第630話 一夜で倉庫が事故物件
◇一夜で倉庫が事故物件◇
「いやね。私も確かに君らに追加の依頼を出したときには、多少の荒事になることは予想していたよ?…だがね、なにもこの倉庫の前を凄惨な事件現場にしなくてもいいではないか。…何人殺したんだい?」
翌日、結果を聞いて駆けつけたマルフェスティ教授は倉庫の前の光景を見て唖然とした。日当たりの悪い倉庫街といえども、日の光が登れば昨夜の戦いの痕跡がありありと浮かび上がっている。ナナが放った火によって広範囲が黒く焦げており、大量の刃物による傷跡。そして何より異臭を放っている血溜まりは、そこで人の命が失われたことをどうしても想像してしまう。
実際には誰の命も失われていないとは伝えているのだが、あまりの惨状にマルフェスティ教授はからかうように俺に小声でそう聞いてきた。だが、流石にこの惨状は想定を上回っていたようで、周囲を見渡すその表情はどこか呆れているようにも思えた。
「…まぁこうともなれば衛兵に通報しないわけにもいかないか。ああぁぁ面倒だなぁ」
「ただの盗人なら突き出すだけで済んだんですけどね…」
「私が火を使いましたから大目玉ですよ。延焼しない使い方だったのですが解ってもらえなくて…」
血に塗れた石畳の向こうではメルルとタルテが衛兵の相手をしてくれており、その光景を見て今度はうんざりとした表情を浮かべている。情報過多のせいかマルフェスティ教授は先ほどからコロコロと表情を変えており、その様子がどこか無邪気な子供のように思えてしまう。
ナナもマルフェスティ教授のようにうんざりとした表情を浮かべて自分が焦がした石畳を足でなぞっている。火魔法使いは火を消すことも長けているのだが、それでも火災の危険性があるため王都の中で火魔法を使うことは余り好ましいとは言えない。違法ではないため捕まることは無いのだが、事のあらましを衛兵に伝えた際に、随分とお小言を貰ったのだ。
「…単なる盗人だと思って依頼したのだけれども、中々に手強い相手だったみたいだね。呪符を使うのは東方の文化なのだが、一部はガナム帝国やカーデイルの呪術師達にも伝わって独自に発展したという文献も残っている。サンプルがあれば同定ができるのだが…どれも焦げてしまっているようだね」
衛兵が駆けつけているものの、現場にはまだ証拠となる痕跡が残っている。その一部をマルフェスティ教授が拾い上げてまじまじと観察するのだが、完全に黒く変色した呪符からは大した情報を得ることはできないようだ。
この惨状がどうやって引き起こされたのかを説明するために、詳しい内容をマルフェスティ教授には話しているのだが、彼女は相変わらず考古学者というより、まるで探偵のように現場を眺めている。どうやらこの異常な現場が彼女の好奇心を刺激しているらしい。
「この血と呪符を媒介に分身ねぇ。考古学的な呪術の知見はあるのだが、実用的な知識はどうにもね…。私は分身なんて初めて聞いたのだが…そういったことは可能なのかな?」
「正直に言って、私はありえない…と思っていました。単なる
あの黒衣の男の分身の術を見て、最も驚いていたのがナナだ。彼女は精霊化という魔法の極地に至っているため、分身の術の難易度をはっきりと認識しているのだろう。ナナが言うには自分以外の意思を生むのは紅蓮の鳥程度の生物が精一杯であり、あんなにも自然に振舞える存在を生み出すなど考えられないのだとか。
そもそもが精霊化自体が肉体を変質してもなお自己意識を保つ魔法であるため、彼女からすれば意識を複数生み出す魔法は対極に存在するのだろう。未だにナナは悩ましげな表情で昨夜のことを振り返っている。
「魔法っていうのは、自分の魂を拡張して世界に顕現するんです。ある意味では自分の存在を分け与えたり削るような行為でして…。だから、自分という存在を複数生み出すのは…。ああ、そう言えばハルトが昔に言っていた…なんだっけ?」
「多重人格障害か?確かにそれなら…ありえるのか?」
ナナがマルフェスティ教授に分身の術の難易度を説明する。呪術には俺らもそこまで詳しいわけではないが、魔法では考えられない行為ではある。複数の精神が一つの魂に同居している多重人格者ならば可能かもしれないが、それも憶測の話でしかない。
それでも分身の術などという異様な術が噂ですら聞こえてこないのは、使える者が限られているからなのだろう。もしかしたら多重人格者しか使えないというのもあながち間違いではないのかもしれない。
「分身した男には逃げられそうだが、もう一人の男は捕らえたのだろう?そいつから何か詳しく聞けなかったのかい?」
「今、その男は衛兵が取り調べてますよ。一応は俺らともお話しましたが…」
倉庫の中に逃げ込んでいた痩せた男は、黒衣の男を捕らえた後に無事に捕まえる事ができた。痩せた男は全くと言っていいほど戦闘することができず、外から聞こえてくる戦闘音に怯えて倉庫の中で丸くなっていたのだ。俺らが姿を見せたときには、必死になって命乞いをしてきたほどだ。
「…ハルト様。衛兵のほうからお使いが来ましたわよ。どうやら私達の証言の裏取りができたようですわね」
「もう何回も同じ事を話すことになりましたよ…。あの泥棒さんを捕まえられてよかったです…」
「そう言えば…私にも話を聞きに来ると言っていたな。まったく。面倒なことになったものだよ」
俺らがマルフェスティ教授と話し込んでいると、衛兵の相手を終えたメルルとタルテもこちらにやってきて会話に参加した。俺とナナがマルフェスティ教授の相手をしていたため、衛兵の対応を任せてしまっていたのだが、中々に面倒だったようで疲れた表情をしている。もしかしたら昨日の戦闘の後よりも疲れているかもしれない。
「ああ、それでその捕まえた泥棒さんとやらは何て言っていたんだい?衛兵に任せてもいいのだが、どうにも気になってしまってね。…君らが取り逃す相手を衛兵が捕まえられるとは思えないしな」
後半は現場を検分している衛兵に聞こえないようにと密やかな声でマルフェスティ教授が囁いた。未だに事件は解決してはいないものの、マルフェスティ教授は不安に怯える様子は無く、やはり好奇心に突き動かされるように外連味のある笑みを浮かべていた。
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