第16話 陰りⅡ
どれくらいそうしていただろう。全く泣き止まないからか、ヒルダが横からグラスを差し出してくれた。
「ミエラ、これ飲んで」
「う……うぅ……」
それを合図にクラウから身体を離し、グラスを受け取った。中身の水をちびちびと半分くらい飲み、それをヒルダに返す。
「今日、寝てないでしょ? 一日安静って言われたし、少し休んだ方が良いよ」
グラスを受け取りながら、ヒルダは悲しそうに微笑む。クラウとセドリックの顔も見てみると、二人とも頷いてくれたので、その言葉に甘えて休ませてもらう事にした。そっと布団の中に潜り込む。
どっと疲れが押し寄せてきた。
「三人は、寝たの?」
「俺たちの事は良いから。今は自分の事だけ考えて」
「でも──」
「でもじゃない。今日だけでも俺たちの言う事聞いて欲しい」
何も言い返せない。声量は小さいものの、あまりにも悲しそうな声色だったから。
クラウは眠気を誘うように優しく私の頭を撫でる。凄く心地が良くて、そっと瞼を閉じた。暗闇の世界へと落ちていく──
────────
眠りは深かったようで、夢は見なかった。グレーの視界に戻ってくると、何やら三人が話し合いをしているようだ。意識がぼんやりしているせいなのか、 話し声が小さいせいなのか、何を話しているのかまでは聞き取れなかった。
そっと瞼を開ける。
「クローディオ……」
「……ミエラ!」
呼び掛けると、視界の左側に三人の顔が並んだ。
「何か……熱っぽい……」
熱が出た時特有の変な寒気がする。頭と左腕も少し痛い。
額にひんやりとした何かが触れた。
「大分、熱が上がってる。水嚢持ってきてもらおう」
足音と話し声が聞こえ、程なく柔らかな冷たい物が額の上にセットされた。頭の熱が逃げていくようで気持ちが良い。
吐息を吐き、三人が居るであろう左側を向いた。
「左腕の痛みはどう?」
「少し、痛いだけ」
「そっか……」
ヒルダは安心したのか、心配なのか良く分からない表情をする。
「犯人は何が目的だったんだろう。脅し? それともミエラを傷付けたかっただけ?」
「誘拐……」
「誘拐!?」
「うん、生け捕りって、言ってた」
少しずつ夜の出来事を思い出していく。自分の心に負担がかからない程度に、ゆっくりと。
「でも、どうして?」
「それは……分かんない。でも……。公爵家に肩入れされた自分を恨め、って」
「……父さんか俺のせい、か」
クラウは辛そうに眉間に皺を寄せる。
「でも、二人とも恨まれるような事なんてしてないでしょ?」
「そうだけど……。心当たりが無いだけで、逆恨みって可能性だってあるし……」
「それは何れ分かります。犯人が捕まったら」
果たして犯人は見付かるのだろうか。この世界にはまだ警察だって居ないだろう。顔も見ていないし、確実な証拠だってあるのかどうか分からない。
「証拠は……?」
「この部屋に落ちていた短剣にイニシャルが彫られていたそうです。売った武器屋が分かれば、もしかしたら持ち主と当主も分かるかも」
そこまで調査が進んでるとは思わなかった。平和過ぎるこの世界を少し侮っていたのかもしれない。
「後はルーゼンベルクの執事たちの能力次第、になるね」
「皆、頼む……」
ヒルダは口を真一文字にし、クラウは手を組んで額を乗せた。
「……兄さん、姉さん、先に夕飯食べてきて。ちょっとミエラと二人だけにして欲しい」
「分かった。セドリック、行こっか」
「ああ」
視界からセドリックとヒルダの姿が消える。蝶番の軋む音が響くと、クラウは周りの気配を気にしながら声を潜めて話し始めた。
「これまで、この世界でこんな事件は起きた事無いんだ。正直、焦ってる」
「……王様たちが人の負の感情を操るのを止めたから?」
「だと思う」
「たった一年で、此処まで……」
クラウも魔導師を辞めて十八歳に戻されたのなら、そういう計算になる。ところが、クラウは首を横に振る。
「一年じゃない。少なくとも四年……アレクが魔導師を辞めた時に遡るなら」
忘れていた。アレクとフレアの存在を。今、この時だけ。
「そうなら、これからもっとこんな事件が増える。ミユが狙われる事だってまたあるかもしれない。それでも……俺と一緒に居てくれる……?」
最後は声が萎んでいた。不安、戸惑い、焦り、怒り──色々な感情が入り交じっているのだろう。
正直に自分の気持ちを言うのは気が引ける。それでも言わなければ。
「正直、言うとね?」
「うん」
「公爵夫人になりたくないって思っちゃった。クラウにも公爵になって欲しくない。誰かに譲れるなら、譲って欲しい。でも……無理なんだよね?」
「……うん」
クラウは悲しそうに目を伏せる。
「それなら、私はクラウに着いて行く。行く先が地獄でも、私はクラウの隣を歩く。百年前から気持ちは変わらないよ」
「ミユ……」
クラウは顔を上げると、そっと微笑んだ。
「ありがとう……」
大きな手が私の左頬を包み込むので、私も笑顔を返した。
「アレクとフレアには俺から手紙で伝えておくから。ミユはもう怖かった事思い出さなくて良いからね」
「うん、ありがとう」
事件後、やっとクラウと二人で少しだけだけれど笑い合う事が出来た。
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