第36話

 さてわたしにはまだ、最後の大仕事が残っていた。

 あのあとレストランで、苑田三姉弟+かれんさんの旦那様とともにうっとりするような夕食を頂いて、さらには譲くんと焼鳥屋で打ち上げと称した二次会をして。


「直央の食べっぷり、すごかったな」

「だって、お昼も食べそびれたんだよ……!」


 わたしたちは解散すべく、駅のホームに立っていた。

 ほんとうは神田かんだで降りるところだけれど、別れがたくて譲くんについてきたのだ。譲くんはいぶかしげにしたけれど、そこは適当な言い訳を使ってごまかした。

 降り立ったひとの波が途切れても、わたしたちはまだ山手やまのて線のホームにいた。


「譲くん。あの……さ、喉、渇かない?」

 わたしがホームの自販機に目をやると、譲くんもそちらを見やる。

「あー、だな。コーヒー飲んで帰るか」

「買ってくる」


 わたしは譲くんが口を開く前に自販機に駆け寄り、コーヒーとカフェラテを買う。

 譲くんはホームベンチに腰を下ろしていた。コーヒーを渡すと、小さく「サンキュ」と返ってくる。お互いに無言でプルトップを開けた。

 心臓が暴走を始める。

 どうやって目当ての話題に持っていこう。こっそり悩んでいると、譲くんが先に口を開いた。


「やっと平和な日々が戻ってくるな。直央は明日も展示会か」

「そそ。まだ休めないんだよ。明日以降は、今日みたいなハプニングがないといいなあ……」

「間瀬さんのことはどうなった?」


 うん、とわたしは言いよどんだ。あまり気の滅入るような話はしたくなかったんだけどな。でも、話を逸らせる雰囲気でもなかったので、正直に答えた。


「たぶん大丈夫。三國さ……企画部長が、わたしは企画の人間だから間瀬さんに使わせるなって、営業部長に念押ししてくれたそうだし」

「そっちもだけど、そっちじゃないほうは?」

「じゃないほう?」


 ほかになにかあったっけ。カフェラテを飲みながら考えていると、譲くんが眉を寄せた。え、なんで怒るの?


「譲るのをナシにするって、言ってただろ」


 そういえばそんな話もあったっけ。

 あまりにも現実味がなくてすっかり忘れていた。


「でもあれって、けっきょく自分の成績のためにわたしを彼女にしておきたいとか、そういうことでしょ。ないない」


 笑って手をひらひらさせる。ないない。あり得ない。陰で「オイシイ女」呼ばわりされて、大河さんの元になんて戻るわけがない。


「そうでなくても、何股もかけてるひとのところになんか、戻んないよ」

「……そ」


 譲くんが言葉少なに言う。心なしかほっとしてる風に見えた。


「そういえば、あのとき間瀬さんになんて言ったの? 間瀬さんが珍しく絶句してたんだよね」

「忘れたわ」


 譲くんはこっちを向かないままで言う。


「俺は、明日からしばらく寝る」

「その宣言いる? でもそうだよね、譲くんもお疲れさま。ありがとう」

「直央も。毎日新鮮だったわ」

「あはは、だいぶ巻きこんだよね。大変だったでしょ」

 譲くんが首を捻ってわたしを見る。

「大変だったのは間違いない」

「だよね」

 わたしはベンチに座ったまま、頭を下げる。

「面倒だったし」

「やはり」

「疲れたわ」


 わお、そこまでか。この様子では勝ち目はないな。って元から勝ち目がないのはわかっているけれど。

 だからこれからすることは、わたしがわたしの気持ちを昇華させるための儀式でしかない。


「けど、笑えた。いや、笑ったら駄目なんだろうけど、なんかもう笑い飛ばすしかないっていうか。とにかくこのひと月はかなり濃かったわ」


 コーヒーを飲み干した譲くんが、参ったという風に笑う。

 これまでも笑ってくれたから、わたしはへんてこな体質も襲いくる不運にもめげずにいられたんだよ。


「それに、不運ばっかでも手を抜かなかったでしょ。そういうとこ、いいと思うし」


 心臓が今にも皮膚を突き破りそう。

 ここで言わなかったら、たぶんもう二度と言えなくなる。

 日を改めて、心構えをして……なんてやってたら、今日より派手な不運に襲われる。間違いない。

 不運に遭うから伝えない、なんてのはもっと嫌だ。後悔しかないのは目に見えてる。

 報われないのもわかってるし、いっそさらっと。さらっとね。不運が起きても譲くんを巻きこまず、負担にならないように。


「わたしは、そうやっていつも笑ってくれる譲くんが――」


 わたしが言いかけるのと、譲くんのスマホが鳴るのは同時だった。

 プルルルル。


「悪い、聞き逃した。なに?」


 プルルルル。プルルルル。


「ううん、電話出ていいよ」

「いや、俺も直央に話あるし」


 プルルルル。プルルルル。

 譲くんは深いため息ののち「悪い」と断ってスマホを耳に当てた。


「姉さんかよ……。え? ……ああ、直央? いるけど。で、なに? え?」


 譲くんは、スマホをなぜかわたしに向かって突きだした。

 スピーカーフォンに切り替わる。なに? と目で尋ねると「聞いてろ、って」、と小声で返ってくる。

 やがてざわついた音が流れた。ノイズ音かと思ったが、違うらしい。

 これは……この独特の華やかな雰囲気が伝わってくるのは……パーティー? でもそれにしては抑えめのような気もする。あ、もしかしてこれはパーティーの始まる前では?

 その音は、電話の向こうから直接発せられたものというよりは、さらに機械を通したものに聞こえた。

 数分おきにやってくる電車のアナウンスが邪魔で、ざわめきはよく聞き取れない。

 けど……その声だけは耳を直撃した。


『――間瀬さん、俺は最初に『譲られます』つったはずです。これ以上、直央にちょっかい出さないでください。もしなんかしたら、俺が黙ってないんで』


 ――プツッ。


「……」

「……」


 今のはいったい……? いや、いったいもなにも、譲くんの声なのはわかった。相手が大河さんなのもわかった。

 けれどなんの話なのか。わからない。

 わからない……のに、顔はぐんぐん熱くなっていく。


「これって……あれ? さっきわたしが尋ねた……わたしのスマホを間瀬さんが取りあげたときの?」


 わたしは両手で頬を挟んだ。手が冷たい。っていうか顔が熱いんだけど……!

 譲くんが拳を口元に当てて顔を背けた。

「はあああ」という出会って初めて聞くレベルの大きなため息が、その口から漏れる。


「録音されてるとか知らないって……てかなんで録ってんの……!」


 あんなこと言われたら、優しさを別のものと勘違いしちゃうってば。いけない、ここはわたしが冷静にならなければ。


「あ、あはは……かれんさんったら、お茶目なひとだね。でもこんなの聞かせてどうするつもりだったんだろ。はは、譲くんも大変だね……」


 譲くんが拳を口元に当てたまま、わたしに目線を戻した。その表情の意味は、わたしにはわからなかった。


「ほら、相手が間瀬さんだったから、気に食わなかっただけでしょ? わかる、わたしも今日の間瀬さんには正直腹が立ったから啖呵切っちゃったし。あれはひどかった」


 乾いた笑いを零しつつ、わたしはカフェオレをぐいっと飲む。


「だからその、わたしはわかってるし、怒ってくれてありがと。でもそういう優しさは、これからは伊吹さんだけにしときなよね。今回はわたしだからいいけど、勘違いする女子もいるから」

「だからなんで伊吹さんが出てくんの」

「なんでって、より戻すって言ってたよね?」

「言ってないけど」


 んん? わたしは缶をベンチに置き、譲くんの顔をのぞきこんだ。


「つくばの公園で、『より戻す』って」


 譲くんが思い出すなり、苦々しげに顔を歪める。


「あー、思い出した。言った。ていうか、『より戻す気はない』って言おうとした。マイクに遮られたから、最後まで言えなかったけど」


 ということは、譲くんは伊吹さんとは付き合ってない?


「なんだ……そっか」


 わたしはそそくさとうつむいた。

 そうでもしないと、頬が赤いのがバレる。胸の奥がむず痒く、ぎゅうっとなる。


「直央こそ勘違いしてるみたいだから言っとくけど、さっきのも別に優しさじゃない。普通に、そう思うもんだと思うし」


 譲くんが口ごもる。

 つまり? 急にわけがわからなくなってきた。でも鼓動がまた騒ぐから、今のうちに言ってしまおう。

 わたしは思いきって顔を上げる。思いのほかすぐ近くに、譲くんの顔が迫っていた。


「じゃああの、譲くん。よければ、このままほんとうに譲られ――わっ!?」

「直央っ?」


 後頭部に鈍い衝撃を受け、わたしは前に倒れこんだ。

 息が止まる。

 支えようと身を乗りだした譲くんと、キスしていた。今度は、やわらかな唇に。




 

 頭が一瞬、真っ白になってから、わたしは弾かれたように譲くんから離れた。


「ごごごごめん! これは不可抗力で! わたしの意思とは違くて」

「……知ってる。抱っこひもに入った子どもが、直央の頭を蹴飛ばすのが見えたわ」


 譲くんの肩越しにホームの端を見ると、母親に抱っこされた赤ちゃんが、足をぶらぶらさせている。あれか。


「最後の最後まで邪魔されるとは……不運すぎる」

 肝心なところだったのに!

「直央」

「はははいっ? あ、あはは、変な声……」


 唇がキスの余韻に痺れたままで、譲くんの顔を見られない。

 顔から火が出そう。


「今なんか頑張ろうとしてた?」

「えっ、いや、そんなことは……っ、ある、あります……」


 目は見れないし、しどろもどろになってしまう。手のひらには脂汗もかいている。まったくもって格好がつかない。

 なのに、譲くんが鼻先まで顔を近づけてくる。笑ってる?


「直央の不運ってわかりやすいのな。けど、ちょい待ち。先越されるのは困る」

「先?」


 譲くんがさらに近づいてくる。わたしはわけもわからず、後ろ手をついて仰け反った。


「まもなく二番線に電車が参ります――」

 電車が到着するアナウンスが流れる。

 わたしたちは微動だにせず、見つめ合う。電車がホームに滑りこみ、人波ができる。

 それでも譲くんは目を逸らさないから、わたしも目を逸らせない。不運の女神に、こんな一瞬がやってくるなんて、思いもしなかった。

 電車が遠ざかり、人々の足音も消えて。

 ようやく。


「直央」


 吐息みたいな声で、譲くんがささやいた。


「――俺に、譲られて」

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