悪役日記〜破滅を記す黒い本

まじかり

悪役日記

 穏やかに風、真っ青に晴れた空。色とりどりの花が咲き誇る手入れの行き届いた庭は、伯爵家に相応しい造りをしている。庭を最も眺めやすい場所にはガゼボがあり、丸テーブルと丸椅子が設置されていた。


 恋人が逢瀬を楽しむに絶好の場所にもかかわらず、椅子に座る令嬢の顔色は真っ青だ。哀れなほどに動揺する彼女は、この庭園の持ち主であるティクシエ伯爵家の令嬢、アマンド=ティクシエ。


 ウェーブのかかった栗毛のミディアムヘアーが映えるような淡い色のドレスを着た彼女は、信じられないばかりに見開く青い瞳で目の前に座る男性を見つめていた。


「今、なんとおっしゃいましたか……?」


「君との婚約を解消したい。そう言ったんだよ、アマンド」


「婚約を解消……」


 呆然とオウム返しをするアマンドを真剣な目で見つめる男性はトニー=ファルダ伯爵令息。短く切り揃えた金髪がよく似合う顔の整った男であり、アマンドの婚約者だ。


「君にはすまないと思う。だが、私は心から愛する人ができてしまったのだ。私は自分の気持に嘘はつけない。このまま結婚しても私は君を抱くことはないだろう。そんな生活はお互いのためにならない。そうは思わないか?」


 真っ直ぐなトニーの眼差しに熱がこもる。それはアマンドとの婚約期間に一度も見ることの無かった愛情という熱。彼の瞳に映るのはアマンドだが、彼はアマンドではなく別の誰かを思い浮かべていることは明らかだった。


「……それは、はい……そう、思います……」


 呆然としながらも肯定するアマンドへたたみかけるようにトニーは言葉を続ける。


「そうか。なら婚約の解消に同意をしてくれないか? 幸いなことに私と君の婚約を解消しても両家の事業に影響は無い。私たちの気持ち1つで解消できるはずだ」


 トニーはファルダ伯爵家の次男であり、家を継がずに騎士になる予定だ。彼の方が1つ歳上であり、1年早く学園を卒業する。アマンドの卒業と同時に結婚し、二人で新しい家庭をつくる、という予定だった。


 そもそも二人の婚約は幼い頃なら付き合いのある両家の当主たちが決めたもの。婚約を結ぶ前から両家のかかわりは深く、トニーの言うように合意の上で婚約の解消をすれば、大きな問題は無いのも事実である。


「婚約者がいては彼女に愛を囁くことができない。騎士を目指す私が不義を働くわけにはいかないのだ」


 婚約者がいることそのものが不幸だと言わんばかりの口ぶりに動揺していたアマンドにも怒りがわく。そもそも婚約者が居る身で他の女に懸想することそのものが不義ではないのかと。愛は無いかもしれないが、長年築いてきた信頼関係を崩すことに抵抗はないのかと、問い詰めたい気持ちがあった。


 だが、アマンドはその気持ちをぐっと堪えた。膝の上で強く強く拳を握り、精一杯の笑みを浮かべる。


「わかりました。婚約を解消しましょう、トニー」


「っ! ありがとう、アマンド! 君ならそう言ってくれると信じていたよ」


「……どういう意味ですか?」


「君は私に恋をしていたわけではないだろう? 幼い頃から、それこそ婚約者になる前から顔を合わせていたから妹のように感じていたんだ」


 トニーの言葉はアマンドにも当てはまる。彼女はトニーを兄のように信頼しているた。だから二人で良い家庭を作れると信じていたのに。


「アマンドも恋をして欲しい。身を焦がすような思いが胸の内からわき出で来るこの感覚を知ってもらえれば、君も私が婚約を解消したいと言った理由をわかってくれると思う」


「……そう、ですね。そんな日が、くると良いですね」


「来るとも。人は恋を知り、愛を知ることが幸せなのだと。私はそう感じたよ」


 そう言い放つトニーの顔は真理を悟ったかのような清々しい表情をしていた。彼の言葉と表情にアマンドの怒りは臨界点を超え、頭が一気に冷え込む。


(あぁ、恋に狂ってしまったのね……)


 怒り過ぎると冷静になる、と本で読んだことがあったなとアマンドはどこか他人事のように考えながら淑女らしい笑みを浮かべた。もうトニーと話したくない。そう思い至った彼女は会話を終えるべく口を開く。


「ねぇ、トニー。婚約の解消はお互いの両親に言わなくてはいけないでしょう。どんな風に話すつもりですか?」


「それは勿論、私に想い人ができたからアマンドに頼んで了承してもらったと話すつもりだ」


 恥じることなど無いとばかりに言い切るトニーに対し、アマンドは首を横にふる。


「それだとトニーはおじ様と喧嘩になってしまいます。お父様とおじ様の仲にも影響するかもしれません。ですから私にも好きな人がいることにしましょう。私とトニー、二人共好きな人ができてしまったから婚約を解消する。それなら角も立たないです」


「そんな、いいのか? 私のためにそんな嘘を……」


「いいのです。これが私が婚約者としてできる最後のこと。私はトニーの恋と愛を応援します」


「アマンド……ありがとう……!」


 心にも無いことを微笑みながら告げるアマンドにトニーは感動の涙を滲ませる。彼の心にあるのは正直に告げて良かったという思いとアマンドに対する深い感謝だけ。この茶番が彼女の我慢の上に成り立っていることを微塵も気づけないでいた。


「それでは直ぐにでもそれぞれの両親に話しましょう。少しでも早いほうがお互いのためですから」


「あぁ……! なら今日はこれで帰らせてもらうよ。本当にありがとう、アマンド」


 予想を越える最良の結果にトニーは喜びを隠せずいそいそと席を立つ。そんな彼の背中を見送り、庭園の席から見えなくなったところで、アマンドも慌てて席を立つ。


(まさか、アレが本物だったなんて……!)


 庭園から屋敷へ戻り、廊下を大急ぎで駆ける。淑女失格の振る舞いだが、今はそんな事を気にしてはいられない。アマンドが目指すのは自分の部屋だ。


 彼女がトニーのとんでもない発言を前にしても怒りを堪えることが出来たのには大きな理由があった。アマンドは今日、トニーに婚約の解消を求められるという内容を目にしたことがある。


(信じられない。何故……何故……!)


 大きな音をたてて扉を開けて私室に駆け込んだアマンドの視線が本棚に向かう。整然と並ぶ本の中にある目的の本を探し、彼女は本を掴んでは床に投げ捨てる。床に本が散らばるのも気にしてはいられない。そして、遂に彼女は目的の本を見つける。


「あった……! この、この本は……!」


 その黒い本は日記帳である。飾り気のない本の背表紙には『悪役日記』と記されていた。テーブルの上に叩きつけるように日記を置き、両手で本を開く。そこには確かにこう書かれていた。


『4月10日 晴れ』

『トニー様に婚約の解消を求められる。トニー様に想い人が出来たから。そんなこと許せるはずがない。私はトニー様の言葉を拒否した。そうしたら、トニー様は怒って帰ってしまった。私はこれからどうしたらいいのだろう……』


 アマンドはテーブルの上に置いてあるカレンダーに視線を送る。今日の日付は『4月10日』。この日記と同じ日にちだ。


「この本の通りの事が、起こっている……?」


 現実味のない現象に寒気を感じるアマンドは呆然と呟くことしか出来なかった。





 時はさかのぼり4月7日。アマンドの通う王立学園の始業式があり、彼女も他の生徒たちと同様に馬車で登校をした。学園長先生のありがたいお話を聞き、アマンドはクラスへと戻る。


 王立学園は貴族から平民まで通っている学園だが、線引きはしっかりとなされている。クラスは伯爵以上のAクラス、子爵と男爵のBクラス、平民たちのCクラスとなっており、在学期間の3年間でクラスメイトが変わることはない。


 アマンドは2年生。前年と同じ顔馴染みのクラスメイトたちと春休みにできた思い出を語り合い、馬車で帰宅する。


「ただいま戻りました」


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 屋敷に戻ればティクシエ伯爵家に仕える使用人たちがアマンドを出迎える。メイドの一人に通学鞄を手渡しながら彼女は屋敷の奥へと歩みを進めながら口を開く。


「私はいつも通り部屋で本を読みます」


「かしこまりました。では、いつも通りお飲み物をご用意してお持ちします」


「えぇ、よろしくね」


 恭しく頭を下げるメイドに微笑みかけ、アマンドは軽やかな足取りで自室に向かう。


(さぁ、今日であの本を読み切るわよ! 昨日は良いシーンで読むのをやめないといけなくなっちゃったから、続が気になって仕方なかったわ)


 はやる気持ちを抑えて廊下を歩き、自室までたどり着くと扉を開けて室内へと入る。アマンドの私室は伯爵家の令嬢に相応しい造りをしているが、一点だけ大きく違うところがある。それが壁の一面をいっぱいに利用して作られた本棚の存在だ。


 アマンドは読書が趣味の令嬢であり、根っからの本好きなのである。そのジャンルは多岐にわたり、学術書のようなものから大衆が読む創作話の書かれた娯楽小説まで本棚いっぱいに詰まっている。彼女が両親から渡されるおこずかいの大半が本に消える。そのため、本の増えるペースはとても早く、定期的にお気に入りの本とそうでなくなった本の入れ替えをしなくてはならないほどだ。


 両親はアマンドの趣味に関して寛容ではあるものの、本を増やしすぎないように注意している。そうしなくては屋敷中が本だらけになってしまう。両親にそう思わせるだけの勢いがアマンドにはあった。


「さてと、続き続き~……って、あら?」


 いそいそと椅子に座り、テーブルの上に置いてあった読みかけの本を手に取ろうとしたアマンドだったが、見覚えのない黒い本が置いてあることに気づく。


「こんな本、買ったかしら? えっと……悪役日記?」


 黒い本を手に取り背表紙を見て本のタイトルを確認するが、アマンドの記憶にない名前である。読書家の彼女は日記を書く暇があれば1ページでも多く本を読みたい性格だ。日記帳を購入する予定はなく、他人の日記を覗き見るような悪癖もない。


「なにかしら、これ。誰かが間違えて置いたのかしら。ううん……」


 本をひっくり返してみても持ち主の名前らしきものが見当たらず、アマンドは困ってしまう。持ち主を特定するには中も確認するしかない。しかし日記とはプライパシーの塊のような存在。持ち主を確かめるためとはいえ開くことそのものに良心が痛んでしまう。


「……仕方ない、よね。持ち主さん、ごめんなさい」


 自己満足ではあるが、見知らぬ持ち主に謝罪をしてからアマンドは日記を開く。表紙の裏にも名前はなく、1ページ目へと視線が移る。ページには文章が書かれており、その文字は見覚えのないもの。自分が書く文字とも、家族が書く文字とも違う、見慣れない独特な癖のある文字だ。しかし、その内容はアマンドに衝撃を与えるものだった。


『4月10日 晴れ』

『トニー様に婚約の解消を求められる。トニー様に想い人が出来たから。そんなこと許せるはずがない。私はトニー様の言葉を拒否した。そうしたら、トニー様は怒って帰ってしまった。私はこれからどうしたらいいのだろう……』


「なに、これ……。トニー様と婚約の解消……? 私、こんな事書いた事ない。それに4月10日って、3日後……?」


 トニーの婚約者はアマンドのみ。トニーと婚約を解消することができるのは彼と婚約しているアマンドしかいない。書かれている内容の意味だけでなく、何故このような文章が日記帳に書かれているのか、アマンドには全くわからず不気味さを感じてしまう。


 だが、先の内容が気になるのもまた事実。彼女の手はページをめくり、日記の内容を読み進める。


『4月11日 雨』

『おじ様がやってきた。トニー様との婚約について話し合いをするためだ。私は話し合いに参加させてもらえなかった。心配だから隣の部屋でこっそり話を聞くことにする。

 平謝りするおじ様と怒るお父様。トニー様の意思は固く、このまま結婚しても不幸になるだけだという結論に至ってしまった。私とトニー様の婚約は解消。慰謝料なんて貰っても嬉しくない。どうしてこんなことに……』


『5月15日 晴れ』

『いつの間にか学園に私の悪い噂が広がっていた。気がついた時には遅かった。私はトニー様たちの真実の愛を邪魔をする悪役令嬢と呼ばれている。

 おじ様に罰を与えられたトニー様はやつれてしまった。そんなトニー様をレミアが支えている。レミアは平民。お金目当てならトニー様かれ離れるはずなのに、健気に支える姿は愛に他ならないと。

 トニー様が苦労しているのも、結婚を認められないのも、私が婚約を解消せず、婚約破棄になったから。私は何も悪くないのに。こんなの、おかしいよ……』


『7月19日 雨』

『悪い噂は一向になくならない。それどころか、レミアが苛めている犯人だと思われている。私はそんなことしていない。トニーなんて嫌いなのに、私が復縁したがっているから嫌がらせをして取り戻そうとしているなんて、ありえない。証拠も無いのに周りが決めつけてくる。明日から夏休みなのが救い。領地で心を休めよう……』


『7月28日 雨』

『領地にも私の悪い噂が広まっていた。なんで? どうして? 街の人にも心無い目で見られてる。誰もが平民のレミアの味方だ。

 おじ様も領民たちの反発にあって、二人の仲を認めることになったようだ。お父様も頭を抱えている。約束を破ったのはトニーなのに。なんで私が悪者なの? こんなの、絶対おかしいよ……』


『8月 7日 はれ』

『もういやだ。みんながわたしのことをわるくいう。おとうさまだってこころのなかじゃわたしのことをわるくいってる。わたしのせいでくろうしてるっておもってる。なみだがあふれてとまらない。きらい。にくい。きらいきらいにくいきらいきらいきらいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくい』


 後半にいくにつれ乱れる文字。気分の悪くなる内容だが、アマンドは読むことを止められなかった。やがてページに書き込みが無くなり白紙が続く。パラパラと白のページをめくり続け、最後のページに辿り着く。そこにはこう書かれていた。


『こうして悪役は破滅した』


「悪役は破滅した……なんて酷い終わり方。誰よ、こんなもの書いた人!」


 読み切ったアマンドが本を閉じる。実在する人物、それも自分を悪役の主人公として扱う日記帳を乱暴に手のひらで叩くが、彼女の手が痛むだけである。


「どこにも書いた人の名前も書いてないし、気分が悪くなるだけだったわ。あーあ、こんなもの読むんじゃなかったわ」


 あまりにも非現実的な内容だとアマンドは判断していた。何故ならトニーとの関係はいたって良好だからだ。始業式が始まる前に彼の教室を訪ねた時、トニーと休みの間の思い出話に花を咲かせている。婚約の解消をする気配などあるはずもない。


 こんな日記帳捨ててしまおう。そう思ったアマンドだったが、何となく嫌な予感を覚える。それが虫の知らせと呼ばれるとのだと知るのは3日後のこと。この時の彼女は黒い日記帳を適当な本棚へと収納し、気分を変えるために前日の本の続きを読み始めるのであった。



 呆然としていたアマンドは、早まる鼓動を抑えようと胸に手を当てて深呼吸をするが、心臓は落ち着く気配をみせない。だれが書いたかわからない日記帳通りのことが起こったのだ、無理もない。


「だれがどうやって、こんなものを……」


 まるで予言書のようだと考えるアマンドの顔色は悪い。婚約の解消が現実になったのなら、破滅の訪れもまた現実になりかねないからだ。しかし首の皮一枚繋がった状態であるとも言える。


 日記帳の内容を覚えていたこともあり、衝撃を受け動揺したものの、我を忘れるほどではなかった。日記帳のアマンドが破滅したきっかけは、トニーとの婚約解消が上手くいかなったことをきっかけとしている。だから彼女は彼の自分本位すぎる発言に怒りを覚えつつも堪えきることができたのだ。穏便に婚約を解消することが自分の破滅回避に繋がることを祈って。


(これで大丈夫なはず……。トニーはおじ様から罰を受けない。そうなれば今まで通りの生活を送るはず。婚約者のいなくなったトニーが誰と恋をしても、私にはもう関係ない。私が破滅することは、もう無いはずよ)


 日記帳の中をもう一度あらためながら自分が破滅する可能性を検討するが、その可能性は0になったと判断する。トニーと縁の切れたアマンドは二人の恋の障害になりえない。であれば悪い噂も広がりようがない。そう思った。


 安堵することができたことで、ようやくアマンドの心臓も落ち着いてくる。そうなれば思考に余裕が生まれ、自分の将来について考えることも出来るようになる。


「これから先どうしよう。婚約を解消したから、流石にファルダ家で侍女をしたくないわね」


 アマンドはトニーと結婚をした後、ファルダ家の侍女として働く予定だった。トニーが騎士として働きに出ているあいだ、彼の兄嫁であり未来のファルダ伯爵夫人の侍女になり、ファルダ家のために働くはずだったのだ。婚約を解消すればファルダ家とかかわる必要はなくなり、就職先を無くしたことになる。


 そこでふと、アマンドは思う。これはトニーとの結婚で諦めた夢をもう一度追うチャンスなのではないか? と。


 本が好きなアマンドは王立図書館の司書になりたいと思っていた時期があった。本に囲まれ、本の好きな利用者を相手にし、本の好きな同僚と仕事をする生活に憧れを抱いていた。司書になる方法を調べたこともあり、司書になる自分を夢見て王立図書館に通っていたこともある。


 だが、その夢をアマンドは無理に叶えようとは思わなかった。ティクシエ家とファルダ家、両家の繋がりを深め家の発展に貢献する。それこそが貴族令嬢たる自分の役目であると、彼女は理解していたからだ。


 婚約を解消した以上、アマンドが気にしなくてならないのはティクシエ家のことのみ。司書として働くことができれば、生家に依存し迷惑をかけることもない。


(好きな人が王立図書館勤め、という設定にすればと都合が良いかも。夢だけだと領地に戻って仕事の手伝いをして欲しいと言われる可能性もある。夢と恋、二人の理由でお願いすればお父様も反対しにくいはず。やってみる価値はあるわ)


 領地が嫌という訳ではないが、婚約を解消して戻れば次の婚約者探しという話題になることは目に見えている。長年の婚約者だったトニーの手のひら返しは、アマンドの心に浅くない傷をつけた。少なくとも今は新しい婚約者のことなど考えたくもないし、作りたくもないという軽い男性不信に陥っていた。


(先ずはお父様の説得をしなきゃ!)


 親の許可が無ければ先の事を考えても意味が無い。アマンドは開いていた黒い日記帳を閉じ、父親が居るであろう執務室へ行くためにテーブルから離れて扉に向かう。頭の中でどう説得するかを考えていた彼女は、テーブルの上に置かれたままの日記帳が淡く光っていたことに気が付くことなく私室を後にするのだった。



「〜♪ 〜♪♪」


 父親との話を終えたアマンドは上機嫌のあまり鼻歌を歌いながら私室へと戻ってきた。淑女にあるまじい行為だが、勢いのままに彼女はベッドに飛び込んで仰向けに寝転がる。


「〜っ、やった! やりました!! お父様に認めて貰えました〜っ!」


 感情のままに叫び声をあげてしまうのも、アマンドが父親を説得できた嬉しさからのもので、喜びの大きさに我慢が出来なかったからだ。パタパタと両足をパタつかせながら、彼女は父親との話し合いを思い返す。


 突然執務室を訪れた娘に父親は驚き、何かあったのかと訪ねた。ちょっとした困り事があり相談に来たのだろうと想像した彼だが、その内容が婚約の解消だと知ると思わず大口を開けてしまう。


(あんなに驚いたお父様の顔、初めて見たかも。気持ちはとてもわかるけど。私とトニーは今まで喧嘩らしい喧嘩もしたこともないくらいで、婚約の解消をする気配なんて一切無かったから)

 

 驚きと戸惑いを隠せない父に対し、アマンドはトニーに提案した通りの理由を告げ説明をした。当前、父は難しい顔をする。そもそも貴族の婚約は家と家との契約だ。好き嫌いを理由に解消して良いものではない。


 しかし彼女はティクシエ家とファルダ家の場合は幼馴染み同士の婚約という面が強く、この婚約が無くなっても両家の関係は変わらない事を説いた。むしろ、お互いに思い人がいるのに結婚してもうまくいかず、かえって両家の関係が悪くなりかねないとも。円満な婚約の解消が両家のためになると、アマンドは父に訴えた。


 真剣なアマンドの訴えに思うところがあったのか、父は婚約の解消に同意をする。そして、ファルダ家に手紙を送り、トニーの父も合意をした場合には婚約を解消すると明言したのだ。


(大変なのはここからだったわ……)


 アマンドが喜んだのもつかの間、父は彼女に本当に好きな人がいるのかという質問をしたのである。実際のところ、アマンドに好きな人は居ない。だが、この嘘がバレれば前言撤回されかねないと思い、彼女は予定通り王立図書館に好きな人が居ることに加え、司書になりたいという希望を伝えた。


 父親からすれば、娘が長年の婚約者と別れてまで好きになった相手のことだ。どんな相手なのか気にならないはずがない。根掘り葉掘り聞くのは当前のことである。


 質問されるだろうとは思っていたが、こうもしつこく聞かれると思ってなかったアマンドは、答えを口ごもってしまった。咄嗟に彼女が口にしたのは、脳裏に浮かんだとある人物の姿。


(王立図書館の司書さんの姿を思い浮かべて言っちゃったけど、大丈夫だよね……?)


 アマンドが図書館に行くとよく見かける男性職員がいる。短く切り揃えたショートカットと眼鏡が特徴的な男性で、物腰の柔らかい人。本を探しているときに一言二言話をした程度の赤の他人でしかないが、父の質問を躱すために彼を思い浮かべながら質問に答えてしまった。

 

 相手の名前すら知らないと呆れられたが、先ずは司書になり同僚になれなくては名前すら知ることができないとアマンドは言い切る。そこからは如何に司書になりたいかという思いをぶつけ続け、なんとか許可をもぎ取ることができたのだ。


「後は私が頑張って司書に就職するだけ。……こうなってみると、トニーと婚約解消して良かったかも。もし結婚してたら浮気だもの」


 長年の信頼より恋を選んだトニーに対する情は薄れた今、冷静に考えればアマンドの状況は悪くない。今の彼女は不誠実なパートナーと別れ、夢を取り戻したと言える。


 それも黒い日記帳のお陰だった。あの日記帳を読んだことで咄嗟の機転を利かせることができたのだ。感謝してもしたりないくらいである。


「……初めて見た時は不気味な本って思ったけど、幸運の本なのかも。結局、誰のもので誰が書いたのか全くわからないけど」


 ベッドから下りたアマンドがテーブルに近づき、黒い日記帳の表紙を撫でる。特に深く考えることもなくおもむろにページを捲れば、今日の出来事を予言したページが目に入る。


「ふふっ、円満な解消をしたもの。この日記を書いた人がいたら、違う展開になって驚くかしら。それとも悔しがるのかしら」


 微笑みながらアマンドがページを捲り、そこで思わず彼女は硬直してしまう。


「え……? 内容が、変わってる……!?」


『4月11日 雨』

『おじ様とトニーが訪ねてきた。私とトニーは示し合わせた通りに、お互いに好きな人が出来たから婚約の解消をしたいと主張した。そして、円満に両家の婚約は解消することができた。

 トニーは凄く感謝してくれたけど、正直もうどうでも良い。これからはただの幼馴染みに戻るだけ。学年も違うから関わり合うこともないだろう。私は司書になる勉強をしなくては』


「そんな、どうして……? ありえない……」


 愕然としながらもアマンドは日記帳のページを急いで捲り、先を読み進める。嫌な汗が止まらない。彼女の悪い予感は文字として現れていた。読み進めていけば、自分が前と同じようにトニーの思い人に対するイジメの犯人に仕立て上げられ、そんな問題を起こす人間は司書として雇えないと断じられてしまい、失意のまま家を出ようとするところまで記されていた。 


 変わらないのは巻末の『こうして悪役は破滅した』の1文だけである。


「嘘でしょう? どうして私が悪いことに……。イジメなんてするわけがない。ただ勉強しているだけじゃ、駄目ということなの……?」


 既に一度日記帳に記された出来事が起こっている。その内容に助けられた彼女が黒い本を無視するこなどできるはずもなく、次の破滅を回避するために日記帳を読み勧めていく。


「破滅なんてしない……! 私は絶対、司書になるんだから!」


 拳を握り決意を言葉にするアマンドは知る由もない。これから先、幾度となく破滅のきっかけを回避する度に日記帳の中身が書き換わることを。彼女が黒い本に振り回される日々はこうして始まった。

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悪役日記〜破滅を記す黒い本 まじかり @masyakari

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