序章 滅び②



 最初に、虚空は紗月に字を教えてくれた。暗殺指令などを読めないと、話にならないからだ。ここにやってきた数日は字の勉強だけで、(意外にいいところに来たのかもしれない)と思ったぐらいだ。

 紗月は文字の読み書きができなかった。紗月だけではなく、農村では村長や長者の家以外の子どもはほとんど読み書きができないものだ。農村の識字率は都市部より、かなり低い。

 父親が名付けのときに村長に漢字で紗月の名前を書いてもらったらしく、その紙が家のなかにられていた。だから、昔から紗月は自分の名前だけは形で覚えていた。字を習ったおかげで、名前も書けるようになった。

 虚空が言ったとおり、衣食住も保証されていた。

 しかし、一週間後に紗月は他の暗殺者候補と共に訓練にほうり込まれた。これが、地獄じごくの始まりだった。


 集団訓練を受ける前に、短刀・打刀・脇差わきざしの使い方を一通り教わった。武士は基本的に二本差しで、長いほうの刀を打刀、短いほうを脇差と呼ぶ、と紗月は初めて知った。短刀は神主が儀式ぎしきで使っていたのを見たことがあったので、知っていた。補助的に使うものらしいが、暗殺者が一番使うことになるのが短刀だと教わる。小回りがくため、忍んで殺すのに適しているらしい。

 その後、体力作りのためといって、森のなかを走らされた。がむしゃらに走っていると、後ろから矢が飛んできた。

 聞いていなかった。矢が飛んでくるなんて。うでをかすったが、幸運だったのかそれ以上被害ひがいに遭うことはなかった。

 しかし、前を走る男児の背中に矢がさり、彼がたおれるのを見て紗月は驚愕きょうがくし、立ち止まりそうになった。

「止まるな! これは訓練だ!」

 後ろから飛んでくる声に背を押されるようにして、紗月は走る。

(あんなの絶対、死んでるのに)

 訓練は命がけなのだと、そのとき紗月は初めて実感した。

 走り終えたあと、指導役の若い男が紗月に声をかけてきた。

「お前は新入りだから、今日は手加減していた。三日後には、他の者と同じようにあつかう」

 警告に、紗月は愕然がくぜんとしてうなずくことしかできなかった。


 さらに、集団訓練のあとは、虚空による特別訓練が待っていた。

 夕刻になって薄暗うすぐらくなった訓練場には、紗月と虚空しかいなかった。他のみなは今ごろ、夕食を取っているだろう。

「今日のように特別訓練がある日は、俺の部屋でおそめの夕食を取るように」

 と虚空が教えてくれた。

 おかげで、ひもじい。空腹だけではない。最初の集団訓練でほとほとつかれて、倒れ込みそうだった。

師匠ししょう、今日は……無理だ。明日あしたに、して」

 懇願こんがんした瞬間しゅんかん胸倉むなぐらをつかまれる。

 虚空は短刀のやいばで、紗月のほおでた。

「お前に断る権利はない」

 無表情で、虚空はささやく。

「教えてやろう、紗月。暗殺者は、刃だ。刃は使われるだけ。使用者を選べず、刺す相手も選べない。お前は、そんな刃になるためにここに来たのだ。刃が疲れたと言うか? 言わないだろう?」

 短刀がすべるように、首元に移動する。直後、痛みが走った。血の感触かんしょくはしなかったので流血はしていないのだろうが、刃は確実に紗月の首に痛みをあたえていた。

「ひっ……うぐっ……」

 思わず涙がこぼれ、嗚咽おえつらすと、虚空は顔をしかめた。

「泣くな。体力を無駄むだに使うだけだ」

「だ、だって……」

「今すぐ泣きやめと言っている!」

 怒鳴どなられて、紗月はおそろしくてますますひどく泣いてしまう。

「この、愚図ぐずが。泣くことは体力を消耗しょうもうするだけの、実に無駄な機能だ」

 虚空が手を放し、紗月はくずおれる。

 呼吸を整え、なんとか泣きやんだところで短刀が飛んできて、地面に刺さった。

「弱者になりたくないなら、俺の首を取る気で来い」

 紗月は短刀を取って、さけんで、丸腰まるごしの虚空に向かって走り出す。

 虚空はあきれたように紗月の攻撃こうげきをあっさりけていた。標的を見失った紗月は、そのまま倒れ込む。もう体力が残っていない。空腹も限界で、気分が悪い。だが、虚空は冷たく紗月を見下ろしてくる。

「うわああああああああああああああ!」

 自分を鼓舞こぶして、もう一度、虚空に打ちかかる。また避けられ、ひざをつく。

「いちいち叫ぶな。耳障みみざわりだ。――さあ、もう一度」

 虚空は一切いっさい容赦ようしゃしなかった。


 紗月が落花流水に来て、一月った。なんとか集団訓練で死ぬこともなく、生きている。

 夕食の折、昨日までとなりに座っていた少年がいないことに気づく。代わりのように、紗月よりもあとに最近来た少年がそこに座っていた。

(あの子は、今日の訓練で、やられたか……)

 ずっと隣の席だったので、食事の折には少し話すような仲になっていたのだが。

 あの走り込みの訓練では、矢で射られて死ななくても「矢が直撃した時点で不適格」とされて、処分されてしまうのだという。それも、あの少年が教えてくれた。処分とは「殺されることだ」ということも、こっそりと。

 諦念ていねんと共に、紗月は彼の冥福めいふくいのる。

 疲れのせいか食欲しょくよくがなかったが、無理矢理に麦飯と漬物つけものをかっこんだ。「食欲がないからあとで」なんて言えない。そんな選択肢せんたくしはない。食事は供給されたときに取らなければ、かれる。無理してでも食べなければ、訓練にえられない。


 落花流水での過酷かこくな日々は続いた。

 周りの子どもは、どんどん処分されていった。

 落花流水は、常にどこからか子どもを連れてくる。紗月のような家族をなくした子どもに甘言をささやき連れてくることもあれば、やみ市場で売られている子どもたちをまとめて買ってくることもある。

 いやでも、さとる。

 ここでは、人間は消耗品なのだと。

 また、虚空は弟子でしを取りたがらなかったのに、周りがうるさく言って仕方なく紗月という弟子を育てることにした、という事実も風のうわさで知って、あまりいい気持ちにはならなかった。


 あるとき、紗月は走り込みの集団訓練中に高熱を出して倒れた。

 気がつけばたたみの上にかれた布団ふとんかされていた。いつも寝起きしている、子どもたち用の雑魚寝ざこね部屋ではなくて、何度もまばたきをする。

 ここは、虚空の部屋だった。

 部屋のあるじは、文机ふづくえに向かって何かを書いている。

「……師匠」

 呼びかけると、虚空が無表情でり返った。

「私、どうして、ここに」

「発熱したから、念のためにほかの子どもとは隔離かくりしろと言われた。医者の見立てでは、ただの疲れによる発熱だろうが、と。一応、お前は俺の弟子だからな。俺に責任がある」

 だからここに連れてきた、と言いたいのだろう。

 面倒めんどうそうなひびきで、本当に虚空は仕方なく弟子を取ったのだと察する。

「紗月。指導役から報告があったので、注意しておく。他の子どもの死をかなしむな」

 いきなりの発言に、紗月はぎくりとする。

「花を手向たむけていた、と聞いた。がけから落ちた子どもに向けて、花をんで投げていたと」

「……ちゃんと、訓練が終わってからやったことで――」

「そういう問題ではない」

 虚空は立ち上がって、こちらに近づいてきた。

同輩どうはいの死をいたむこと自体が問題だと言っている」

「悼むことすら、許されないのですか……?」

「同輩は仲間ではない。敵だ。お前が生き残るには、同輩を蹴落けおとしてい上がらないといけない。彼らの死は哀しいことではない。力量が足りず、処分されるのは当然のこと」

 冷たい台詞せりふに、じんわりとなみだがにじんでくる。泣いてはいけない、とまぶたを閉じてそれをこらえる。

「暗殺者に情はいらない。覚えていろ」

 念押しされて、何度も紗月はうなずく。

 ふと、虚空が枕元まくらもとに座ったので、不思議に思って師を見上げる。

「子どもとは、かくももろいものだったか」

 相変わらず表情を変えずにつぶやくものだから、紗月はどういった反応をしていいかわからないなりに、なんとか答える。

「……師匠も昔は、子どもだったでしょう……?」

「忘れたな。おのれが子どもだったときなど。とにかく、早く治せ。あまりに長い時間寝込んでいると不健康だと判断され、不適格対象になるぞ」

「それで不適格になったら、私はどうやって殺されるのですか?」

 訓練で落ちこぼれた者たちがどこかに連れていかれることは、知っていた。しかし、彼らがどうやって殺されるかは知らない。えて知ろうとしなかった。

 だが、急に知りたくなった。このまま熱が下がらなければ殺される、とわかったからだろうか。

「俺が殺す。責任、というのはそういうことだ」

 虚空は紗月の細い首に片手を当てた。骨張った長い指に力を入れられれば簡単にめ殺されそうだと思いながら、紗月はへらりと笑う。こわいはずなのに、どこか安心する。

(仕方なく取った弟子でも――師匠ししょうは最後まで、責任を果たしてくれるんだ)

「とにかく寝てろ。熱が下がったら、自分の寝床ねどこもどれよ」

 素っ気ない口調に切なくなりながらも、紗月は着物の胸のあたりをぎゅっとつかむ。桜色の勾玉まがたまに、早く治りますようにと祈って、目を閉じる。

 幸い紗月の熱は一晩で下がり、また訓練に戻ることができた。


 日に日に、紗月の頭からは記憶きおくがおぼろげになって、抜け落ちていった。砂が手からこぼれるように、止めようがなく。

 いつしか紗月は両親の顔も声も、思い出せなくなっていた。

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