幽怪の編集者

日笠しょう

(春号)画霊/人を喰う家

(1)悪いとは思ってるよ

 情報の糸を集めて編み、一つの織物を作るのが編集の仕事だ。それがどんなに汚く綻びた糸でも、あるいは自分を傷つける茨でも、心を込めて織れば誰かを暖める毛布になれる。だから誇りを持て。


 2年と少し前、新卒で入った私に久遠さんはそう説いた。


 そんな彼女が瞳に涙を湛え、溢れんばかりの拍手を浴びながら、みんなの前に立っている。すっかり大きくなったお腹に、両手いっぱいの花束。壁の垂れ幕には『お疲れ様、いってらっしゃい』と、産休に入る久遠さんを送る言葉が綴られている。

 久遠さんの咳払いをマイクが拾う。


「ようやくこの仕事……いえ、私や弊社を長年苦しませた担当作家から解放されて清々します。やったぜ! そして愛すべき後輩の右上よ、すまん。あとは任せた。産休から戻っても奴の担当に戻る気はさらさらない!」


 オフィスはどっと笑いに包まれた。よく頑張った、だの、俺には無理だ、だの野次が飛ぶ。右上ちゃんも頑張れ、と私を呼ぶ声もする。お礼の挨拶をひとしきり並べた後、久遠さんのスピーチは入社した7年前に遡り、歴代の編集長たちの思い出に触れ、これまでの仕事を振り返ってから、最後にまた感謝の言葉を紡いだ。


 入社してからこれまで、一言も聞き漏らさないよう細心の注意を払っていた久遠さんの言葉も、今や右から左へ素通りしていく。頭が理解を拒んでいるようだった。


 やめられてうれしいって?

 今まで教えてくれたことと全く違うじゃないか。

 私はそればかりを考えている。



 現編集長の締めの言葉を合図に、オフィスでささやかな飲み会が始まった。

 1年目の子たちがすでに久遠さんを囲んでいたが、そこは一番弟子の私である。後輩たちは遠慮がちに離れていった。

「悪いとは思ってるよ」

 久遠さんはばつが悪そうに頭を下げる。


「本当に意味がわかりません」

「右上は私が育てたなかでも一番才能あるから、任せるならあんたしかいないと思ったの」

「引き継ぎのことじゃありません。仕事はちゃんとやります。わからないのはさっきの挨拶です」

「そんなに変だった?」久遠さんは目を丸くした。

「この仕事、嫌いだったんですか?」

「いや、嫌いなのはあのクソ作家だけで」

「久遠さん、私が入ったときに言いましたよね。『自分を傷つける茨でも、誰かを暖める毛布にできる』って。嫌いな担当でも主義主張に反する情報だとしても、読者が求めているなら届けるのが私たちの仕事だって」

「ちょっと待った」久遠さんが手で制する。「私そんなこと言ったっけ」


「言いました」

「どんな仕事でもやり通せとは教えたつもりだけど、ちょっと美化しすぎじゃない? 丁寧に受け取りすぎだと思うなあ」

「放り出すんですか」

「それは心外」

 凜としながらも優しさに溢れる、温かい声だった。私に教え諭すときの、いつもの声色だ。


 思わず背筋を伸ばし、聞く姿勢を作ってしまう。そんな私を見て、久遠さんは笑った。このやりとりも、今日でおしまいなのだ。不意に喉の奥がぐっと苦しくなり、涙がこみ上げてくる。


「仕事は投げ出さない。必ずやり通す。これだけはちゃんと伝えたつもりだし、私も曲げない。だからちゃんと、右上に託すの。あの先生様をどうにかできるのは、あんたしかいないんだから」

「でも……!」

「ほらほら泣かないの。わかっていたけど、狼の群れに子羊を放つような、子どもを千尋の谷に突き落とすような、とにかくそんな気持ちになるなあ」

 私を抱きしめながら、久遠さんがしみじみとつぶやいた。


「何のことですか?」

「私の元担当。そして右上、今日からあんたが担当になる一色琴乃のこと。知ってるでしょう?」

 名前は知っている。そもそも、出版業界で彼女を知らない人物はほとんどいないだろう。


 出せば売れる、当代随一の天才作家。

 出さない書かないすぐ逃げる、業界一の嫌われ作家。

 とにかく仕事が遅い。締め切りは守らない。仕事場に原稿を取りに行けばもぬけの殻。ホテルに缶詰にしてもいつの間にか消えている。

 そして希代の美女という。


 傾国とは奴みたいなことを言うんだろうな、と久遠さんが嫌味たらしく愚痴をこぼしていたのを覚えている。

 作品を出しさえすれば飛ぶように売れ、しかもその美貌に魅了された上層部は是が非でも離したがらない。とにかく自分のところで書き続けてもらうようにと、現場にお触れを出す。そのためにはご機嫌取りでも何でもやれといった具合だ。


 彼女から作品を受け取ることに苦心し、そのまま心を病んで田舎に戻った編集者は数え切れない。彼女に固執するあまり会社を傾けた経営者もいるらしい。風の噂では他人の仕事や人生を台無しにするのが趣味で、夜な夜な街に繰り出しては問題を起こしているとか。社会人としてナシ、と現場の編集は口を揃える。


「一色……奴が地獄に落ちるさまを夢見なかった夜はない……」

「そんなに嫌いなんですか?」話が違うじゃないか、と目で抗議する。仕事に対して不誠実じゃないですか。「そんな感じだったなんて、知りませんでした」

 怒らないで、と久遠さんは笑った。


「子育てしたことないけど、今なら断言できる。奴と比べたら育児なんて余裕。奴はでっかい赤ちゃんよ。自由気ままな原始人よ。ルックスと才能さえなかったら今頃野垂れ死んでいる存在よ」

「その二つのどちらかがあれば、人生十分なはずなんですけど」

「補ってあまりある社会不適格さなの」

 遠い目をしている久遠さんを、編集長が呼んだ。


「じゃ、頑張って。右上ならできるって、信じてるから」

 奴にはあんたみたいな堅物をぶつけるくらいがちょうどいいかもしれない、と喜んでいいかどうかもわからない言葉を残して、ずっと憧れだった久遠さんは編集部を後にした。私は一人、まだ見ぬ一色琴乃に極楽から蜘蛛の糸を垂らす自分を思い浮かべる。

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