水槽に沈む(短編)
うちやまだあつろう
水槽に沈む
私、
今日だってそうだ。
近所の港の船着き場。磯の香りに包まれながら船止めに腰をかけていると、向こうの方から寄ってくるのだ。
「ニャァ」
「お、来たにゃー?」
黒毛に翡翠のような澄んだ瞳。右耳の先が欠けた彼は「ポンポン」。私が撫でると、ゴロリとひっくり返ってお腹を見せるからだ。
私は学生鞄からスケッチブックと鉛筆、ニボシを取り出す。
「さて、ポンさん。今日もお駄賃やるから、そこでゴロゴロしてにゃさい」
「……ミ」
「ん? どしたの、ポンポン?」
ポンポンは長い尻尾をゆらゆらと左右に揺らしながら、ぷいとソッポを向いた。
いつもならば喉をゴロゴロ鳴らしながら近寄ってきてくれるはずだが、今日はどこか素っ気ない態度だった。そういえば他の猫たちもどこへ行ったのだろうか。
困惑している私を横目に、彼はすたすたと歩きだす。どこへ行くのかと目で追っていくと、幾つか先の船止めに座っていた彼女が見えた。
血の気の無い、ガラス細工のように透き通った頬。絹のようにサラサラの黒髪を潮風になびかせ、やや戸惑った様子で猫に囲まれた美少女。
その手に握られていたペースト状の猫用オヤツを見て、私は思わず叫んでいた。
「それは……それはずるいって!」
「え、えぇ……?」
それが彼女との出会いだった。
◇◇◇
「若月さんさ、なんかお高く留まっててウザくない?」
そんな声が聞こえたことがあったが、すぐに止んだ。部活も入らず、成績も中の中、それに窓際の最後尾という席のせいもあってか、彼女の存在を気に留める人は誰もいなくなったのだ。まるで透き通った水のように、誰の目にも止まらない子だった。
言わずもがな、私もその大勢の中の一人。
彼女はいつも一人だった。
「江原さん、いつもあそこで絵描いてるの?」
京香の問いかけに私は頷く。
「そ。スケッチの練習。ついでにニャンコも撫でられるし」
「また私も行っていい?」
「もちろん! 一緒に絵描こうよ!」
趣味が合った私たちは、あの出会いからすぐに仲良くなった。
仲良くなってから分かったことがある。彼女の両親はどちらも長期の出張中で、高校入学から今まで一人暮らしをしていること。そのおかげで、料理が得意らしいこと。そして、マスクの下もやっぱり美少女だったこと。
私たちは暇さえあれば、しょっちゅう港へ行っては猫を描いた。猫を見つめる彼女は、女の私でも見惚れるほど綺麗だった。
ある日。
「実は私さ…………、美大目指してるんだ」
少し照れながら京香は言った。
「奈央ちゃんは美大とか目指したりしないの?」
尋ねられて、私は自分のスケッチブックに目を落とす。彼女と会うまでは素敵に見えていた猫たち。でも、彼女のを見た後ではどれも歪んで見えた。
やりたいことと得意なことが、必ずしも噛み合うとは限らない。
「私はそこまで熱意無いからなぁ……。たぶん、普通に大学行くよ」
「そっか。奈央ちゃん、成績良いもんね」
「へへーん。まぁね」
私は意外と勉強ができる。顔も運動もダメだが、それだけは私が唯一自慢できることだ。
褒められて悪い気はしない。この得意げな顔も板についてきた。でも、彼女の前では素直に喜べない自分がいた。
彼女は私に無いものを持っていて、私はそれにこんがりとヤキモチを焼いている。実によくある、何の変哲もない友達関係。
それが少し変わり始めたのは、いつもと変わらない家庭科の授業だった。
「キョーちゃん、めっちゃ料理上手いんだよ!」
私が言うと、他の班員たちが「そうなの?」と興味津々に彼女を見た。京香は困った顔をして照れる。
料理も絵もこなす彼女の器用さを、私だけが知っている。それが何故か嬉しくて、皆に自慢したくてしょうがなかった。
「ちょっと魚さばくの、お手本見せてよ」
このときの私は、少し調子に乗っていたと思う。京香は私の声に押されて、なかば強制的に包丁を持ってまな板の前に立たされた。
今日の課題はアジフライ。死んだ魚の目を見つめて彼女は唇を噛みしめる。
「い、いきます…………!」
若干震える声で言うと、彼女はアジに包丁の刃を立てる。緊張もあっただろうが、初めはおおむね順調だった。しかし。
「いたっ!」
包丁で指を切ってしまった。彼女は顔を青くして流しに向かう。私も慌てて持ってきたポーチから絆創膏を取りだした。
「ごめん、キョーちゃん……! 絆創膏!」
「あ、いや。洗うだけで平気だよ、これくらい。」
「これ、ちゃんと水に強いやつだから! ちょっと高いやつ! ほら、怪我見せて!」
「あ、ホントに大丈夫…………!」
断ろうとする京香だったが、無理に包丁を持たせてしまった手前、私としても何もしないわけにはいかない。絆創膏の包みを取って、引っ込めようとする彼女の手を掴んだ。
「あ…………れ?」
傷が見当たらない。左手を切ったはずなのだが、どこにも血が滲んでいないのだ。
だが、すぐに気づいた。傷はある。ただ、そこから流れ出ていたのは赤色の血ではなかった。
細い指から止めどなく流れ出ていたのは、無色透明な水。
「あ、ありがと!」
京香は私の手から絆創膏を取ると、震える手で指の傷に巻いた。
◇◇◇
私の席は通路側。窓側に座る京香は皆の頭のその向こうに見える。
改めて眺めると、彼女の存在は驚くほど希薄だった。そのまま空気に溶けて、消えてしまうような気さえした。
あの溢れる水は見間違いだったのだろうか。単に、手を洗ったときの水滴が残っていただけなのだろうか。考えたところで答えは出ない。
ただ、なんとなく自分から話しかけるのは憚られたし、向こうもどこか距離を置いているようだった。スケッチブックも、あの日からパタリと猫の絵が途切れている。
「…………あ、あのさ」
先に話しかけてきたのは京香だった。
彼女は私の席までやってくると、いつになく緊張した顔で私に言った。
「う、うちに……泊まりに来ない?」
「泊まり?」
「そう。前にさ、私の家に遊びに来たいって言ってたから…………」
「まぁ、行けるなら行きたいけど……」
確かに、以前そんなことを言ったような気がする。
「遊びに行くんじゃなくて?」
「ダメ。来るなら泊まって」
泊まりということに、彼女はやたらとこだわっていた。この押しの強さ。いつもの京香らしくない。
私は彼女の勢いに気圧されて、次の日に泊まりに行く約束をした。
◇◇◇
私の街は古い港街だ。海の近くは赤茶けた錆に覆われている。ただ、最近は再開発とやらでポツポツと新しい建物が建ち始めていた。
京香の家は、そんな再開発の進む地区にあった。
「こんちわー……」
カメラに向かって恐る恐る挨拶すると、その下にあるスピーカーから『はーい』と京香の声が聞こえてきた。間を開けず、フロントの自動ドアが開く。
近くを通るたびに「高級そうだなぁ」と見上げていたマンション。まさか、ここに京香が住んでいるとは。彼女に出会わなければ、一生足を踏み入れることはなかっただろう。
エレベータで三階まで上る。手前から数えて、三つ目の部屋が彼女の家だった。
扉を開けると柔軟剤の香りがした。廊下の向こうで京香が手を振っている。
「どーぞー」
「おじゃましまー……うわぁ!」
リビングの半分を覆うブルーシート。そして、そこに鎮座していたのはイーゼルと真白なキャンバス。
「これ! キャンバスってやつだ!」
あまりに馬鹿っぽい発言に、私たちは顔を見合わせて笑った。
◇◇◇
それから私は生まれて初めての油絵を描いた。モデルはもちろん京香。
初めての香り。初めての感触。
夕日が沈む頃まで描き続けた絵は、グニャグニャと歪んでいて、とても人に見せられるようなものじゃなかった。でも私の小さな心臓は、筆を取る前も置いた後も、飛び出しそうなほど高鳴っていた。
私は絵が好きなんだ。
いつもなら苦しくなるのに、この日は素直にそれを受け止められた。京香と一緒に笑えることが何よりも嬉しかった。
「店とか出しなよ」
「それは言い過ぎ」
寝間着姿の京香は呆れた顔でスプーンを動かす。
謙遜するが料理は絶品だった。オムライスにはうるさい私だが、彼女のフワトロオムの前では「うむむ」と唸るしかなかった。
「今度、作り方教えるよ」
「マジで! やった! また食べに来るね!」
「目的はそっちか」
楽しかった。ここでは誰にも気を使わず、素の自分で居られた。
でも、私は気付いていた。夜が更けていくにつれて、京香の表情が強張っていくことに。
「どうかした?」
夜八時を過ぎた頃。私は遂に尋ねた。
「…………何か変?」
額に汗を浮かべて京香は言った。初夏とはいえ、冷房の効いた部屋はそれほど暑くない。
「さっきから時計チラチラ見てる。それに、なんか汗も凄いかいてるし」
「………………」
普段から色白だが、今は透き通ってしまいそうなほど白い肌をしていた。まるで氷が解けていくように、みるみる汗が溢れ出ているようだった。
京香は悔しそうに唇を噛むと、観念したように呟いた。
「誰かと一緒ならって思ったの……………………」
「え?」
「誰にも言わないで欲しいんだけど……」
彼女は小さく「来て」と言うと、立ち上がって寝室へと向かった。
寝室に置かれていたのは、ごく普通のシングルベッド。敷かれたシーツは、一度も使われたことがないかのように、シワ一つなかった。
ただ、そんなことよりも気になったのは、部屋の真ん中に置かれていた物だ。京香はそれを指さして言う。
「私、いつもここで寝てるの」
置いてあったのはの、何も入っていない巨大な水槽。膝を抱えれば一人くらいは入れそうだ。寝室に置いておくには、あまりにも大きすぎる。
「ここでって…………、水槽で?」
「うん、水槽で」
頷くと、「ごめん、時間無いから」と京香は着ていた服を脱ぎ始める。裸になった彼女は、ぐっしょりと濡れた寝間着を床に投げ捨てると、水槽の中で膝を抱えて座り込んだ。
「誰にも言わないって約束して……!」
「な、何を?」
「お願い!」
泣きそうな声で懇願する京香に、私は「わ、分かった」と何度も頷く。彼女はボタボタと大粒の汗を流しながら、縋るような目で私を見上げた。
「私…………、夜になると溶けちゃうんだ………………」
「と、溶け…………」
「信じられないかもしれないけど、体が水になってくの…………。ほら」
彼女の指は、もうほとんど残されていなかった。体も段々と透き通ってきていて、まるで解けかかった氷像のようだった。
水槽の水位が上がっていく。
「夜が来るたびに、全身が氷みたいになって…………、それで最後は…………」
震える声。遂に顔も溶け始めたのか、あるいは泣いているのか、大粒の水滴が彼女の頬を伝う。
「最後は……、自分の頭が水に落ちる音を聞いて、意識が途絶えるの……………………!」
拭おうとするが、腕はもう解けて無くなってしまっている。
「助けて、奈央ちゃん…………!」
固まる私の前で、京香の頭がボチャンと水に落ちた。
◇◇◇
固いフローリングの上で目を覚ました。寝た記憶がないから、おそらく気を失ったのだと思う。
私の体には可愛らしい絵柄のタオルケットがかけられていた。かけてくれたのは京香だろうか。
見ると、水槽には数センチ水が残っているだけで、水槽の周りには足跡がペタペタと付いている。
「お、おはよう…………」
振り返ると、Tシャツを着た京香が私を見下ろしていた。どうやら朝になると元に戻るらしい。ドアの向こうからトーストの香りがした。
「……昨日はごめんね」
「あ、全然! 別に大丈夫……」
それ以上は何も言えなかった。
昨晩の出来事が現実なのか夢なのか。いや、きっと現実なんだろうが、どうにも受け止めきれずにいた。
「………………朝ごはん、食べる?」
「あ、うん」
立ち上がるとき、不意に京香と目があった。少し腫れぼったい彼女の目。昨日の涙が脳裏に浮かぶ。
誰にも言い出せないまま、一人で毎晩水の奥へ沈んでいく。想像もできないほどの孤独と恐怖。昨日はあんなに大きく見えた水槽が、今朝はやけに小さく見えた。
立ち上がった京香を、私は背中から抱きしめた。
「……キョーちゃん。私、ここで見たこと誰にも言わないからさ」
「………………うん」
「だからさ、また油絵教えてよ」
「え?」
「また泊まりに来ても良いかな?」
京香は私の腕を握ると、「ありがとう」小さく頷いた。
◇◇◇
蝉の鳴き声がやかましくなる季節。私にとって、少し楽しみなイベントがある。
「い……、いち、一位!?」
京香はらしくない大声を上げて驚いた。
私の高校では、試験結果の順位は公表されない。代わりに、各々の成績表に順位が記載されることになっている。
今日は夏休み前の終業式の日。期末試験の成績表が配られる日だ。
「奈央ちゃんって、本当に頭良いんだ…………」
「嘘だと思ってたのかい」
自分から誰かに自慢しようとは思わないが、成績表に一位と付くというのは嬉しい。この達成感を味わうために勉強しているようなものだ。
「キョーちゃんは?」
尋ねると彼女は目を逸らした。
「人にはプライバシーというものが」
「……先に『見せて!』って言ってきたのキョーちゃんでしょ」
「くっ……」
おずおずと渡された彼女の成績表を見ると、順位は一五〇位。学年は三〇〇人だから、ちょうどド真ん中だ。
「数学が苦手で…………」
彼女の言う通り、数学の点は赤かったが、代わりに美術の評価は最高評価だった。ちなみに私の美術の評価は四。
「今度、数学教えてよ」
私は笑いながら「代わりに美術教えて」と言って、成績表を返した。
なぜ勉強をするのか。それは、将来の可能性を広げるため。
昔、そんなことを誰かが言っていた。勉強ができれば、どんなものにもなれる。だから、嫌でも勉強はしておきなさいと。
私はバカ正直にそれを信じて、やりたくもない勉強を必死にやり続けたのだ。
でも、本当にそうだろうか。
「おー! また一位!」
母は私の成績を見ると、嬉しそうに言った。私は得意げに胸を張ると「当然」と答える。
「今晩はオムライスにしようね! 奈央の好きな、フワフワのやつ」
「ありがと」
「お、成績出たのか」
父が書斎から出てきて言った。オンライン会議が終わったらしい。私の成績表を見ると、嬉しそうな顔で一言。
「さすがだな。これなら東大も余裕じゃないか?」
母も嬉しそうに「そうね」と笑っていた。
初めは小学校のテストだった。
満点をとると、父も母も喜んだし、笑いながら褒めてくれた。それが何よりも嬉しかった。私は二人が喜ぶ顔が見たかった。
しかし、いつからか、それが重く私の心にのしかかってきた。
良い成績を取らなければ。二人を喜ばせなければ。それはまるで呪文のように、私を強く縛り付けた。そして幸か不幸か、私にはそれができるだけの才能があった。
「奈央の好きなように生きなさい」
父も母も、私にそう言ってくれる。私も好きに生きてみたい。でも、きっと二人は心の何処かで「成績優秀な江原 奈央」を望んでいる。
私は二人の子供として、それに応えなければ。貰った才能を活かさなければ。
「私、東大受けてみようかな」
はにかみながら私は言った。
◇◇◇
「今度さ、水族館に行かない?」
絵筆を握る京香が言った。モデルの私は首を動かさずに京香を見る。
「水族館? なんで?」
「なんとなく。魚とか描きたいなぁって」
「あー…………」
私は少し唸ってから答えた。
「私さ、水族館あんま好きじゃないんだよね。なんか魚が可哀想で……」
「魚が可哀想?」
「なんか狭い水槽に入れられて、同じところをグルグルさ」
京香は「そっかぁ……」と言ったきり、再び絵に集中しだした。
魚が可哀想、というのは半分嘘。水族館が嫌いな理由は、水槽の魚を見ていると、なんとなく自分と重ねてしまうからだ。
自由に泳いでいるように見えて、実際は狭い水槽を行ったり来たり。そして観客を喜ばせるため、期待に応える泳ぎをする。
魚がそんなことを考えることはないだろうが、ついつい自分を連想してしまって、あまり良い気分がしない。
「他に無い? 観たいもの」
私が尋ねると、京香は少し悩んで「海」と答えた。
「いっつも見てるじゃん」
「夜の海を観たいの。私、溶けちゃうから」
「あー……。なるほど」
相変わらず、京香は夜になると溶けてしまう。ただ、最近はかなり遅くまで形を保っていられることが多くなってきた。
私はニヤリと笑うと、京香の方を向いた。
「じゃ、行こうか。夜の海」
まんまるの満月を、雲が半分隠している。街燈に照らされた道路を歩きながら、京香は不安そうに尋ねた。
「…………本当に大丈夫?」
私は台車を押しながら、「モーマンタイよ」と親指を立てる。
台車に乗っているのは、いつも京香が入っている水槽。もしも溶けそうになったら、この中に入って私が押して帰るという算段だ。
私は京香が背負ったリュックを軽く叩く。
「さっさと行って、さっさと描いちゃお。きっと綺麗だよ、夜の海」
「そうだね! 月とか反射してさ!」
夜の外出というのは、京香にとっては非日常なのだろう。いつになく興奮した様子でピョンピョン跳ねている。
いつもの道を進んでいくと、やがて潮騒が聞こえてきた。磯の香りも強い。私は京香を見ると「行こう!」と言って走り出した。
夜に出歩いたことはない。この体験は私にとっても非日常だった。
「………………」
しかし、船着場へ到着すると、私達のテンションは一気に下がった。
「くっら」
「月も見えないね」
街燈もなく、真っ黒の海。見上げた夜空は灰色の雲が覆っている。お世辞にも綺麗な光景とは言い難い。
京香は私にスケッチブックを手渡した。
「描く?」
「黒が足りない」
「だよね」
私達は顔を見合わせると、どちらからともなく笑い出した。
「あはははは! なーんも見えねーじゃん!」
「もー、拍子抜けだよー! もっと綺麗だと思ったのになぁ!」
私達にとって、海なんてどうでも良かったのだ。ただ、二人で過ごす夜が何よりも楽しかった。もっと長く、二人でこの時間を笑っていたかった。
でも、遂にその時が来てしまった。京香は私にリュックサックを渡すと、恐る恐る水槽に足を入れる。
「ごめん、溶けてきた」
「おっけー。あ、服脱がないでよ。外だから」
「分かってるって」
彼女の肌が透き通ってきた。着ていたTシャツも、すっかり濡れてしまっている。
いつものように膝を抱えると、京香はポツリと呟いた。
「修学旅行なくなったでしょ? あれさ、私にとってはラッキーだったんだよね。溶けるのバレちゃうから」
「…………」
「でもさ……、ホントは旅行とかしたいんだ…………。私、一生このままなのかな………………」
なんとも答えられなかった。代わりに、私は溶けかかった京香の手を握る。
「私と行こうよ」
「え?」
「私ならバレてるから良いでしょ。水槽持っていけばいいんだよ。今日みたいにさ」
京香は困った顔で笑う。
「こぼさない? 奈央ちゃん、おっちょこちょいなとこあるし」
「こぼしたら痩せるかもよ」
「…………今日の帰り、ちょっとこぼしといて」
「冗談!」
私達は大声で笑った。水槽の水位が少し上がっている。でもきっと、そこに京香の涙は無いはずだ。
その夜、京香がそれ以上溶けることはなかった。
◇◇◇
「あら、京香ちゃんね! ホントにお人形さんみたい!」
「ど、どうも…………」
グイグイ詰め寄る母に、京香は顔を赤くしながら答えた。
いつもは私が泊まりに行くのだが、今日は京香が家に泊まりに来ている。というのも、あの日以来、京香が溶けることはなくなったのだ。
いったい何が原因で治ったのかも分からないが、とにかく海を見た日から京香は溶けていない。透き通るほど白かった顔色も、今では赤みが差した健康な色をしている。
あの日を境に、京香は別人のように変わった。
「京香ちゃん、絵うまいよね!」
「あ、ありがと……」
学校が再開してしばらくすると、京香の周りには人が集まるようになっていった。
きっかけは、学生鞄から見えていたスケッチブック。描かれていた猫の絵は、すぐにクラスの話題になった。私はその人だかりを、廊下側の席で一人眺めていることしかできなかった。
次々めくられていくスケッチブック。私しか知らなかったはずの京香の笑顔。
二人だけのものだった思い出が、他の人に踏み荒らされていくような、そんな感覚を覚えた。
私はこんなに嫉妬深かったのか。
自分で自分が嫌になって、私は机に突っ伏してため息をついた。
きっと京香にとって、私はたくさんいるクラスメイトの中の一人でしかない。所詮は数ヶ月の付き合いでしかないのだから。
「どこで描いてるの?」
誰かが尋ねた。京香は少し詰まりながら答える。
「ちょっと行ったとこの船着き場? で描いてる…………」
「へー! 今度、私も行っていい?」
「あ……、う、うん…………。いいけど……」
私は思わず席を立って教室を後にした。
◇◇◇
ニボシを放ると、ポンポンは体格に見合わない速度で捕らえた。それを見ていた京香は「速いねー」と楽しそうに笑う。
「曇っちゃったね」
「うん」
気のない返事をすると、私は黙って鉛筆を動かし続ける。
放課後の海は雲を映して鉛色に染まっていた。風に煽られた波が静かに、それでいて激しくコンクリートに打ちつける。
京香は怪訝な顔で私の顔を見た。
「何かあった?」
「別に…………」
私は少し黙ると、スケッチブックから顔を上げた。
「ここに他の人は呼ばないで」
「え?」
「お昼のとき言ってたでしょ? 今度ここに来て良いとか」
「あぁ、うん…………言った」
「キョーちゃんは絵が上手いから他の人に見られてもいいかもしれないけど、私は他の人に見られたくないの」
「ごめん……、つい勢いで…………」
「良いよね、キョーちゃんは。『やりたいこと』と『できること』が一致しててさ」
どこか遠くでカモメが鳴いた。波の音が耳の奥に響く。
京香は目線を落として呟いた。
「…………でも、奈央ちゃんも頭良いから、行きたい大学に行けるでしょ?」
その言葉は鋭く突き刺さった。私は思わず鉛筆を強く握りしめて叫んだ。
「私だって美大に行きたいよ! でも…………、私は絵の才能が無いから……! 普通に進学するしかないの!」
京香は驚いた顔で固まると、うつむきがちに口を開く。
「美大目指すなら、今からでも遅くないと思うし…………」
「そんなこと分からないでしょ? キョーちゃんにとって他人の人生だからなんとでも言えるかもしれないけどさ……!」
「他人だなんて…………」
「もう、私ここに来ないから」
思わず口を衝いて出た言葉に、私自身が驚いた。出てしまった言葉は、もう呑み込めない。
「え…………?」
「他の友達と来ればいいでしょ。私、これから絵は一人で描くから」
そこまで言って、京香の顔が青白くなっていることに気付いた。あの日、初めて出会った時と同じような――――。
「ごめんね……。私、帰るね………………」
京香はそう言ってスケッチブックを閉じた。そして、もう一度「ごめんね」と言うと、荷物をまとめて足早に帰ってしまった。
私は小さくなる背中を見つめながら、呆然と立ち尽くす。
「ポンポン…………」
呼びかけるが、彼は既に居なかった。吹きつける風と打ち寄せる波の音だけが響く。
やがて、ポツポツと雨粒が私の髪を濡らし始めた。スケッチブックに目を落とすと、描きかけの猫にポタポタと水滴が落ちる。
「謝らなきゃ……」
私はスケッチブックを鞄に詰めると、京香を追って走り出した。
◇◇◇
いつもの坂道。いつもの商店。いつもの曲がり角。いつもと何も変わらない。いつもと同じ。
そう言い聞かせても、最後に京香が見せた顔が、どうしても頭から離れない。次第に強まる雨足が、私の不安を掻き立てる。
「あ…………」
見つけたのは、コンクリートに薄っすらと浮かぶ小さな足跡。私の向かう先、京香の家に向かって続いている。
「待って………………!」
京香がいた痕跡を消すように、彼女の足跡を雨が黒く塗り潰していく。
太陽は西の空にある。まだ夜と言うには早すぎる。しかし。
「ダメ……」
追いかけた足跡の側に、彼女の鉛筆が落ちていた。
「ダメ……、ダメ…………! 待って!」
学生靴。髪留め。鞄。家の鍵。小さかった足跡は、何かを引きずった跡のようになっている。
「キョーちゃん!」
マンションのインターフォン前。大きな水溜りの中に彼女は倒れていた。透き通った体はまるで氷のようで、触るだけで手が痛くなるほど冷たい。綺麗な京香の顔は、口元を残してすっかり溶け落ちていた。
私は拾った鍵でフロントのドアを開ける。背負った京香の体は、驚くほど軽かった。
「お願い……、お願い…………!」
階段で三階まで駆け上がると、京香の家に飛び込む。水槽はリビングに置いてあった。
「キョーちゃん! 聞こえる!? キョーちゃん!」
水槽に入れて呼びかけても返事はない。窓の外の雨音に混じって、京香が溶け落ちる音が時折響く。
私は初めて、この部屋の静寂を知った。家に誰もいない孤独を知った。
白い布の掛けられたイーゼルが目に入った。私が何度頼んでも、頑なに見せてくれなかった絵だ。
そっと布をめくった私は、その絵を見て思わず立ち尽くしてしまった。
描かれていたのは、太陽のような暖かい笑顔を浮かべる少女。紛れもなく、モデルは私だった。
「キョーちゃん…………」
振り返ると、京香はすっかり溶けていて、水槽には彼女の制服が浮かんでいた。ただ、その水位は普段の半分ほどしかない。
自然と涙が溢れた。
「ごめんなさい………………、ごめんなさい…………」
きっと私が溶けたら、もっと黒くて濁った液体になるだろう。私は透き通った京香に向かって静かに語りかける。
「私さ……、キョーちゃんが羨ましかったんだ。私に無いものを全部持ってると思ってたから……。でも私、キョーちゃんのこと何も分かってなかった………………。全部知った気になって、あなたのことを全然見てなかったんだ……………………」
私は水槽の縁に額をつけると静かに目を閉じた。
「代わりに私が溶けてなくなってもいいから………………。だから神様、キョーちゃんを元に戻してください…………」
やっと本心を言えた気がした。今まで私の中に閉じ込めていた物が、堰を切ったように溢れ出てきた。水槽の中で涙が跳ねる。
「奈央ちゃん」
不意に聞こえた声に、私は顔を上げた。目の前にいたのは、静かに微笑む京香。
「ごめんね。私も、奈央ちゃんのこと全然分かってなかった」
私は恐る恐る京香に触れる。
シルクのような、柔らかく滑らかな肌。突き刺すような冷たさはなく、仄かに温かい。
「キョーちゃん!」
私は京香の細い体を思い切り抱きしめた。
「ごめんなさい! 私、馬鹿なこと言って…………!」
それから先は言葉にならなかった。京香はただ優しく、黙って私の頭を抱きしめてくれた。
しばらくして落ち着くと、私は京香の胸の中で小さく尋ねた。
「キョーちゃん」
「なに?」
「また一緒に……、絵描いてもいい…………?」
京香は私を強く抱きしめると、「もちろん」と小さな声で囁いた。
「……私からも、一つ頼んでもいいかな」
京香の言葉に、私は顔を上げる。
「なに?」
「家にあるもので、何か作ってくれないかな? なんだか、すっごくお腹空いちゃって…………」
私は立ち上がると、腫れた目元を拭って笑った。
「もちろん! オムライスなら作れるよ! フワトロのやつね!」
◇◇◇
京香の転校は突然だった。
ちょうど年度が変わる頃、彼女は母親の赴任先に引っ越していった。その時に貰った油絵は、今でも私の部屋に飾ってある。
それからは月に一度絵葉書を送り合うだけで、直接会うことは無くなった。
京香が越してすぐ、私は親に美大を受けることを伝えた。二人ともあまり良い顔はしなかったが、それでも最終的には背中を押してくれた。
結局、私を縛っていたのは私自身の思い込みだったのだ。
分厚い水槽の壁だと思っていたものは、勇気を出して踏み出せば簡単に割れるものだった。そしてその外には、広大な海のように自由な世界が広がっている。
高校卒業後、一年の浪人を経て、東京の美大に合格した。数日前から、私は一人暮らしを始めている。
「財布、ケータイよし。ガス閉めた、鍵閉めた。よし!」
今日は待ちに待った入学式。慣れないスーツの襟を正すとアパートの階段を駆け下りる。
詳しくは知らないが、京香も一浪して美大に入ったと聞いている。あの実力で落とされたのかと驚いていたら、どうやら美大にも学科試験があることを知らなかったようだ。
とにかく、彼女も今頃どこかで慣れないスーツに袖を通していることだろう。
会場は人で溢れかえっていた。あの港街ではありえない光景だ。
思わず肩を縮めて歩いていると、突然背後から声をかけられた。
「奈央ちゃん?」
振り返ると、そこに立っていたのは花びらの舞う風に黒髪をなびかせる美少女。透き通るほど白い肌は、うっすらと桜色に染まっている。
私は一瞬固まると、すぐにその美少女に飛びついた。
水槽に沈む(短編) うちやまだあつろう @uchi-atsu
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