第19話 没落令嬢とゴロツキ(2)

「あなた、大丈夫!?」


 リュリディアは慌てて彼に駆け寄った。鉄さびみたいな匂いが鼻腔を刺激する。

 目が隠れるほど長い灰色のボザボザ髪に、頬も顎も口も覆うもじゃもじゃ髭。擦り切れてボロボロのチュニックを着た彼は、建物の壁に背をつき、足を投げ出して……腹部から大きなナイフを生やしていた。

 男はナイフの柄を逆手に握ると、「ふんっ」と気合を入れて抜き取った。地面に落ちた凶器は鮮血にまみれ鈍色に光る。


「ちょ、何やってんのよ!」


 途端に栓を失った穴からは大量の血液が噴き出し、リュリディアは咄嗟に彼の傷口を両手で押さえた。


「誰か! 誰かいないの!?」


 大声で往来の方向に助けを求める少女に、男が髭に隠れた唇を歪ませる。


「よせ、下手に騒いでさっきの連中が戻ってきたら危ない。嬢ちゃんも……早く逃げた方が良い」


 意外にもまともな事を言う。しかし、リュリディアはこんなことで怖気づくお嬢様ではない。


「こんな状態のあなたを置いていけるわけがないでしょう!」


 一喝して、男の腹に手を当て続ける。


「……無駄だ。この傷じゃ助からん」


 出血具合から判断するに、ナイフの刃は内臓を損傷させ、太い血管まで切っている。男はもう自分の『生』を諦めていた。


「失敗したな。こんな所で終わるとは思わなかった……」


 長い前髪の隙間から、緑色の瞳が覗く。

 男が目線を下げると、溢れる血に怯みもせず赤く染まった両手で患部を押さえ、必死で何かを呟いている少女が見えた。

 金色の長い髪に透き通るような碧い瞳、石膏像のような白く端正な顔立ちは、絵本に出てくる天使そのものだ。男には理解できない、歌うような節のついた囁きは祈りの言葉だろうか。


「……天使に看取られるなら、悪くないな」


 男は自嘲すると、


「お嬢ちゃん、最後に頼みがある」


 震える手でズボンのポケットからコインを取り出した。半分欠けた、ドラゴンの意匠の銀貨。


「これを……、三丁目の『霧の木亭』って酒場に届けてくれないか? マスターに渡すだけで通じるから」


 目を合わせ、真剣に訴える。

 震える手で差し出された半分銀貨を前に、リュリディアは――


「嫌よ」


 ――きっぱり拒否した!


「へ?」


 ここは快く引き受ける場面だろう! 予想外の展開に呆然とする男を置いて、天使は立ち上がった。


「知らない人の使いっぱしりなんて、お断り。渡したいなら、自分で行きなさい」


 あまりにも非情な天使の言動に、男はうっかり泣きそうになる。


「いや、だって俺、もう死ぬし……」


 狼狽える彼に、彼女は呆れた目を向けて、


死ぬって?」


「は?」


「治ってるわよ、傷」


 言われて男がチュニックをめくると、腹部は瘡蓋かさぶた一つないまっさらな状態だった。


「は!? な……!?」


 驚きすぎて、意味のある言葉がでない。

 一体、どうやって?

 あの傷を一度に完治させられる治癒術士なんて、上級軍医にだってそうはいないのに。


「流れ出た血は元に戻らないから、しばらく安静にして滋養のあるものを食べなさいね」


 それだけ言い置いて、天使の姿をした少女は去っていく。


「お、おい、待て! 君、名前は……」


 血が足りなくて、すぐに立ち上がれない。座ったまま手を伸ばした男に、少女は半歩だけ振り返って、


「自分から名乗りなさい、無礼者」


 ばっさり切り捨てると、そのまま夜の街へと消えていった。

 残された男は――


「……夢か?」


 ――髭もじゃの自分の頬をつねった。


 そして、この不可解な事件の真相が判明したのは、数日後のことだった。



 まだ日が昇りきらぬ早朝。

 大勢の罵声と爆裂音、それに忙しなく行き交う蹄の音で、リュリディアは目を覚ました。


「コウ、何事?」


 目をこすりながら寝室から出てきた主に、一分の隙もない執事姿の従者が困った風に首を竦めた。


「それがコウにも何も。外の様子を見に行きましょうか?」


「そうね……」


 リュリディアが迷っていると、不意にドアを叩く音がした。


「リュリちゃん、コウ君、起きてる?」


 部屋に入ってきたのは、大家のエレーンだ。ネグリジェにショールを羽織っただけの彼女は、すっぴんでも色気のある美人だ。


「今、帝国騎士団が違法薬物の製造所の摘発に着手したって! ほら、四本先の通りにある古い倉庫。あそこがアジトだったのよ」


「あんなご近所で……。それでよくこの辺りでゴロツキを見かけたのね」


 納得するリュリディアに、コウは眉を顰めて、


「この間も、リュリお嬢様は怪我したゴロツキを見つけたっておっしゃってましたしね」


 血みどろで帰ってきた主に、従者は危うく卒倒しかけた。


「あの時着てた服、結局シミが落ちずに処分しちゃったのよね。もったいないわ」


「コウは知らぬ男性の血液が付着した服など、リュリお嬢様に着て欲しくありません」


 お嬢様はいつだってちょっとズレている。

 しばらくすると、外が静かになってきた。


「あ、終わったのかも。ちょっと見に行かない?」


 エレーンに促されて、二人は外に出た。

 空はすっかり明るくなっていた。下町の一番大きい通りに、銀の甲冑姿の騎馬兵が整列している。


「撤収!」


 先頭の騎士団長の号令を合図に、縄を打たれた数十人の悪漢を連れて騎馬隊が動き出す。この罪人を晒し者にする連行方法はゾディステラ帝国では一般的で、他の犯罪への抑止効果がある。


「騎士団の特務部隊の方が何ヶ月も潜入捜査してたんですって」


「これでこの辺りも少しは治安が良くなるかしら?」


 沿道に集まった住民達がさざめき合う。

 リュリディアが観衆に埋もれながら何気なく進んでいく隊列を眺めていると、急に射るような視線を感じた。

 顔を上げると、今まさに彼女の横を通り過ぎようとしている白馬に乗った騎士が、じっとこちらを見つめていた。

 短く刈った清潔そうな銀髪。綺麗に髭の剃られた男らしく凛々しい頬。そして、新芽のように瑞々しい緑色の瞳は……。


「あ」


 リュリディアと目があった瞬間、騎士はパチリと小粋にウインクした。

 その途端、集まっていた女性達からキャーッ! と歓声が上がる。騎士はそれほどの美男子だった。

 遠ざかる白馬の背に、リュリディアはぽつりと呟いた。


「服代って、騎士団に請求できるかしら?」


「……はい?」


 傍らのコウは、こてんと首を傾げた。

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