七の巻 妖術競いあいて京の夜空を騒擾せしこと その五

 日が暮れるとともに、松越屋の裏庭から、滔々と唱えられる真言が周囲に響きわたった。

「オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ」

 京の町家にはほとんど見られない広い裏庭に、三角の炉を中央にそなえた護摩壇がしつらえられていて、その前には宇陀宮配下の真砂菫丸が座り、両手の親指をからめ、伸ばした人差し指をあわせ、他の指は折り曲げた大独股印だいどっこいんをむすんで、真言を唱えている。

 大威徳法だいいとくほう――。

 仏教五大明王の一尊、大威徳明王の調伏法で、戦勝祈願や悪鬼降伏、呪殺に用いられる密教の呪術である。

 しかも、護摩壇の周りに並べられた呪符で折った折り鶴が、じゅが唱えられるとともにぱたぱたと宵闇へと飛び立って、烏へと変化しつつ西へと去っていった。本来の密教の調伏とはかけはなれた呪法であった。

 護摩壇の炉の燃えあがる炎に照らされる菫丸の顔は、ある種の狂気をはらんでさえいるようにみえた。その横顔を、生つばを飲みながら、松越屋の若旦那市之助が見つめている。


 結界を張った高丸屋の庭に、何羽もの烏が突撃をくりかえし、結界にあたった烏は雷にうたれでもしたように消滅していく。

 ――まさか、これほどの大攻勢をかけてくるとは……。

 詠次郎は呪文を唱えつつ、焦りをおぼえた。流れ落ちる冷や汗をぬぐうこともせず、一心不乱に呪文をつむぎ続ける。

「東海の神、名は阿明あめい、西海の神、名は祝良しゅくりょう、南海の神、名は巨乗きょじょう、北海の神、名は禺強ぐうきょう。四海の大神、百鬼をしりぞけ凶災をはらう。急急如律令」

 流れる呪文が結界を生み出し、次々に襲い来る烏をはばみつづける。

 ――これでは呪詛返しをするいとまがない。

 呪いを払うのにもっとも効果的なのは、敵が何者なのかを探り当てることである。敵がわかりさえすれば、呪いをふせぐだけでなく、反対に呪うことさえも容易なのだ。

 そのための呪詛返しであったが、呪いを送り込んでくる烏がたやすく消滅してしまううえに、この間断のない攻撃であった。

「みなさん!」詠次郎は周りで待機しているよろず課の面々に呼びかけた。「一羽だけでもいいです、どなたか飛んでくる烏をつかまえてきてください!」

「そないいわれても、どないせえちゅうねん」

 ぼやく喬吾に、

「鳥刺しでも、網でもなんでもいい、とにかくつかまえてきて!」

 詠次郎はいつにない剣幕で叫んだ。

「はいっ!」

 一同切れの良い返事を返して、庭から路地へと飛びだした。

 そうして飛んでくる烏にむかって、めったやたらに無駄きわまりないジャンプをくりかえし、

「いや、これは無理だぞ」

 さすがの一心も、はあはあ言いながらぼやきはじめる。

 と、すっと黄色い霊気が一閃、

「とうっ」

 気合い声とともに夜空へ舞いあがった。

 狛笛童子に変身した夜十郎であった。

 彼女は片手で烏を難なくつかみ、さっと舞い降りてきた。

「意外と簡単だったな。僕にとっては」

 一同、唖然と彼女を見つめた。しかし、

「あ、痛い、なんだこれ、手がぴりぴりしびれるぅっ」

 烏をつかんだ手を、夜十郎は今にも放してしまいそうであった。

「あ、待って、すぐに詠次郎さんのところへ持っていって、夜十郎さん」

「いや、狛笛童子ですけど。あ、痛い痛いっ」

 ゆさにうながされて、夜十郎が庭の詠次郎まで走る。

 それに気付いた詠次郎が、いったん呪文をやめ、別の呪文をぶつぶつと唱え始めた。

「急急如律令」

 呪文を唱え終えるとともに、烏が白く輝き、夜十郎の手から夜空へと飛んでいった。

 烏の目にうつる光景が、詠次郎の目に届く。

 白い翼をはばたかせ、烏は西へと一直線に敵の本拠へと帰っていく。

「ううむ……、ここから堀川を挟んでちょうど反対にある屋敷……、誰の屋敷だろう」

 詠次郎のつぶやきに、結之介がすぐに反応した。結之介は高丸屋の家の者達にたずねてまわって、

「あ、それなら、松越屋さんや」

 外は大騒ぎなのに、のんきに帳簿のつきあわせをしていた番頭のなんとかさんがすぐに答えてくれた。

「松越屋さん?なぜ松越屋さんが、こちらのお嬢さんを呪うようなことを」

「ああ、簡単な話ですわ。以前、あちらさんから縁談が持ち込まれたんですけど、そこの若旦那があまり評判のよろしくないかたでしてな、うちの旦那様がすぐにお断りにならはったんや」

 帳場から走って戻って、結之介がそのことを伝えると、部屋でじっとしているように言いつけてあったにもかかわらず、いてもたってもいられないのであろう、お嬢様の里緒が顔をだして、

「わたし、そんな話、聞いたことございませんわ」

「ま、まあ、お父様が独断でなされたことでしょうな」結之介がその形相にいささか気おされながら答えた。

「わ、わたしにひとことの相談もなく……、お父様、どういうことでございますの!?」血相変えて里緒は奥へと走っていった。

「せ、せわしない人だ……」結之介はその後ろ姿を見送ってから、「詠次郎さん、聞こえましたか?」

 詠次郎は呪文を唱えながら、わかったというふうにうなずいて答えた。



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