第6章 陰り

第15話 陰りⅠ


 そう言えば、水を飲む前に火を消してしまった。

 目が慣れるのを待ってから、スツールの奥に置いてあったグラスにアルミポットに入っている氷水を注いだ。一度「ふぅ……」と息を吐いてからそれを飲み干すと、グラスを元の位置へ戻した。

 今日は良く眠れそうだ。欠伸をしながら片手で伸びをしてから、布団に手を掛けようとしたその時。直ぐ後ろに人の気配を感じた。


「……誰?」


 メイドの中の誰かだろう。その程度にしか思っていなかった。

 振り向こうと顔を動かした時、首筋に鋭い痛みを感じた。


「えっ?」


「声を出すな。出したら殺す」


 小さな声が耳元で響く。男の人の低い声だ。

 一歩後退ると、背中からその人にぶつかってしまった。そのまま片手で羽交い締めにされた格好となる。

 一体何が起きているのだろう。一生懸命、頭の中をフル回転させる。

 こんな状況はテレビや小説で見た事がある。誘拐か殺人──

 一瞬にして血の気が引いた。頭の中が恐怖で埋め尽くされていく。


「抵抗しなければ殺したりはしない。生け捕りにしろと主からの命令だ」


 誰が、どんな目的で私を。訳が分からない。

 一瞬、ルーナの顔が頭を過ぎる。ベルに手を伸ばそうとしたものの、腕が言う事を聞いてくれない。身体を動かそうとすればする程、拘束する力は強くなる。


「静かにしろ! 公爵家に肩入れされた自分を恨め」


 私だって、このままむざむざと誘拐される訳にはいかない。徐々に後退を始めた犯人に抵抗しようと、足に力を入れる。

 ポロリと右足の靴が脱げた。瞬間、足に力が入らなくなる。

 ──駄目だ。


「……ルーナ!」


 必死に声を振り絞り、何とか叫んだ。


「チッ!」


「きゃっ!」


 首に僅かな痛み、左腕に火を噴くような痛み、投げ飛ばされた衝撃を受け、その場に倒れ込んだ。左腕を庇うと、ぬるりとした感触が右手に伝う。

 凍えるような風が身体を通過していく。


「お嬢様! ご無事ですか!?」


「痛い……痛い……!」


「なんて事……!」


 異様な左腕の痛みで目を開ける事が出来ない。


「誰か! 早くお医者様を!」


 色々な人が忙しなく走り回る音が聞こえてくる。


「直ぐにお医者様が到着されます! それまでどうかご辛抱を!」


 時間の経過が酷くゆっくりに感じられる。どれだけ待っても痛みは引いてくれない。それどころか、益々酷くなっていく。

 呻き声を上げる私の背中を誰かが撫ぜる。

 どれ程の時間が経ったのだろう。ようやく誰かが私の上半身を起き上がらせた。

 僅かに目を開けると、霞む視界に白い服を着た誰かの姿を確認できる。


「私は医者です。傷口を確認しますね」


 言われ、ゆっくりと右手を離した。誰かの手が左腕に触れ、激痛が走る。


「あっ……!」


「これは……」


 息を飲む音も聞こえる。私の傷はそんなに酷いのだろうか。


「消毒して、縫合します。大丈夫ですからね」


 その声を聞いても安心は出来なかった。未だに怖いし、身体だって震えている。


「ミエラ嬢……」


 処置を受けている間、医者の他にも誰かがずっと付き添いながら私の背中を撫でてくれていた。

 そうこうしている間にも、公爵家に連絡が行ったらしい。


「ミエラ!」


 この声はヒルダだ。

 顔を上げると、泣き出してしまったヒルダと、隣に赤髪で眼鏡を掛けた男性が一人居た。しゃがんで私と目線を合わせ、右手を握る。


「もう大丈夫だよ。私とセドリックが来たから大丈夫。クローディオもこっち向かってるからね」


 小さく頷いてみせる事しか出来ない。


「もう、何があったのぉ……」


 とうとうお姉様はへたり混み、俯いてしまった。

 私も頭が働かなくて、状況が良く分かっていない。ううん、分かろうとしていないのだろうか。

 本当に怖い時には涙も出ないらしい。

 左腕にようやく包帯が巻かれ、首にはガーゼも貼り付けられた。


「終わりましたよ。今日は一日安静にしていて下さい。熱が出るかもしれませんから。首の傷は軽いですが、左腕の傷は……」


 そこで区切ると、医者は言い淀む。


「血管が切断されていました。一生傷跡が残るでしょう」


「そんな……」


 ヒルダの小さな声が漏れる。


「逆に首の傷が大した事無くて良かった。……失礼致します」


 医者は深くお辞儀をすると、助手らしき人と出ていってしまった。

 事の重大さに気付かされる。首の傷と左腕の傷の程度が逆だったなら、私は今頃死んでいただろう。


「なんて事するの! 許せない!」


「ああ。……ミエラ」


 ヒルダの隣に居た男性はヒルダの頭を撫で、次いで私に視線を向けた。


「こんな状況で申し訳ない。私はセドリック・グリフォン。ナイトフォード侯爵です。お兄様、とでも呼んで下さい」


 男性――セドリックに小さく頷く。


「ミエラ、取り敢えずベッドに移動しよう。私が支えますから」


 セドリックは私の直ぐ側にしゃがみ込み、自身の肩に私の右腕を回す。左腕に触れないように私の左腰を軽く掴むと、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。そのままそろそろとベッドへ移動する。私がそこへ腰を下ろしたのを確認すると、セドリックは二脚の椅子を傍へ持ってきた。セドリックに続いてヒルダも其処へ座る。


「ミエラ、何があったの? 言ってくれなきゃ分かんないよ」


 出来れば思い出したくない。しかも犯人の顔も見ていないのだ。説明しようにも、何を話して良いのか分からない。

 ただただ首を横に振る。


「ヒルダ、急かしてはいけないよ。落ち着くまで待ってあげよう?」


「……分かった」


 ヒルダは小さく頷いた。

 この空間が酷く居心地が悪い。二人が居ても心から安心する事が出来ない。頭がおかしくなりそうだ。

 とその時、部屋の外から一際慌ただしい足音が聞こえてきた。段々とこちらに近付いてくる。

 そして――


「ミエラ!」


 思い切り扉が開け放たれた。そこには一番見たいと思った顔があった。一気に涙が溢れ出す。

 走り寄ってきたクラウに飛び付いた。


「怖かった……怖かったよぉ……!」


 わんわんと声を上げて泣きじゃくる。そんな私を、クラウはずっと黙って抱き締めてくれていた。

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