焼けた空から降り来たるⅡ

朝吹

前篇

 

 彼はわたしに別れを告げた。分かっていたので愕きもしなかった。こうして呼び出してくれたことにむしろ感謝しなければならない。書置きも遺さず急にいなくなるような人だったのだから。

 いつもそうだった。起きたら彼は早朝のアルバイトにもう出ていた。床に散らかったままになっている読みかけの本をベッドから降りたわたしは足先で片寄せて、折り畳み式の小さな卓に用意されたわたしの為の朝食を独りで食べるのだ。おむすびが二つ。

 明日の具は何がいい。

 鮭。梅干し。ちりめん山椒。気ままに出すわたしの要望を、彼はいつも忠実に叶えてくれた。冷蔵庫の中に求めるものがない時は、大雨の日であろうと深夜営業のスーパーに自転車を走らせるほどだった。なぜか彼はわたしに希望どおりの食事をさせることに熱意を傾けており、それが彼の真面目な性格からきているのか、わたしが好きだからなのかは、ついに不明のままだった。

 わたしを見て。

 別れの手を差し出すと、荷物を背負った彼は無言のまま節ばった大きな手でわたしの指先だけを握り返してきた。悪くはない彼氏だったけれど、将来に繋がっているのかといえば、ないと判断もついていた。

 彼はわたしの手を放した。

「借りたままになっている本、ハンス・ブルーメンベルクの『神話の変奏』はどうすればいい?」

 わたしは訊いた。彼はそれに応えることなくやって来たバスに乗り、わたしの前から姿を消した。

 帰り道、仏蘭西料理店の傍を通った。花と緑に囲まれたテラス席で上品なお茶を呑むよりは、彼と一緒に川のほとりでそよ風に吹かれながら座っている方が好きだった。彼とはもう逢うこともないだろう。

 ご活躍をお祈りしております。

 就活の際に企業から届く不採用通知、通称お祈りメールと同じ文句が想い浮かんだ。全て処分したと彼は云っていたので、送信したとしても宛先不明で戻るだけだろう。

 何を考えているのか分からない人だった。

 空は蒼かった。きっと何千年も前から。わたしが最後の女だなんて特攻隊かよ重いわ。わたしはその場で端末を取り出すと、彼の連絡先を消去した。



 年末年始はバイトの都合で京都に帰省しないと伝えた。あっさりと実家の親はそれを認めた。電話に出たのが父親だったからだろう。

「せやったら、お節を詰めてそっちに送るわ。ぎょうさんは要らんやろうけど」

「小さいのでいいよ」

「うちの料亭のやから旨いでもろうとき。餅もいるか。みかんと干し柿も」

「ごめん父さん、今から用事がある」

「そうか。じゃあ」

 父親のいいところは母親を含めたその他の女どもと違い、ぐだぐだと意味のないことを云わないところだ。こちらは上の空だというのにメスどもは懲りない。

「どっちが似合うかな。波太なみたくん」

 お前の服なんかに興味はない。だがぼくは考え込むふりをして、片方を指した。

「こっち?」

「そう。そっち」

「でもこっちも捨てがたいな。でも波太くんはこっちなんだ。迷うな。どうしよう~」

 くだらな過ぎて失笑すら洩れる。とことんやる気だなこの女。お前の部屋で読んだ女向けの雑誌には買い物に男を付き合わせるのはNG行為の殿堂入りだと書いてあったぞ。

「今日のブーツに似合ってるのがそっち。左側は君には子どもっぽい」

「そうだね」

 ぼくの言葉に納得した女はカード払いで会計を済ませた。「少し手伝わせて。バイト代が入ったから」ぼくが差し出した二万札を快く受け取ると、女は腕に腕を絡めてきた。

「もうすぐ冬だね。波太くん」

 だからどうした黙って歩け。まるい胸を押し付けてくるのは悪くはないがブラを取れ。それに、ぼくの繁殖期は基本的に春夏だ。

「港公園の夜のライトアップがきれいなんだって波太くん」

「それよりさ、移籍したほうがいいよ今の店」

「なぁんで」

「本番を無理強いするような客が頻繁に出入りしているような店だとそのうち助けに行くことも」

「波平」

 ぼくは脚を止めて振り返った。振り返るまでもない。あの呼び方をする女は一人しかいない。付き合っている男が他の女といる時に躊躇せず呼び止める女もそう多くはないだろう。

「波平。波太くんのこと?」

「悪い、ここで」

 女の腕をほどくと先刻の店の紙袋を女に渡した。有無を云わせぬ笑顔と態度でぼくはその場を離れ、女に手をふった。

「また連絡するよ」


 当然ながら、波太は詰め寄られた。今の女の人は誰。

 金で買ったプロ彼女。転じてぼくに惚れた夜の女の子。そんなことは云えるはずもなく、波太は項垂れてみせた。『波太』ならおそらくこうする。

「浮気ではありません」

「だから誰」

「バイト先のバーのお客さん。偶然そこで逢って買い物に付き合っただけ。許して、ごめん日奈子ひなこちゃん。スイーツ奢るから」

 クレープとカップ入りの白玉団子を波太に買わせると、日奈子はスティックに刺した最初の団子を「はい、波平」波太の口に押し込んだ。学校帰りの日奈子はブレザーの制服姿だ。

「日奈子ちゃん、ほらリボン。カップの中に入りそうだよ」

「波平、文化祭には来てくれるんでしょ」

 女子高の文化祭。呼ばれた男がそこで何をするのかはこれから調べなければならない。おそらく適当に機嫌を取っておけばいいのだ。相手が女なら大抵のことはそれで済む。

「よれたジャージ姿なんかで来ないでね。みんなが波平に逢うのを愉しみにしてるから」

「選んで」

 波太は機種ごと画像を日奈子に向けて差し出した。日奈子と二人で撮った写真のフォルダだ。PCとは違い端末は指紋認証だったので突破は楽勝だった。真剣な顔でスクロールしていた日奈子はやがてその中の一つを指した。

「この上下で来て」

「了解」

 波太は端末を上着に仕舞った。

「波平、やっぱり雰囲気変わったね」

 日奈子に云われた波太は苦い想いをかみしめた。乗り移る器に波太を選んだのは大誤算だった。人間の女は勘が鋭い。だから若い男の中から女に縁のなさそうな男を選んだのだ。しかし波太は意外とモテた。見るからに安全牌で素直なところが良いのか、特にしっかり者の女が妙に惹かれるものがあるようだった。波太には高校生の彼女までいたのだ。

 波平。

 背後から呼ばれた時、波太は振り向かなかった。背中から抱きつかれてはじめて呼ばれていたと気がついた。

「波平、帰省から戻ってたんだ。何で連絡くれないの」

 そこに立っていた制服姿の女子高生が、六塔むとう日奈子だった。


 その後、慎重に情報を集めていった結果、日奈子は波太が昨年まで家庭教師をしていた少年の姉で、波太は付き合っているつもりはなかったが日奈子の方は付き合っているつもりだったということが判明した。

「なぜ波平」

「今更。弟のカテキョーをしていた波太が家に来る時間が、ちょうど『サザエさん』の放送時刻だったからよ」

 『サザエさん』および磯野波平を波太は検索した。こいつか。

「日奈子ちゃん、前にも云ったけど、三回生になる前に就活の為にもイメチェンしようと頑張ってるところだから。君の弟だって途中で背も伸びて声も変わったでしょ。男は変わるものなの」

「夜の店でバイトを始めたからなのかな。前のぼんやりした波平のほうが日奈子は好きだった」

 確かに以前の『ぼく』なら波平でちょうどいい。空になった白玉団子の容器を日奈子の手から取り上げると波太は近くのゴミ箱に投げ入れた。日奈子はなおも云った。

「左右で違う靴を履いていたり、きれいに畳めない折り畳み傘をビニール袋に突っ込んで持ち歩いているうちに大根と間違えて冷蔵庫に入れて冷やしてたり、小銭を出す時に毎回のように財布の中身を全部ゆかに落としちゃう波平の方が日奈子は好きだった」

「そんなにぼくは鈍くさかったか」

「顔も動作もしゅっとして、今の波平は別人みたい」

「どう変わった」

「なんだか怖くなった」

「怖くない怖くない」

 波太は日奈子と手を繋いだ。

「ね」

「うん……」

 気に入らないのなら別れろ。その方がこちらとしても助かる。

 日奈子が真面目な女子高生だったのは倖いだった。他の女なら、前の男とは違うと見破られていたかも知れない。


 

 波平バイト頑張ってね。

 日奈子は電飾の灯り始めた歓楽街に消えていく波太の背中を見送った。もともと顔立ちは悪くはなかったものの、万事につけおっとりのんびりしていた波太だったものが、今はともすれば薄笑いを浮かべ、口調や眼つきまで嘲笑的になっている。男は変わるものだと波太は云うが、それほど急激に変わるものなのだろうか。

 変わりすぎじゃない?

 日奈子の知っている波太は歓楽街のバーで働くような青年ではなかった。よくチップをもらうのか、急に金回りが良くなり家庭教師をしていた時よりも稼いでいるようだ。意外とバーの仕事が合っているのかも知れないが、温厚で柔和で、少しぼんやりさんだった波太はどこに行ってしまったのだろう。

「優しいところは前と変わってないんだけどな。なんだかね」

 波太の変化に日奈子が首をひねっていると、隣りに人が来た。独りでいる制服姿の女子高生に声をかけようと近づいてきた中年男がいる。その中年男と日奈子の間に、男を追い払うようにスーツ姿の誰かが割り込んできた。

 長髪を後ろで一つに束ねている黒いスーツ姿の男だった。日奈子は男を見上げた。夕映えの空を背にしてそびえ立つその男の険しい横顔は、ひと目で堅気ではないと知れるものだった。

 男にひと睨みされた中年男はたちどころに姿を消した。中年男が遠ざかるのを見届けると、黒スーツの男はもう日奈子を見ることもなく赤信号を無視して広い道路を横断し、電飾の瞬く歓楽街に素早く吸い込まれていった。

 ヤクザの幹部かな。

 重量のありそうな体格で車を避けていくその男の機敏な動きと、鷹のような鋭い目つきが日奈子を怯えさせた。 

 日奈子は踵を返した。帰ろう。犯罪多発地域は反対側だが、駅のこちら側だって安全ではないのだ。この道路から向こうには絶対に入るなと波平も云っていた。

「PCを最近、買い替えませんでしたか」

 日暮れの雑踏の中、勧誘らしき女の声がした。無視して日奈子が駅に向かって歩いていると勧誘の声は日奈子に附いてきた。日奈子の真横に並んだのはセーラー服の少女だった。

「何か変わったことはありませんでしたか。設定したパスが分からなくなったと云ってPCや端末を買い替えませんでしたか。波太さん、神矢木こうやぎ波太さんのことで何か気が付いたことはありませんか」

 日奈子は脚をとめた。

 誰、この子。

 校章を見るまでもなかった。セーラー服のリボンタイの色に特徴があるのだ。学費が怖ろしくばか高いことで有名な都内の私立女子校の制服だ。通わせている家庭は外国大使や政府関係者が多く、学校周辺は日銀もかくやというほどの警戒が常時であることでも名が通っている。

 セーラー服を着た少女は硝子のような眼で日奈子を近くから見詰めてきた。美少女だった。大人びた顔をしていたが、徽章は中等部のものだ。夕方の風に少女の制服のリボンが揺れた。通常は化繊のリボンタイが、この学校のものは絹なのだ。

「あなたは六塔日奈子さん。先ほど一緒にいた神矢木波太さんは大学二回生で、去年まであなたの弟の家庭教師をしていました」

 親切に回答する必要はない。こちらはこの少女のことをまったく知らないのだ。不審者にそうするように日奈子は冷たく応えた。

「知りたいことがあるのなら本人に直接訊いて下さい。あなたが神矢木先生の知り合いならね」

「そうします」

 少女は頷いた。

「彼のアルバイト先は、バー『葡萄舎』でしたね」

「ちょっと待って」

 あっさり少女が受け入れたので、日奈子は慌てた。

「バーが何処にあるか知ってるの」

「大丈夫です」

「この道路の向こうは、変な店がある処よ」

「ご心配なく。今しがたここを通った黒スーツの長髪の男性。あの人はわたしの知り合いですから」

 それが安全の保障になるのだろうか。日奈子は少女が心配になった。

「補導されたら、家や学校に連絡が」

「父は海外赴任中です。家のばあやはわたしに甘いので叱られることもありません。あなたこそもう帰ったほうがいいです。ほら、陽が落ちてそろそろ危ない人たちが増えてきました。女の子が一人でいると悪い人に捕まります」

「分かっているのなら帰ろうよ」

 日奈子は少女に追いすがって腕を掴もうとしたが、なぜかその手は空を掴んでいた。確かに追いついて掴んだと想った処に、少女はいなかった。

「わたしは大丈夫です」

 夕空は菫色で雲ひとつなかった。ビルの谷間の空に衛星が金色に光り始めていた。衛星にみえていたが動きが違っていた。よく見れば光は縦横に細かく揺れていた。

「ネオですね」

 少女は空を見上げた。日奈子がもう一度何かを云う前に、セーラー服の少女は電飾の海に向かって歩いて行ってしまった。



 バー『葡萄舎』は、戦前からの老舗だ。戦争の間は都市空襲の影響で閉店を余儀なくされたが、長野に疎開していた先々代店主は帰京すると焼野原にまた同じ看板を掲げて店を出した。

 周囲が歓楽街へと大きく変貌していく中にあっても、バー『葡萄舎』は煉瓦造りの変わらぬ佇まいでぎらつくネオン街の片隅に半地下の入り口を構えている。

 かかってきた通話を波太はバーの店内でとった。掃除の為に隅に寄せていた椅子を並べて楢材の床の上で間隔を測っているところだった。コールの画面に出てきた名を一瞥した波太は許可をもらい、電話に出た。

「そこから動いちゃ駄目だよ、日奈子ちゃん」

 日奈子との通話を終えると、波太は連絡先を開いてそこから選んだ番号に電話をかけた。相手はすぐに出た。

「直海くん、先生だけど」

神矢木こうやぎ先生』

 都内の男子校に通う日奈子の弟の六塔直海むとうなおみが応えた。家庭教師が終わってもまだ波太は直海から先生と呼ばれていた。

『先生お久しぶりです』

「部活動おつかれさま。直海くん今どこにいるの。それならそこから四つ先の駅前の喫茶店に日奈子ちゃんがいるから迎えに行ってあげて。お姉さんを拾ってそのまま二人で家に帰ってくれるかな」

『いいですよ。姉に何かあったんですか』

「日奈子ちゃんから聴いて。外国人も大勢いる危ない街だから寄り道しないで帰るんだよ。無事に家に帰ったらそれだけ教えて」

『分かりました。すぐに向かいます』

 波太は直海との通話を切った。相手が男だと話が早い。直海は体格がいいので送迎役にも適任だ。

 知り合いでも友だちでもない見知らぬ女子中学生が夜の街の中に独りで入ってしまった。想いきって途中まで追いかけたがデートクラブの勧誘に絡まれて怖くなって引き返してきた。追いかけられたので駅前の喫茶店に逃げ込んだ。その女子中学生は神矢木波太について訊いてきた。『葡萄舎』の場所も知っている。どうしよう波平。

 日奈子の話を要約するとこういうことだった。どうするもこうするもお前に出来ることなどないのだから家に帰れ。人間のメスは可愛いがバカの生き造りしかいないのか。道路の先には入るなとあれほど云っておいたのに。

「家庭教師をしていたご家族に慕われているんだね、波太くん」

「すみませんでした、旺介おうすけさん」

「緊急の時はいいんだよ」

 客がいないとはいえ、勤務中に店内で私用の電話を使ったことを波太はバーテンダーの旺介に謝った。

 その日の最初の客がバーに来た。波太は顔を上げた。日奈子のいまの話からセーラー服の女子中学生の登場を波太は期待していたが、そこに現われたのは長髪を後ろで束ねた黒いスーツ姿の男だった。男は旺介と若い波太を見比べ、カウンターの内側にいる波太に眼を向けた。

 なんだ、おっさんか。

 拭き掃除をしていた波太はダスターをシンクの縁においた。

 見覚えがあるぞ、あんたには。



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