第2話 あるクリスマスのこと

「わ、若い……なんだこれ」


 ぺたぺたと顔を触って驚く。

 なんてみずみずしい肌だ。かさかさの乾燥肌のはずだったのに。

 体も感覚が全然違う。特に背が低く感じる。全体的にめちゃくちゃに細い。髪型はもさっとして、長い前髪が目元を隠している。


 地味で暗い、モブのような、学生時代の俺だ。


 本当に、何が起きた?

 こんな手の込んだ悪戯があるはずがない。

 発作で倒れて、気づけば実家にいて、なぜか若返っている。


「まじか……」


 思い返されるのは痛みで倒れ伏した時だ。

 ぼやけていたからあまり覚えてはいないが、『やり直したい』と思った気がする。


 洗面台を離れてリビングに移る。リビングはまったく変わらず記憶のままだ。ダイニングテーブルの後ろに、カレンダーがかかっている。載っている年月を見てくらりとした。


 十年前だ。


(戻ったのか……? 過去に? まさか、夜宮も?)


 何も実感が沸かない。


「にーちゃん、どたどた音したけど何してんの?」

「――おわぁっ!」


 呆然としていたら、背後から声をかけられて思い切り叫んでしまった。


「え、ええ、何……? ごめんね? そんなびっくりするとは思わなくて」


 目を丸くして、扉の脇から覗いているショートヘアのラフな格好の少女。


「い、いや。大丈夫だ。悪い。えっと……杏沙あずさ、だよな?」

「どしたの? ……寝ぼけてる?」


 俺の妹、榎並杏沙えなみあずさが怪訝そうに眉をひそめた。


 杏沙はよくできた妹である。明るいし、コミュニケーション能力も高くて友人も多い。人懐っこい雰囲気で、俺にはもったいないくらいのできた妹。


 すごく、久しぶりに顔を見た。


 でも最後に見た杏沙と比べると、印象が違う。やっぱり幼い。背も低く、顔もどこかいたいけな面持ちだし、髪型も違う。杏沙は大学で髪を染めだした。目の前の杏沙は黒髪のショートヘアのままだ。


(最後に会ったのはいつだった?)


 最後のはたぶん、一人暮らしを始めてから一度会ったくらいだ。


 残業帰りに、杏沙が家に押しかけてきたことがあった。心配ないよと伝えたのに、ずっと心配そうな顔をしていたことを思い出す。

 そうだ。俺が仕事を始めてからずっと、杏沙は心配そうな顔ばかりしていた。


「な、何。私の顔、なんかついてる?」


 そうだ。一番違うのは、俺を見る目が心配そうじゃないところだ。

 途端に、申し訳なさが溢れてくる。


「杏沙」

「ど、どしたの、改まって」


 不審な目の杏沙に向けて――俺は勢いよく頭を下げた。


「本当に……だめなお兄ちゃんでごめん!」

「え、ええっ!? ほんとどうしたの? やばい夢でも見た!?」


 慌てる杏沙をよそに、俺は頭を下げたまま決意を定める。


(俺はタイムリープしたんだ)


 俺はかつて何もできなかった。

 虚無感に苛まれながら日々を過ごして、周りに心配ばかりかけていた。

 でも――これからはきっと。


(もう一度、やり直そう)


 改めて、ここから始めるのだ。

 始めないと、いけないんだ。



 ◇



 タイムリープした。それは事実として受け入れよう。


 でも、今は何をすべきなんだろう。


 とりあえず、容姿はなんとかしよう。それは確定事項だ。今のままでは明らかに陰キャ街道まっしぐらである。まず、容姿。髪も切る。服も新しくする。そして何より、筋肉を付ける。筋肉は大事だ。


(……いきなりケーキ食べてるけどな)


 テーブルの対面からは心配そうな目で杏沙が俺を覗いている。


「にーちゃん平気? 甘い物食べて元気出た?」

「……ほう、へんひだ(おう、元気だ)」

「良かった! 心配させないでよねー」


 急に謝りだした俺を見て、メンタルが弱ってると勘違いしたのだ。

 そして「弱った時は甘い物だよ!」と冷蔵庫からケーキを持ってきてくれた。


 妹の優しさに俺は泣いた。

 誰かの優しさを受け取るのすら久しぶりだったからだ。

 会社では罵声と怒声しかなかったから……。


「母さんは?」

「仕事だよ。そろそろ帰ってくるんじゃないかなー」

「そっか」


 うちの家族は母さんと妹との三人だ。父さんは幼い頃に亡くなっている。

 この頃の母さんはグラフィックの会社で働いていた。


 母さんと会う前に、ある程度当時の感覚を取り戻しておきたい。

 社畜でくたびれた雰囲気で喋ってたら変に思われそうだし……。


 などと考えていたら、杏沙が眉を寄せながらじーっと顔を近づけてきていた。


「な、なんだよ。杏沙」

「……なんかにーちゃん、目が変だよ」

「目?」

「いつもは死んだ魚みたいな濁った目してるのに……」

「え……何?」


 もしかして違和感があるのかと恐る恐る尋ねる。

 杏沙は心配そうな顔のまま座りなおした。


「今日はいつもよりもっと濁りが強い気がする……」

「……あー」

「甘い物食べてね。やっぱり受験勉強で疲れてるのかな。私の分のケーキいる?」

「……わーい」


 差し出されたケーキに俺はそっと視線を落とした。

 社会の波に揉まれた瞳の濁りは、先ほどの決意程度では掻き消せないらしい。


 とそこで思った。


「あれ、今日ってなんでこんなにケーキがあるんだっけ?」


 普通、ケーキは家に常備されていない。

 たまーに母さんが買ってくることはあるが、何かの理由があって買われることが多い。誰かの誕生日とか、祝い事の日とか。


「何言ってんのにーちゃん。今日はクリスマスでしょ?」


 杏沙が首を傾げながら言って、そして俺はフォークの動きを止めた。


「……クリスマス?」


 脳裏に引っ掛かる、忘れられない夜のこと。

 俺がずっと後悔していた、あの日のこと。


「どしたのにーちゃん。なんか顔、怖いけど……」

「今、何時だ?」


 時計を眺める。十九時ほど。

 たしかこのあたりでチャイムが鳴るはず……。


 玄関の呼び鈴が鳴った。

 蹴とばすように席を立って玄関へ向かう。


「あっ、にーちゃん!?」


 あの日、俺は母さんかと思ってドアを開けに行ったのだ。でもそこにいたのは別の人だった。


 ドアを開ける。


 すると俺の記憶と同じ姿で、夜宮のお世話をする使用人の女性が立っていた。名前は――三鳩みはとさんだ。年齢は三十は超えているはずだが、整った顔立ちの女性。その表情が不安に染まっている。


「榎並さん……お嬢様がこちらに来ていないでしょうか?」

「いなくなったんですね?」

「え……は、はい。もう家に帰っている時間のはずなのですが……」


 俺はすべてを把握した。


 これは――夜宮が車に轢かれた日だったのだ。


(おいおい、やり直したいとは言ったけど……当日かよ!)


 タイムリープに文句を言いたくなる。やり直させてくれとは言ったが、あまりにも直接的過ぎる。クリスマスの日、夜宮は交通事故に遭う。その当日にぽんと飛ばされるなんて、猶予が無い。


「ここには来てないです」

「そうですか、では一体どこへ……携帯の電源も切っているようですし……それにこんなタイミングで……」


 三鳩さんは心配そうに思案する。でもまだ切羽詰まったような様子じゃない。今の状況がわかっていないから、動きを決めあぐねているみたいだ。


 それにタイムリープ前と同じなら、三鳩さんには今すぐに動けない理由があるはずだ。


 普段、夜宮は一人で近所のマンションに暮らしている。三鳩さんは週の決まった曜日に夜宮の家へ訪れて、食事の用意などの家事をしている。でも、今日はその日じゃない。本来ならここにはいないはず。


 俺は言った。


「俺が連れて帰ります。だから三鳩さんは準備をしててください」

「は……?」

「夜宮を本家に連れてこいと言われたんですよね?」


 三鳩さんが目を見開く。


「な……なぜそれを?」


 ――やっぱり、今日起こるもう一つの出来事は既に起こっているのだ。


 夜宮の家は古くから続く名家だ。

 グループ会社を含めると総資産が億を優に超える。資産家の一族。

 つまり夜宮はその血筋を引いた、お嬢様ということになる。


 でも今日その夜宮家の当主であるお爺さん――夜宮士道よるみやしどうが亡くなるのだ。

 今はまだ危篤だというだけだろうが、おそらく同じだ。


 彼が亡くなるのと、ほぼ同じタイミングで夜宮は車に轢かれてしまう。


 今から見れば未来となる過去で、三鳩さんは悔いていた。

 泣きながら俺に語った事を、ちゃんと覚えている。


 ――『お嬢様を連れて、逃げ出していればよかった』


 愛用していたスニーカーを履く。空いたドアから外の冷たい風が入ってきていた。寒い。雪まで見える。でも今そんなことを気にしてる場合じゃない。


「あれ、にーちゃんどっか行くの? って三鳩さんも……どうしたんですか?」


 杏沙が遅れてやってきて聞いてくる。呑気な調子の声だった。

 そうだ。あの時は俺も杏沙も三鳩さんも、そこまで大ごとになるなんて思ってもみなかった。


 ずっと抱いていた大きな後悔。


「夜宮を探して――やり直してくるよ」


 絶対に間に合わせないといけない。

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