第14話 救世主

「なんの騒ぎ?」


 凛とした声が響いて、一斉に視線がそちらへ動いた。みんなが一目置いている人間の声だったからだ。


 すっと背筋を伸ばして立ち、険しい顔立ちでこちらを見ていたのは成瀬さんだった。


 会社では仕事のこと以外、成瀬さんとしゃべる機会などない。プライベートで見る彼と違い、どこか厳しく冷たい目をしていて、私はなんだか心がどきりとした。


「あ、成瀬!」


「高橋さんが泣いちゃってて。佐伯さんが厳しく指導しすぎたみたい。佐伯さん大分声荒げてて」


「大丈夫? 高橋さん」


 黙って話を聞いている。そんな成瀬さんと、バチッと目が合った。彼の鋭い目が、すうっと細くなる。私は体を強張らせ、何も答えられずにいた。叱られている子供のようだ。


 成瀬さんはこちらに歩み寄る。そしてまず、高橋さんの正面に立った。そして淡々という。


「第三者の話だけを聞くのはよくない。本人の口から聞かないと。

 佐伯さんはなぜそんなに高橋さんに怒ってたの?」


 高橋さんは、少しだけ視線を泳がせた。小声で答える。


「プライベートなことなので、ここでは……」


「プライベート?」


 成瀬さんの眉間に少し皺が寄る。


「まあ仕事中にプライベートな話は一切するな、なんてことはありえないけど、でもそれで揉めるのはどうなの?」


「いえ、それで! いつも佐伯さんは厳しくって、それで私がほかの人に教えてもらおうとすると止めろって怒ったり」


 周りの社員たちは一斉に私を見る。思えば、高橋さんに仕事を頼まれて嬉しそうにしていた社員ばかりだった。私がいい返そうと口を開くより先に、成瀬さんの声が飛んだ。


「佐伯さんは意味もなくそういうことをする人じゃない。ほかの人間に頼りすぎて高橋さんが成長しなくなるのを危惧したのでは?」


「え?」


「佐伯さんは真面目で仕事も出来る人だ、見てれば分かる。どんな時にそういわれたの? 厳しいというのは言い方? そうなら一体どんな言い方? 今泣いてた直接的な原因は何を言われたから?」


 質問攻めに高橋さんが黙る。周りの人たちも息をのんでそれを見守った。


 私はなにも声を発せずただ心臓が痛いほどに鳴っているのを手で押さえていた。圧倒的な悪役だった自分の話を、成瀬さんはしっかり聞こうとしてくれている。


 答えない高橋さんを置いて成瀬さんんがこちらを振り返る。


「佐伯さんはどう?」


「……成瀬さんのおっしゃるように、他の人に頼りすぎると、高橋さんの成長の妨げになるかと思い、止めていました。厳しかった、というのは自覚ありませんでした」


「なるほど。

 高橋さんは確かによく人に仕事を頼ってるね。もちろん頼るのは悪いことじゃない、でもそれが君自身の成長の邪魔になっていたら話は違ってくる。そこは注意されても仕方ない」


 きっぱり言われ、高橋さんは黙り込んだ。どこか不満げにスカートを握りしめている。


 次に成瀬さんは私を見る。


「佐伯さんも、声を荒げるのはよくない、君の立場が悪くなるだけだ」


「……すみませんでした」


 やや場の空気が変わる。


 周りの人間は戸惑いであたふたしていた。泣いている弱そうな高橋さん、でも正しいのはあっちかもしれない。一体どう解決させればいいのだ、と。


 成瀬さんは腕を組み、考えるように言った。


「それぞれ思うこともあるだろうし言いたいこともあるだろう。でもまずは冷静になって。人前でそんなふうにさめざめと泣いては、周りも混乱する。不満があるなら泣くだけではなくて口に出すんだ。

 泣いてるだけじゃ俺は味方にはならない」


「……」


「これでも普段の様子もしっかり見てる方だと思うよ。どうすれ違ったのか分からないけど、佐伯さんは故意に人を傷つけるような人ではないことは確かだ。普段から厳しいっていうのも、捉え方次第なのか……」


「少なくとも私はそんなふうには感じませんよ」


 突然声が響いた。成瀬さんの後ろから現れたのは、今泉さんだったのだ。


 今泉さんは堂々とした様子で私たちの中に入ると、ちらっとだけ高橋さんを横目で見、言う。


「私は佐伯さんの隣りの席ですから、指導してる様子はいつも見てます。佐伯さんは丁寧で優しいし、怒ってるところなんて見たことないですよ。あれで厳しいなんて言ってるなら相手が誰でもそう感じるんじゃないですか?」


 ありがたい発言。私は心の底から今泉さんにお礼を述べた。ああ、ちゃんと普段から頑張ってるところを見てくれてる人がいるって、なんて幸せなんだろう。


 高橋さんは無言で今泉さんを睨んだ。おお、怖。本当の顔が見えた感じ。


 成瀬さんははあ、とため息をつく。


「なるほどね。まあ、これ以上議論しても結果は一緒だろう、二人は合わないってことだ。高橋さんの指導係は誰かに代わってもらった方がいいのかも」


 それを聞いて心でガッツポーズを取ったのは私だ。正直、高橋さんのミスをカバーするのも疲れたし、何よりもう関わりたくないと心の底から思っている。だがしかし、喜んだのは向こうも一緒だったらしい。高橋さんは、弾んだ声で叫んだのだ。


「じゃあ成瀬さんにお願いしたいですっ!!」


「……へ」


 一同、ぽかん顔。目をキラキラと輝かせた高橋さんは、ずいっと成瀬さんに体を寄せ、甘えるようにしてなお続ける。


「だってこれ以上ないお人ですよー営業トップの成瀬さん、ぜひお仕事教えてもらいたいですっ! 私頑張りますから!」


 私は唖然としながら彼女の横顔を見つめた。そしてふと思ったのだ。


 もしかして最初からこれが目的だった?


 指導係を代えてほしい。もちろん自分の立場が悪くならないように。となれば、私を怒らせてそんな流れに持っていくのが一番自然だろう。彼氏を寝取ってみたり、その後も交際を匂わせたりして、私を怒らせたかった? 後輩に彼氏を取られました、なんて、私が口に出せないのも分かってて。


……考えすぎかな。普通そこまでやらない、よね?


 周りで黙っていた男性社員が、さすがに困ったように口を開いた。


「いや、高橋さん。成瀬さは、俺らとは違って大きな案件とか抱えてて忙しさが比じゃないんだよ。指導係とか無理だから」


「うん、成瀬はね。俺やってもいいよ」


「えーー! 成瀬さんがいいんです」


 引かないぞこの小娘。


 全員困り果てて高橋さんを見ている。今泉さんはもはや舌打ちして睨んでいた。顔に出しすぎです、今泉さん。


 成瀬さんは頭を掻きながら答えた。


「ていうかまあ、指導係のことはまずもっと上の人と相談しないと、さすがに俺の独断じゃ出来ないし」


「ええ……」


「みんなが言うように俺は外されると思うけど」


「そんな! 成瀬さんがいいんですっ!」


「そう言われても無理だし」


 キッパリと言われ、高橋さんは膨れた。が、すぐに言う。


「じゃあ、指導係じゃないにしても、手が空いてる時は分からないこととか、教えてくれますか?」


「それはまあ、いいけど」


「やったー! ありがとうございます!」


 ぴょんと跳ねて喜ぶ。私と今泉さんは無言で顔を見合わせ、そして静かにため息をついた。


 そしてようやく、誰からともなくその場は解散された。高橋さんは成瀬さんの隣りに肩を並べ、何やら嬉しそうに話しかけている。


 私はもうコーヒーなんて買う気にもなれず、その場でがくっと座り込んだ。


「佐伯さん! 大丈夫!?」


「今泉さん……フォローありがとうございました……もう私、完全に悪役にさせられてて」


「途中からしか見てないけどなーにあれ。佐伯さんが厳しいとか、よく言えるよね。あの子のせいで佐伯さんの仕事量とか増えてるっていうのにさ、どの口が言うねん」


「まあ、これで指導係から解放されるならもういいです……」


 疲れた。どっと疲れた。怒りとかより、それが先だ。


 指導係から外されれば大分肩の荷が降りるだろう。ストレスも半減だ。


 今泉さんがやや声を潜めて言った。


「でもさ、成瀬さんさすがだったね。すごく佐伯さんの味方してたじゃん」


「あ、は、はあ」


「好感度爆上がりしちゃった。ちゃんと見てるなーって思ったよ。あの様子なら大丈夫、きっと上にも成瀬さんから上手く言ってくれるよ。佐伯さんが変な噂されることはないんじゃないかな」


 確かに、完全にみんな高橋さんを信じていたところに、成瀬さんが入ってきてくれてひっくり返った。元々周りから一目置かれる存在なので、こうなるのは自然なことだ。


 私は故意に人を傷つけたりしない、って断言してくれた。きっぱりと……。


(……嬉しかったな)


 頬が熱い。ああ、でもお礼を言いそびれてしまった。


 私はややドキドキする胸を押さえながら、会社の外で必ずお礼を言おう、と心に誓った。

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