第47話 その後の二人2



「成瀬さーん? もう十一時になりますよ」


「うーんあと五分」


 私の呼びかけにも、彼は目を閉じたまま囁くので精一杯なようだった。気持ちよさそうに寝息を漏らしている。私はふうと息を吐いた。まあ、いいんだけどさ、日曜日だし。


 寝室を出てリビングに入る。あの様子じゃお昼ごはんの準備はまだまだしなくていいな、起きそうにない。


 さて時間が余っている。テレビでも見ようか、それとも? 考えたところで、ああお風呂掃除をやってしまおうと思った。私はそのままお風呂場に入っていく。洗剤を手に持ち、浴槽や床を洗い出した。


 成瀬さんと一緒に暮らすようになって少し。まだ慣れないぎこちなさがあるものの、楽しく過ごせている。


 彼は思ったより人間らしい生活を頑張ってくれているのが意外だった。ご飯はちゃんと食べてくれるし、掃除とかも分担してやってくれている。


 食事作りは絶対に私にお願いしたいと頭を下げられたので了承した。まあ、私もそのつもりだったし。


 部屋に掃除機をかける役割、そしてお風呂掃除をする役割は成瀬さんだ。言わなくてもちゃんとやってくれる。ほかにもゴミ出しや皿洗いなどなど。今までソファから一歩も動けなかった彼からは想像もつかない姿だった。


 ただ、一つ。やはりというか、彼は行動に移すのに大変時間がかかる。


 起き上がるのにかなりの気合を要するらしい。今日みたいに休みの日は昼まで起きてこれないし、平日だって一度ソファに腰かけてしまうと大変だ。動きたくないと嘆いている。まあ、今までの成瀬さんを見てれば安易に想像つく場面だとは思う。


 それでも掃除とか頑張ってくれてるのはありがたいし、生活費も私より多く入れてくれてるので何も不満はない。


 不満というより、心配だ。あれだけ動くのを嫌ってる人に頑張らせてしまって、無理してるんじゃないかなと思うのだ。私は今までの生活と大差ないけれど、成瀬さんは色々変わっているだろうから。


 と、いうわけで、休日くらい代わりに風呂掃除をやってあげよう、と思ったのだ。


 一通り掃除を終えリビングに入り時間を見てみると、正午が近くなっていた。ああ、いい加減お昼ごはんをなんとかしなきゃなと思っていると、背後からのそのそっという足音が聞こえてきた。


「ふああーおはよー」


 全然おはよう、の時間ではないのだが、成瀬さんはあくびしながら私にそう挨拶をしてくる。彼の前髪は寝ぐせで跳ねていた。笑って答えた。


「おはようっていうかこんにちはです」


「ほんとだー寝すぎた。はー歯磨きしてこよ」


 そう言って洗面所に消えていく。起きたばかりだし、昼食はもう少し経ってからかなあとソファに座って考えていると、しばらくして成瀬さんがやってきた。今度はしっかりした足音だった。


「ねえ、お風呂掃除ってした?」


「え? あ、さっき時間があったから」


 正直に答える。私はてっきり、ありがとうと感謝されるかと思っていた。成瀬さんは掃除が嫌いなはずだし。


 だが彼は予想外に、私の隣りに腰かけると、眉をひそめて言った。


「俺の担当だから、志乃はしなくていいんだよ」


「え、でも時間があったし」


「ぼーっと休んでればいいの。俺を甘やかしちゃだめだよ、そりゃなかなか起きなくて申し訳ないけど、起きたらちゃんとやるから」


「違うの、起きないから怒ってやったわけじゃないの! いつも頑張ってくれてるから」


「そんなの、ご飯いつも作ってくれてるし頑張ってるのは同じじゃん。

 そりゃ仕事が凄く忙しいとか、体調悪いときとかは協力し合えばいいよ。でもそうじゃないときに、どっちかが負担を大きくするのはよくない。志乃が大変になっちゃうよ」


 彼は真剣なまなざしでそう言う。私は俯いて答えた。


「だって……成瀬さん、無理してないかなあって。今まで動かない生活に慣れてたのに、ここにきて家事とかさせられて、こんな生活が嫌になったりしないかな、って」


 そう、私の本音はそこにあった。


 同棲が始まって苦労してるのは私より成瀬さんだと思う。最初は盛り上がっている気分でなんとか乗り越えたとしても、人間最初のテンションを維持することはできない。


 彼の負担になることだけは避けたい。


 私が弱弱しく言ったのを、彼は驚いたように目を見開いた。信じられない、とばかりに首を振る。


「嫌になる? とんでもない! そもそも強引にこうなるよう持ち掛けたの俺じゃん」


「い、いやそれは」


「そりゃ動くのも掃除するのも好きじゃないよ。でもそれ以上にめちゃくちゃ大事なことがある。毎日あんな美味いものを食べられる嬉しさとか、朝起きたときに横で好きな子が眠ってる幸福とか、そういう楽しいことが何万倍もあるわけ。だからちょっとの苦労なんて気にならないよ」


「そ、そうならいいんだけど……」


「今までは家に帰っても楽しいことなんて一つもなかった。ただ寝るだけの場所、って感じで、許されるなら会社に泊まっていたいぐらいだった。だから掃除だって飯食うのだって億劫だった。

 でも今は全然違う。ちょっと頑張るかわりに、これだけの幸せが溢れてる家に変身したんだから、俺にとっては全然苦じゃないんだよ」


 真っすぐ私を見て話してくれる。その言葉に胸を打たれながらも、彼の前髪は未だ寝ぐせで跳ねているのが目に入ってしまい、少しだけ笑ってしまった。


「え、うそ笑うとこ?」


「いやすみません、凄くいいシーンなのに寝ぐせが酷かったから」


「あー確かに」


 笑いながら前髪を抑えている。私はそっと彼に頭を下げた。


「じゃあ、これからもよろしくお願いします。でもどうしても負担になった時は言ってほしい、生活費とか多く支払ってくれてるのは成瀬さんだし」


「まあ志乃との生活が負担になることなんて絶対ないけど、分かった。変に気を遣わないでいいからほんと。真面目だなあ」


「う、うん」


「そっちに気を回すより、まだ名前で呼んでくれないのを何とかしてほしいところだよ。敬語も取り切れてないし」


 成瀬さんは目を座らせて言う。慌てて謝った。そうなのだ、今までずっと職場の先輩だったし、なかなかすぐに言葉遣いが変えられない。


「ご、ごめん、これは慣れ!」


「まあ可愛いからいいんだけどさあ」


「成瀬さん、って呼び馴れてるから」


 

「まあ気持ちもわかるけどさ。志乃もそのうち成瀬になるんだからその呼び方さすがに変じゃん」


「あは、それは確か……え?」


「え?」


「え?」


「………あ、ごめん、さすがにちょっと急ぎ過ぎた」


 成瀬さんはしまったといわんばかりに口を手で覆った。つい滑ってしまった口を戒めているようだった。私は顔が熱くなり、そのまま俯く。


 いやいや、確かに急ぎすぎ。そもそも付き合ってすぐに同棲したのもスピードが凄かったのに、そっちまでそんな早さで進んでしまってはさすがに困る。


 そりゃ、そういうことを考えてないわけではないけれど……。


 成瀬さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「ごめん、早とちった、引いた? 願望が口から出ちゃった」


「い、いや引いたわけじゃない」


「ならよかった」


「びっくりしただけ」


「そう? 俺の頭の中いっつもそういうこと考えてるよ」


 笑いながら自分の頭を指さしている。仕事中はあんなにスマートで頼りになるのに、家では全然違う顔。ただ、両方の顔を好きになってしまった自分がいる。


「まあ、びっくりしたけど……私も考えないわけがないし」


「え、ほんとに!? なんだー俺だけかと思った! じゃあ早速」


「考えることもあるけどさすがに早いから!」


「あーやっぱり? そりゃそうだよね、まあそんな急ぐことじゃないしね。それにこんな形じゃさすがに締まらないよなーいずれちゃんと言わないと」


 そう言う成瀬さんはなんだか一人楽しそうに笑っていた。鼻歌を歌いだしそうなぐらい上機嫌な彼に、私はただ微笑んでしまう。


 とにかくもう少しこの生活に慣れないと。こういう一つ一つの話し合いがきっともっと二人を近づけてくれる。これから同じ道を歩いていくのに、遠慮はよくないから。


 笑いあっていると、ふとしたタイミングで成瀬さんが私にキスを落としてきた。彼が触れてくるタイミングは未だによく分からない、突然すぎて驚くことが多い。


 押し込むように繰り返されるキスに、つい体が倒れていく。それを二本の腕で必死に支えて耐えた。彼はさらに押してくる。抵抗する。


 少しして顔を上げた成瀬さんは不満げだった。


「え、だめ? スイッチオンなんですけど」


「なんでこのタイミングでスイッチ入るんですか! 今からご飯ですよ」


「だって可愛いかった」


「ずっと思ってたけど成瀬さんの可愛いポイントはかなりずれています」


「そう? 言っとくけど俺を好きだなんて言う志乃も相当ずれてるから」


 うっ。そうなんだろうか。まあ、始めの頃は好きになったら苦労するし絶対ないなあ、と思ってたけど。


「と、とにかくまずはお腹すいたんです、ご飯が先です」


「まあ、それもそうか。俺が寝坊したから昼飯からだね、今日何にする?」


「昨日は外食したし簡単に作ろうかなあ」


「よし手伝う!」


「まずは前髪なんとかして?」


 楽しい二人暮らし。思った以上に幸せな二人暮らし。


 きっとこんな生活が、これからも続いていく。






おわり。→おまけ

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