第31話
いよいよ、展示会初日でかれんさんの結婚パーティーの日になった。
早起きして朝食を終え、いよいよメイクとパーティー向けの服装に着替えるだけである。
パーティー用の服は一昨日、会社で友香から受け取っていた。袖が透けるようになった、ピンクベージュのセットアップ。パンツの丈がわたしには長いものの、調整可能な範囲で助かった。
昨夜、代役のSEが来たのは十一時前だった。ひととおりの引き継ぎはしたものの、作業の完了を見届けられずに終電で帰宅したのだけれど、その後どうなっただろう。
「おはようございます。女神です。そちらは動作確認終わりました?」
わたしは念のため、着替える前に代役のSEに電話をかけた。ところが、まさかの返事が返ってきた。
「すみません、今やってます」
「えっ、やってるってまだ終わってないってことですか?」
わたしはぎょっとして壁掛け時計を見る。八時。開場は十時。あと二時間しかない。
譲くんがテストをほとんど実施してくれたので、あとは軽微な確認で済んだはずなのに?
「それが――」
わたしはSEの説明を聞くなり、スーツに着替えて部屋を飛びだした。
もちろん、行き先は展示場だ。途中、譲くんに電話をかけたけれど繋がらず、わたしはビッグサイトに立ち寄るが幹事の打ち合わせには間に合うから、と留守電を残した。
関係者入口から入館証を見せて入り、立倉のブースに駆けこむ。SEさんは
「ご無事でよかったです……!」
へなへなとプリンターにもたれるようにして座りこむと、SEさんが
「いやあ、火災報知器が鳴ったときは冷や汗ものでした。さいわい、別のホールだったんですけど一時退避させられましてね」
「こっちは無事だったんですね? うちの製品も含め」
「はい。こっちのホールだったら一環の終わりでしたね。火災報知器の鳴ったホールはスプリンクラーが作動したようですし」
想像するだに恐ろしい。スプリンクラーが作動してしまったら、うちの製品だけじゃない。このホールにある精密機器はすべてダメになる。
よかった、怪我人もなく大事にもならなくて。
「もう終わりますから、来なくてもよかったのに。今日はお休みだと藤堂さんから聞いていますよ」
「そうなんですが、じっとしていられなくて」
まだ心臓が嫌な音を立てている。わたしは胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。
「女神さんは、責任感が強いんですね。でも安心してください。藤堂さんももう来られるでしょうから、帰っていいですよ」
「せっかくなので、藤堂さんが来てから帰ります」
パーティーは開場十三時、受付が十二時半からの予定だ。幹事はその一時間前に集まることになっている。
【人も機器も無事でした。動作確認もまもなく完了です。無事開場を迎えられそうです】
来る途中、三國さんにも事態の報告をしていたので、さらにメールで報告を追加する。
【了解。ご苦労様】
三國さんからの返信を確認し、わたしはほっと息をつく。今日はわたしの代わりに藤堂さんがここの監督責任者だ。九時には来てくれる予定なので、それからいったん帰宅してパーティー会場に向かってもじゅうぶん間に合う。
ほどなく藤堂さんも合流し、機器の動作確認も無事完了した。
「一時はどうなるかと思いましたが、女神さんお疲れさま」
「お疲れさまです! 今日はよろしくお願いいたします」
藤堂さんにインカムを渡して引き継ぎを終える。やっと肩の荷が下りた気分だ。といっても、今日の責任者を代わってもらうだけで、明日から残りの四日間の対応はわたしだけれど。
藤堂さんのほかに、今日のアテンドをする営業や広報のひとたちも続々とブースに集結する。皆に挨拶して、わたしはさあ帰ろうとタイトスカートの裾をさばいた。
そのときだ、視界の隅に不吉なひとが映ったのは。
「間瀬さん……おはようございます。早いですね」
立倉のブースに現れた大河さんに、喉がひくりと鳴った。無意識にあとずさる。
「まさか女神、帰るつもりじゃないだろうな。今日は朝一で時任様がいらっしゃると伝えてあっただろ。お前のせいで販売機会を失ったらどう落とし前つけんだよ」
「ですが、わたしは今日お休みをいただいています。上司の承認ももらっていますし、間瀬さんのお客様ですから間瀬さんがアテンドすればいいじゃないですか。わたしはもう営業じゃありません」
「営業じゃないから、俺たちのサポートをするべきなんだろうが。お前たちは俺ら営業が汗水垂らして稼いだ金で給料もらってんだよ! この機器、いくらか知ってんだろ? 売り逃せば、お前もただじゃ済まないからな」
大河さんの目が据わっている。こんなに余裕のない大河さんを見るのは初めてだ。ふいに、友香が以前言っていた言葉を思い出す。
『間瀬さん、最近大口のお客さんを取り逃がしたらしいよ。それで営業部が荒れてるって』
きっとそれで必死なんだ。
時任様を逃すわけにはいかない、と大河さんは焦っている。
だからといって、いまの言葉はこの場で言っていいものではない。この場には営業以外の人間もいる。
「お言葉ですが、この展示会ひとつとっても、設計やSEやわたしたち……皆がそれぞれの役割を全うしています。営業だけが売り上げを取っているのではありません」
なんだと、と間瀬さんが声を荒げたとき、藤堂さんがやってきた。
「間瀬さん、お客様がすでに到着されておいでです」
開場までまだ時間があるのに? ぎょっとするわたしたちに、時任様の朗らかな声が被さった。
「やあ、間瀬くん。このあと別件があってね。無理いって先に入らせてもらったよ。新製品、見せてもらえるかね? お、女神さん。これは幸運だなあ。君もおいで。帰りにいいものをご馳走してあげよう」
時任様が悠然と立倉のブースに足を踏み入れる。わたしたちは瞬時に仕事モードに切り替わった。さりげなく全員が持ち場に移動する。
「申し訳ありません。このあと別の予定が入っておりまして。不明点などはなんでも間瀬にお申しつけください」
わたしはちらっと時計を見やるが、それを阻むように大河さんがわたしの腕をつかんだ。
「時任様、このたびは弊社のブースにご来場いただきありがとうございます。女神もそばにつけますので、じっくり新製品の感触を試してください」
わたしは素早く腕を引こうとしたが、大河さんの腕が食いこんで叶わない。こんなところで捕まってる場合じゃないのに!
どうしてこうも、天に見放されるの……!?
わたし、前世で悪行の限りでも尽くした?
「間瀬さん、放してください! わたしがどれだけこの日のために準備してきたか……! いますぐここを出なきゃいけないんです!」
サービスエンジニアが機器を操作するのをじっと見つめる時任様のうしろで、わたしは小声で大河さんに抗議する。
けれど、返事をしたのは大河さんではなく、うしろから近づいてきた藤堂さんだった。
「女神さん、三十分だけなんとかならない? あのお客様、実は前にも揉めたことがあって……ここで怒らせるのは得策じゃない」
「でも」
「今日この新製品をこの場に出した意図は?」
初お目見えの場を展示会に合わせた意図。藤堂さんに尋ねられ、わたしはうなだれた。
「立倉の技術力をアピールして、市場に攻勢をかけるため……です」
「だよね。では、女神さんが立倉の人間としてすべきことは?」
藤堂さんの声は穏やかだったからこそ、わたしは観念するしかなかった。
作り手たちの思いも背負って、今わたしが立倉の一員としてやるべきこと。
三十分。帰宅して、着替えて髪を直して……ぎりぎりいける。
わたしは、大河さんの手から引き抜こうとしていた手の力を抜いた。声が強張ったのはしかたなかった。
「……わかりました。三十分だけアテンドします」
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