第40話 去る
(あー、眠い。)
重い体を何とか起こして、顔を洗う。
チーズを乗せて焼いたトーストにハチミツをかけて食べる。私は最近これにハマっている。
(あー、甘くて美味しい。)
ハチミツの甘さが、私の疲れた心に染み渡る。トロリと溶けたチーズをパンのミミで掬いながら口に運んでいく。
フルーツの入ったヨーグルトも一緒に食べた。
久しぶりにジーンズを履き、お気に入りのニットを着る。
ちょっと値段が高かったのだけれど、新しい仕事が決まったご褒美として自分へのプレゼントで買ったものだ。
久しぶりに履いたジーンズは、スキニーだがサイズが合わなくなってゆったりとしている。
鏡の前で後ろ姿を確認して出かける。
(よしっ!いこ。)
向かった先は、家から少し離れた不動産屋。
「いらっしゃいませ」
と、出迎えられた。
「予約をしている、細田です」
「細田様、こちらへどうぞ」
と、案内をされて席に座った。
「細田様のお部屋探しのお手伝いをさせていただきます、山口と申します」
と、山口さんから名刺を頂く。
「宜しくお願いいたします」
私の希望の条件は、予め伝えてあった。
娘の家まで、歩いて行ける場所。
母親の家にも歩いて行ける場所。
それと、なるべく安い駐車場。
バス、トイレは別。洗濯機は室内に置ける所。できればエレベーターが付いている事。
数はかなり絞られた。
これからは自分1人で生きていくのだから。
家賃もギリギリに下げてお願いした。
何軒か見て回ったが、エレベーターを諦めるか、ベランダが鳩の糞だらけか、玄関で靴を脱げば置き場がないような部屋しかなかった。
(どうしよう……)
距離が離れてしまうと、とても不便だ。
「少し家賃を上げたらありそうですか?」
「お調べしますね」
と、山口さんはパソコンをカタカタと操作して何枚かプリントアウトしてくれた。
そして、その中の一枚が私の目を引いた。
「そこが、一番良さそうですね」
と、山口さんもお勧めのようだ。
「ここ見たいです!見せて貰えますか?」
私はもう一度、山口さんに連れられて部屋を見に行った。
玄関も広く、靴箱も置ける。
ベランダには少し鳩の糞があったが、掃除をすれば何とかなりそうだ。
荷物が多めの私でも快適に過ごせそうな広さの部屋だった。
落ち着けばまたパンを焼く事ができそうなキッチン。
眺めは良くはないが、風は通る。
家賃があがってしまったので、駐車場を少し離れた場所に変更して、かなり予算オーバーで部屋と駐車場が決まった。
(はぁー、頑張って節約しないといけないなぁ。)
1人でやっていく事への不安でいっぱいだったが、私の次の住む場所が何とか決まった。
娘の家と、母親の家と私の新しい家は線で繋ぐと小さな三角形になった。
ここから、また始めよう。
まだまだやらねばならない事だらけではあるのだが。
私は離婚の前に、あの事件現場の部屋を出て新しく生活をする事に決めた。
あんな気分の悪い部屋で生活させられて、家賃まで請求されるくらいなら……。
私はもう、部屋を出でしまおう。
あんな部屋の家賃を払うならば、新しいスタートをきれる部屋の家賃を払っていこう。
私は私の新しい生活を始めよう。
出来るだけ早く忘れてしまえるように。
「この部屋と駐車場でお願いいたします」
と、契約書を作ってもらい引っ越しの準備を始めた。
私の休日は、またしばらくのんびりできなくなった。引っ越しの見積りに来てもらい、契約手続きを済ませる。そして、荷造りをしなくてはならない。
引っ越し先の鍵を受け取り、掃除をしに行った。
引っ越し費用もかかるし、電化製品もいくつか購入した為に、僅かな貯金は底をついた。
引っ越しよりも前に、エアコンや洗濯機を取り付けて貰う。もちろん、テレビやDVDプレーヤーもセットしてもらった。
仕事に行く前に少しずつ使わない物から段ボールに荷物を纏めていく。
邪魔にならないように段ボールを部屋の隅に置いて、仕事へ行く。段ボールの山が部屋を埋め尽くした。
何日も繰り返して引っ越しの日を迎えた。
連休を貰って引っ越しの日に使った。
仕事にも終われ、連日の引っ越し準備も重なり、私はふらふらと頼りなく動いていた。
そして、次の日は一気に片付けをした。
娘は近寄らない。近寄れない。
母親にも手伝ってもらい、何とか引っ越しは終わった。
最後に事件現場の部屋に行った。
忘れ物はないだろうかと確認をする為に。
娘の荷物は殆ど手付かずで放置されていた。
(使いたくない)
ポツリと呟いていて残された娘の荷物はどこか寂しげに見えた。
犯罪者はきっと、ここに戻ってくるだろう。
私は何となくそう感じていた。
娘の荷物や、不要品は買取り業者に来て貰って買い取ってもらった。
3人でお弁当が買えるかなって金額にはなった。
犯罪者の荷物は放置をした。
引っ越し作業に邪魔な物は押し入れに乱暴に投げ込んでおいた。
前の時と同じように、ぐしゃっと放り投げた。
(デジャブかしら?)
と蘇ってくる感覚もあった。
そして、オッドが遊んでいたオモチャやトイレなどはそのままにしておいた。
どこからともなく現れる毛玉も、埃も。
売れなかった品物達も。
もう全部、ただのゴミだから。
出会った頃から使っていた小さなタンスも、拍手でお祝いされて撮影した結婚記念のアルバムも。
思い出もできるだけそこに残した。
いや、そこに全部捨てた。
(もう要らない。)
ただ、それだけだ。
部屋を全部見て回った。
(あぁ、幸せだったはずなのに)
(いや、偽物だったでしょ)
心の中に溢れてくる言葉達。
どの部屋を見ても、オッドと娘がのんびりと遊んでいる姿を思い出した。
犯罪者となった勇二が寝転がっている光景が目の前に浮かんで消えた。
(ここで見ていた景色は全部偽物だったんだ。)
私は玄関から家の中を見つめて悲しくなった。
我慢していた涙がこぼれ落ちる。
まだ、私には闘いが待っている。
長く辛い闘いになるのだろう。
そんな事を思いながら玄関の鍵を閉めた。
そして、その鍵をそのままドアポケットから中に落として入れる。
(チャリン)
静けさの中にさようならの音が響きわたった……。
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