第7話 三嶋梨律(リッくん)とバレンタイン6
「
本日はご足労いただきありがとうございます。
お待たせしてしまいすみません」
「
突然の会合のお申し出にご対応いただき感謝いたします」
キュレールのCEOのご令嬢だけあって、いついかなる時もお淑やかで上品な振る舞いをされる女性だ。
脇には2人の付き人が控えめにご令嬢とあたしの挙動を見守っている。
「では、会議室へ参りましょう」
あたしは
お決まりのルーティンだ。
そっと手に
ゆっくりと会議室へ向かって歩いていく後ろ姿を、
ここからは2人だけでの会合ということだ。
この儀式めいた出迎え方法は、
初めは緊張してぎこちなく、
ご令嬢ともなれば会社だけでなく、社交界や何かへの顔もあり忙しいだろう。
しかも、その中で何かご趣味などにお付き合いしてくれる人は貴重だろうから、
と、あたしは推測している。
でないとこの儀式はどういう意図なのかということになる。
会議室へ
「
急に後ろから手が回され、
「ど、どうしたんですか?
後ろを見ようとするも、
表情も見えない。
ただ、背中に
「
わたくしは今日、キュレール株式会社という顔ではなく、個人として、あなたに会いに来ました」
鼓動が早く、息もとても荒い。
あとしが答えに窮していると
「こんなことを言われてもご迷惑であることは百も承知ですが、わたくしのお話に少しだけお付き合いいただけませんか?」
きつく巻かれた腕が肺を締め付ける。
息が少し苦しい。
「す、すみません」
だから、
「続き……お話しいただけますか?」
穏やかな声を意識して、彼女の不安を和らげるように努めた。
「
彼女からも抱きしめられ、2人は密着している状態だ。
彼女の口から吐息が漏れ、あたしの胸の辺りに顔を付けて泣き始めてしまった。
泣いている女の子には、静かに寄り添うのが1番だということを経験上知っている。
しばしそのまま、
少しだけ、
「わたくしは、今夜……好きでもない方と婚約いたします…………。
そして、何事もなく、その方と結婚をいたします……」
「……!」
彼女の口から紡がれた言葉に、あたしの胸はザワつき、疑問と怒りが混み寄せてきた。
「……令和のこの世の中に、政略結婚なんて……とお思いでしょうか……。
しかし、わたくしはキュレールのCEOの一人娘。
幼い頃より父の会社のおかげで何不自由なく過ごしてまいりました……。
本日の付き人の2人も、実はわたくしの幼少期から長らくお付として仕えているものたちです」
「あのお2人も?」
「そう……あの2人もキュレールの社員で、父の命令によってわたくしにお付として従ってくれているのです……。
他にも、社内のおじ様やお姉さま方は、みなわたくしを幼い頃より可愛がってくださいました。
とても返しきれない恩が会社にはあるのです……」
「でも、どうして好きでもない人との婚約なんて」
「このほどの不況続きで、父は、わたくしたっての願い出を聞き入れてくださり、おじ様やお姉さま方の人員削減を何度も延期してくださいました……。
しかし、とうとう父と会社の財源が、社員の維持が難しい状況にございました。
そんな折に、吸収合併のお話が……」
「では、あの
「
しかしそうなれば、わたくしのわがままを比王側が聞き入れてくれることはございませんから…………そこで交渉をいたしました……。
いくつか条件を提示した中で、吸収合併ではなく、自治を維持したまま資金の援助をいただけることに、なりました……」
「その条件が、"結婚"である、ということなんですね……?」
「……はい。
そして、その条件をのむかわりに、わたくしは父より次期CEOとして、会社を引き継ぎます」
「そうでしたか……。
しかし、それでも結婚は女としてっ……」
あたしが反論を述べようとした口を
あたしの胸元についた
涙を流しながらも、たとえ好きではない男性と結婚をさせられたとしても、守りたいと想える存在なのだ。
「これはまだ、役員の中でも私と父、その他数名にしか知らされていません。
でも、あなたになら……あなたになら、お話してもと、そう思いお話しいたしました……。
この胸に秘め続けたあなたへの想いが、わたくしを今日、ここへと、
不意に背伸びをした
悲しみと涙を湛えたその瞳。
柔らかい唇の感触。
紡いだ言葉以上に
自分の意思に反して誰かのものになる。
その本当に最後の時間を、あたしと過ごしたいと想ってくれている
これは紛れもない本命の、チョコでもない、抱きしめ合う2人が交わしている唇同士のキス。
自分の内側で背徳感、後ろめたさ、焦燥感が募る。
しかし、目の前のこの女性を拒絶すれば、それも自分への嫌悪感に苛まれるだろう。
思いがけず、唇は向こうから離れていった。
「
あたしの表情は……蒼白と言ってもいい。
彼女の左頬には2筋の透明な液体の跡がついている。
しかし、彼女の目から伝う涙の跡は、その
「……
なんと言えばいいのか、言葉が出てこない。
彼女が悪いと断罪するつもりは、無い。
彼女の唇の感触や甘い香りはまだ残っている。
嫌なら振りほどいていただろうか?
抱きしめたのは自分からだった。
彼女がそういう意識を持っていたと気づくチャンスはいくらでもあったのだ。
唇が触れる前に、できることが沢山あって、それをしてこなかったということは、自分自身に非があるのだ。
ゆうちゃんに申し訳が立たないということも、頭の中をグルグルと駆け巡っていて、やばいやばいと警鐘を鳴らしている。
自分でも気持ちの整理が全くついてないのは明らかだった。
数十秒の沈黙の後、口を開いたのは
「……わたくし……あなたの気持ちも聞かずにいきなり…………ごめんなさい」
あたしは自分の唇に指でそっと触れる。
その手つきは、自分でも驚くべきことに、震えておらず、明確に言えることがあると気づく。
「いえ、
貴女は謝る必要はございません。
なぜなら、あたしが貴女を嫌いだと思ったことは一度もないからです。
今も、貴女を嫌いになどなっておりません」
その視線を意識しつつ、指先をゆっくりと自分の頬を伝う涙に触れ、指についた液体を見つめる。
「これは……あたしの中でも、どうしてなのかわからないものです。
しかし、一つだけ分かることがあります」
震える瞳と声が、あたしが見つめた指先を見つめている。
「あなたが分かるその一つを……お聞かせ願えますか?」
あたしは
「この涙が、後悔の念を孕んでいないことです。
貴女に出会って、貴女とお話をさせてもらって、お迎えの時のあれも、一緒に食事をさせて頂いたことも、過ごした
あたしにとって後悔の無いものです。
貴女と交わしたこの口付けにも、これから先、後悔することは無いでしょう」
「
あたしのスーツは
気持ちの整理ができて落ち着くまで、あるいはここゆくまであたしの胸を貸すくらい、なんてことはないと思った。
あくまで関係は顧客と担当者というものであったが、あたしは
思い出深い顧客第1位に上げてもいい。
これからも全く同じ関係で居続けることはおそらくはできないだろう。
もう1つの可能性として、あたしが昇進をしたら、やはり
今だけは、本当に限られたこの時間だけは、あたしのすべてを
1時間の予定で会議室を抑えていたが、
別れ際に見せたご令嬢の憑き物がとれたような安心した表情に、あたし自身の心も幾分救われたのだった。
その後、直前の会合の時間が長引いたという理由で、他の会合はキャンセルせざるおえなかった。
替えのスーツを用意しておけば良かったと後悔はしたが、
まさか、この日のできごとが大事になってしまうとは、この時のあたしには全く知る由もなかったのだった。
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