。しかし逢野は「それだよ!」と食い気味に割り込んで来る。

「確かに地上では数週間の命かもしれないけどさ、そもそも誰が地上を蝉の一生のメインイベントだと決めたんだって、わたしは思うわけ」

 僕は咀嚼そしゃくと同時に相槌を打つ。

「土の中で五年くらい? 過ごすわけだけどさ、そこが蝉にとっての本番かもしれないわけじゃん。人間が勝手に地下を不幸せな場所みたいに言ってるけど、蝉は地下の楽しみ方を知ってるんじゃないかって」

「確かに。蝉の幼虫って実は結構動き回ってるって本で読んだことあるかも」

 喉に引っかかったツナマヨをゴクリと飲み込んで、熱弁する逢野に返す。

「でしょ。だからさ、もしそうだとしたら、本当に不幸なのは人間なんだよ。地下の楽しみ方を知らないで、地上の暮らしを最上のものと思ってるんだから」

「それは暴論な気もするけど」

「そうかな」

 それこそ適材適所という話だ。人間は地上。蝉は地下。それぞれの幸せを知っていればいい。

 しかし、そこで僕はあの鳥のことを思い出す。与えられた場所では満足できなかったあのペンギンを。この話に例えるなら、エイビスは地下に満足できずに、地上に夢を見てしまった蝉ということになるのだろうか。あるいは地上に満足できなかった——。何れにせよ、その物語の顛末てんまつは不幸として語られてしまうのかもしれないなと思う。

「だからさ、きっと蝉は地下で目一杯幸せを味わったんだよ。そうやって大満足で地上に上がってきてさ、子孫を残すために大きな声で鳴いて。それで運命の相手を見つけたら、もうやり残したことなんて一つもないなって清々しい気持ちで死ぬの。それってすごく幸せなことなんじゃないかな」

「ゲームクリアって感じだ」

「そうそう」

「まあそういう考え方もあるんじゃないかな」

 世の中、大半のことはこの言葉に落ち着くのだ。これを言っておけばまず間違いがない。しかし逢野は「煮え切らないなぁ」とどこか不満げだった。

 真面目に考えるなら、確かに逢野の言う通りだと思う。蝉には蝉の楽しみ方があって、地下には地下の魅力がある。明けない夜はないだの、止まない雨はどうのこうのなんて言うけれど、夜には夜の楽しみ方があるし、雨には雨の楽しみ方がある。住めば都なんて言うと、それはまた少し違う話だろうか。どちらにせよ、この世界に不幸の象徴なんて場所は一つとしてないのかもしれない。もっと言えば、夜や雨の中でしか生きられない者だっているのだ。しかし、そう考える時にどうしても僕の頭には彼がよぎるのだ。ララ・エイビス。大空に恋焦がれた彼の物語を、僕は不幸とは呼びたくなかった。

 だからまあやっぱり「そういう考え方もある」くらいがちょうどいい。逢野の興味も既に二つ目のハムサンドと、信号の話に移っているようだし。信号の話は、これまた僕が昨日話したうちの一つだった。電車の終点まで残り何時間か、逢野はずっと昨日の話の続き——と言っていいのかはわからないが——をするつもりなのだろうか。昨日の逢野には、今の僕のように話が聞こえていたのかもしれないなと思う。そうして僕は、他にどんな話をしただろうかと思い起こしながら相槌を打った。


 *


 その町に着く頃にはもう陽が傾き始めていた。あれから僕たちは信号、スフィンクス、蚊取り線香、紅海月べにくらげと様々な話をして、終点に着いたのはちょうどサンタクロースの話を終えた時だったか。そうして駅のすぐ下にあったファミレスで遅めの昼食を取り、別の路線の電車に乗り換えるために構内に戻ろうとしたその瞬間に問題は起きた。見計らったかのようにタイミングよくロータリーに乗り込んで来たバスを見て、逢野が「どうせならあっちに乗ろうよ」と言い出したのだ。ファミレスで決めた予定ではこのまま電車を乗り換えて北へと進んで行くはずだったのだが、逢野は「もう電車も飽きたし」とバスから目を離さない。仕方なくバスの行き先を確認すると一応は北上しているようだったので、僕もそこに乗り込むことに同意した。「どうせ行き先は決まっていないのだし別に構わないか」と軽い気持ちで。振り返ってみると、これが間違いの始まりだった。

 僕たちを乗せるとバスはあれよあれよと進んで行き、気づけば終点に降り立っていた。僕たちが降車すると、バスは足早に折り返して来た道を戻って行く。この時点で、いや、終点の少し前のバス停を通過したあたりから乗客が僕たちだけになった時点で多少嫌な予感はしていた。僕たちは目を見合わせた後、辺りを見渡す。左には海。右には木々。遠くにはポツリポツリと住宅が見える。率直に田舎だ。高崎はもちろん、僕たちが住んでいるところよりも遥かに。そうして僕は確信する。この町には駅がない。横では目を丸くした逢野が、面白そうに海を眺めていた。


 何となくの感覚として、適当に交通機関を乗り継いでいればどんどん北へ向かって行けると僕は思い込んでいたのだが、果たしてこの町にはこのバスの他に交通手段があるのだろうか。わからない。それを探しているくらいならまたバスに乗って少し前のところまで戻った方がいいだろうかと時刻表を眺めて愕然とする。一八時ジャスト。時刻表の最下段に記された数字。僕たちが今乗って来たバスがここに到着する予定の時間を表している。

 僕は現実逃避をするように、終バスに乗って来てこの町に閉じ込められたその目を、バス停の横に立て掛けられている錆びた看板に向けた。すると、僕の視線に気づいた逢野がそれをおどけるような口調で読み上げる。

「海と森の町、ミズチ町へようこそ」

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