トラベルプランナー

呑気のん

第1話

 例えばこの世界に昼夜の概念がなくなるとして、それでも俺は、ずっと眠り続けていたい。

 情景が記憶にこびりついて離れなくなるくらいには、なるべく夢を見ていたい。もちろん、とびきり良い夢を。


 朝は苦手なんだ、何もかもが嫌になるから。別に辛くも苦しくもなくて、むしろ人より恵まれている境遇なんだろうけど、と生気が失われていって、死に近づいていく感覚が、朝にはある。

 今朝もいつも通りのアラームが鳴った。そう言えば昨日、青木あおきが俺に話してたっけ。アラーム音を好きな曲に設定する方法があるとかないとか。あれどうやるんだっけな。

 飲みかけの発泡酒の缶を眺めながらしばらく考え込んだけれど、結局何も思い出せなかった。まあいいか。朝に聴かされたら、好きな曲まで嫌いになってしまいそうだし。


 絵梨えりからはもう三日近くLINEの返信が来ていない。小学校からの幼馴染で、彼女が大阪の大学に進学してからは、疎遠になっていた。けれども、東京で就職することが決まって、今年ようやく帰ってくるらしい。これも以前、青木から聞いた噂話。


『久しぶり』

『ひさしぶり』

『もうすぐ東京に帰ってくるんだっけ』

『まあそんなところ。何か用事でもあるの?』

『折角だし、小旅行でも行かないか?』


 流石に唐突すぎたかな。衝動的に送った文章を、今更になって後悔し始めている。

 あの時は確か、テレビで題名も知らない洋画が流れていて、俺は何となくそれを観ていた。それで、偶然映ったアムステルダムの風車ふうしゃの街並みに、柄にもなく感動してしまって。気づいたらこんなメッセージを送信していたのだ。

 ともかく、言い出したからには、旅行計画の一つでも立てておかなければ。日本に風車の街なんてあるだろうか。いや、全然関係ない場所でもいい。結局は、暮らしから遠ざかれれば何でもいい。


 先程、割れんばかりに泣き喚いていたスマートフォンを、もう一度見返した。あと五分で家を出なければ、仕事に遅れてしまう。

 親元を離れて自立がしたくて、大学には進学しなかった。そうすれば、当時の自堕落な人生を少しは変えられるかもしれないと思った。でも実際のところ、あまり変わった気はしない。

 一度は自分で望んだ暮らしから、今度は逃げ出したいなんて願っている。なんとも皮肉の利いた笑い話である。


 あーあ。国のお偉いさんでも神様でも、誰でもいいけどさ。もうちょっと夢のある世界にしてくれたっていいじゃない。それか、今流行りの悪魔と契約するやつ。俺は睡眠の悪魔と契約して、好きな時に寝させてもらおうかな。代償は......まあ...そのうち考えておくからさ。


 鼓膜の内側で、未だにアラームが鳴り響いている気がする。時間が経てば経つほど、その音は大きくなっていく。やがてその連続性が俺を支配して、危うく自我を失いそうになる。

 だがそれも、鍵を閉め、家を出てしばらくすれば忘れてしまう。全てはいつものこと。



 日が暮れ、帰宅すると、ドアの前に見覚えのある人影ひとかげが、待ち構えるようにして仁王立ちしていた。

「開けてやろうか」

 話しかけられた人影は、急にこちら側に振り向いた。

「あー寒い!なんでもいいから早く開けて!!神様仏様亮一りょういち様!!」


 人影の正体は絵梨だった。彼女は鍵を開けるなり、一目散に布団の上から毛布を奪い去り、巻き付けるようにしてそれを羽織った。

「一時間」

「は?」

「一時間も待たせたわね、この私を」

「何も言わずに勝手に来る方が悪いだろ。こっちは夜まで仕事してんだ」

「あっ。そういえばそうだっけ」

 絵梨はしかめっ面で怒る素振りを見せたが、実際はそれほど意に介していない様子だった。

「LINEするより、直接会った方が早いと思って」

「会う前に連絡してくれれば、もっと早く済んだと思う」

「あははっ、そりゃそうだよね。それより、旅行の話の続きしよ」

 冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、食卓に置いた。絵梨がそのうちの一本を、乾杯もせず心底美味そうに飲みはじめたのを見て、俺も二本目を手に取り、一気に喉に流し込んだ。

「実はまだ何も決めてなくて」

「そうなの?じゃあさ、城崎きのさきとかどうかな?」

「城崎...ってどこだ?」

「兵庫県にある観光地でね。温泉がすごく有名で、一度行ってみたかったんだよね」

 正直、旅行先はどこでも良かったので、適当に相槌を打って話を進めようとした。だがしかし、一つの疑問が頭をぎる。

「待て待て。温泉だけなら、女子同士で行ったほうが楽しくないか?その...混浴するわけじゃあるまいし」

「混浴って、何考えてんのよバカ!あはははっ」

 絵梨は早くも酔ったようで、声量が二回りほど大きくなっていた。

「冗談を言っただけだ」

「面白くなかったから、冗談とは認めない」

「...すみません」

 さっきは大笑いしてたくせに。

「あははっ。分かれば良いのよ。それに、温泉だけじゃなくて、美味しいグルメとか、柳並木とか、とにかく沢山あるから!ね、良いでしょ?」

「それなら悪くないね。後で俺が調べておくよ」

「思い立ったが吉日でしょ?私、先に調べ始めるからね!」

 絵梨はそう言って、夢中で携帯を操作しはじめた。


 酔いが回ってきた感覚がして、とうに暗くなった空を窓越しに眺めた。相変わらず、夜は朝と違って安心する。

 人間は単純で、少量の酒さえあればなんでも叙情的に見えてくるものだ。或いは、目の前に座っているただの幼馴染が、急に可愛く見えてきたりもする。

 それは多分、具体的なあれこれよりも、彼女を取り巻く雰囲気の、ぼんやりとした女の子らしさに起因していると思う。

 絵梨は人と一緒にいるとき、いつも笑っている。学生時代、俺が失敗や過ちを犯したとき、彼女に相談を持ちかけることが何度かあった。彼女の答えは決まって、「笑い飛ばせばいい、次から頑張ればいい」だった。悪く言えば楽観主義が過ぎるけど、それが俺の中にある、欠けた部分の穴埋めをしてくれていたのは言うまでもない。情けない話だが、俺は彼女にすがっては、無条件で救いを受けることに甘んじていた。

 それから四年が経っても、俺は楽観主義者になれないし、むしろ失敗も過ちも増えていくばかりだ。でも、こうして絵梨と一緒にいるときだけは、やはり救われているような気がする。

 できれば、いつまでもこうして―――

「一緒にいてくれればいいのに」


「ん?なんか言った?」

 思っていたことが半分口に出てしまい、慌てて平静を装う。

「な、何でもない」

「ふうん...」

 絵梨は調べ物をやめ、今度はテレビに釘付けになっていた。三日前に観た洋画が再放送されていた。奇しくもその瞬間、あの時と同じく、アムステルダムの風車の街並みが映し出されていた。

「...海外旅行も悪くないんじゃない?」

「金があればな」

「亮一君はお金持ちで助かるなあ」

「馬鹿なことを言うな」


 記憶はそこで途切れた。眠りに落ちる直前、絵梨が何か言っていた気がしたが、返答する気力は残っていなかった。ただ、明かりもテレビも点けたままであることは、それ以上に気がかりだった。



 昨晩、アラームを設定し忘れたが、時間になると本能が体を無理やり起こした。音のしない朝はいつもより幾分楽だったが、この後のことを想うと、決していい気持ちにはなれなかった。

 絵梨は俺が起きる前に帰てしまったらしく、食卓に書き置きが残してあった。

『五時に目が覚めちゃって、やることもないから先に帰るね!

 久しぶりに話せて楽しかった。

 また会おうね。 絵梨』

 存外あっさりとしていたが、先に何も言わず寝てしまったのだから仕方ないか。空き缶は二本とも捨てられていたし、毛布もきちんと畳まれていたので、むしろ感謝するべきだ。

 旅行計画については、何も書かれていなかった。このままでは、全てをなあなあで終わらせてしまうかもしれない。

 共働きの両親は、一度も俺を旅行に連れて行ってくれたことがない。一つ歳を取るたびに、どこか遠くへ出かけたいと言ってみても、また今度ね、いつか行けるといいね、と誤魔化されるばかりだった。

 絵梨と青木は家族旅行が好きで、夏が過ぎるたび、俺に手土産を渡してくれた。俺から何も返せないことに、少なからず負い目は感じていた。でも結局、家出とか一人旅とか、考えているうちにばかばかしくなって、一度も実行はしなかった。


 そういえば、旅行から帰ってくるたび、青木はこんなことを口にしていた。

「旅行ってさ、もちろん行ってからも楽しいんだけど、プランを立てるのはもっと楽しいんだ。夢と欲望が詰まった最強のトラベルプランを完成させれば、二倍得した気分になるぜ」

 この思考が羨ましいと思う。きざな話し方は鼻につくが、それも含めて俺が救われてきたもう一つの楽観主義だ。

 

 絵梨からのLINEをもう一度見返した。些細なことだが、これは俺にとっての何度目かの転機だと思った。それが特別でなくとも、暮らしから遠ざかる必要がなくなれば、それは素晴らしいことだとも思った。

 紙とペンを手に取り、思い切り食卓に広げた。仕事の時間が迫っていたが、俺は何だか、俺でも考えられないくらい大きな衝動に駆られていた。

 

 一文字目を書き始めたその瞬間、トラベルプランナーとしての新しい人生が始まった気がした。




 

 



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