第22話

「ちょっと、痛いです。離してください」


 わたしは手を振って抵抗したが、大河さんはびくともしない。どころか、ますます強く握られる。なんなの!?


「あいつ、先輩思いだよなあ。彼女も快く取られてくれたしなあ」

「なに言ってんですか!? 快くなわけないじゃないですか。ひとの気持ちもてあそんで愉しいですか?」


 わたしはともかく、譲くんをもけなすなんてどうかと思う。恋人を取られて、誰がいい気分なものか。


「女のほうが勝手に寄ってくるんだって」


 笑った大河さんが次の瞬間、顔色を変えた。

 尖った視線がわたしから絨毯じゅうたんを敷いた床に移る。視線の先には抵抗したときに落としてしまったらしいピアスが転がっていた。


「へえ、それがさっき譲に渡されたやつ? 譲とはすぐにヤッたんだ? ははっ、ウケるなー。腹がいてえ。お前、俺の前では純情アピってたのになあ。譲との相性はどうだったんだよ?」


 さっきのやりとりを見られていたんだろうか。それにしても、なんでこんなに突っかかってくるの? もうそっとしておいてほしい。


「間瀬さんには関係ありません」


 わたしはその場にしゃがみこんだけれど、大河さんの革靴がピアスを踏むほうが先だった。


「なにするんですか! 足どけてください」

「お前のおかげでこっちは迷惑してんだよ。これ返してほしいなら、付き合えるよな?」

「は!? やめてください!」


 大河さんがわたしの目の前でピアスをぐりぐりと踏みつける。こんなひとだったなんて見損なった。大河さんをにらみつける。

 わたしを見おろす大河さんの笑みには温度がなかった。ぞっとした。

 あろうことか、わたしはそのまま大河さんに連行されてしまった。わたしが押しこめられたタクシーは、都内の閑静かんせいな住宅街にぽつんと佇む料亭の前で停まった。


「――なんですかここ」

「見りゃわかるだろ? たまにはいいモン食おうぜ」


 大河さんはタクシーから降りたわたしの腕をすぐさまつかみ、料亭の門をくぐる。中から女将おかみが出迎え、大河さんが名前を告げる。わたしたちは離れのほうに連れていかれた。

 離れの玄関を上がり、「松葉」と呼ばれたお座敷に案内される。日本庭園を真正面に望む、風情ある部屋に入ると、三名分の席が用意されていた。

 大河さんが問答無用でわたしを下座に、そして自身も下座に腰を下ろす。しばらく待つと足音が近づき、障子が静かに開けられた。


時任ときとう様、今日はお忙しい中、お呼びだてしてすみません」

「やあ、間瀬くん。間瀬くんの頼みならいつでも応じるよ。ただ僕には購入の権限はないんだけどねえ、はっはっは」


 大河さんが立ち上がって頭を下げ、わたしも隣でお辞儀をした。現れたのはわたしが営業のときに何度かアプローチしていた企業の購買部長だった。

 もう、わたしは営業じゃないのに? 頭に浮かんだ疑問を口にできるはずもない。


「とりあえず仕事の話はおいおい。今日は女神を連れてきました。彼女がお酌しますので、なんなりとお申し付けください」

「やっとお目通りが叶ったねえ、女神さん。異動したんだって? 間瀬くんだけじゃどうにも色気がなくて」

「ご無沙汰しています。時任様もお元気そうで」


 つまりは――大河さんが時任様のご機嫌取りをするために使われた?

 悔しい、悔しい……!

 明日、絶対に営業部長に抗議してやる。わたしは大河さんに使われるためにいるんじゃない。「オイシイ女」じゃないのに。

 怒りで強張る表情を、わたしはなんとかゆるめようと息を吐く。裏に大河さんのどんな事情があろうと、私情でお客様を放りだすのは言語道断。わたしだって社会人の端くれ。大人の対応くらいはできる。

 できる……けど。お座敷の座卓の下で握った拳に爪が食いこむ。その手の甲に、ホワイトゴールドのピアスが落とされた。大河さんの目はあくまでもお客様に向き、にこやかに接待トークを展開している。

 分厚く塗りたくった笑顔が剥がれ落ちないように、わたしは懸命にお酌をした。





 そんなこんなで大河さんに振りまわされた金曜日が終わり、わたしはほうほうの体で翌週も仕事をこなしていた。まだ火曜日なのに、すでに木曜日まで働いたかのような疲労が肩にのしかかる。


「はあーっ……」

「お疲れ様、女神さん。根をつめすぎなんじゃない? 少しは休憩したら?」


 自席でぐーっと伸びをすると、向かいの席から藤堂さんに苦笑された。モニターの右端に目をやると、十九時という表示。

 ぐるりとフロアを見渡しても、残業中のひとは全体の三分の一といったところだろうか。なんとなく、フロア全体にゴールデンウィーク前の浮き立った雰囲気が漂っている気がする。


「そうですね。もうひと踏ん張りしたいので……ちょっとだけ休憩してきます」


 わたしは財布とスマホを片手に執務室エリアを出る。エレベーターホールを挟んだ向こう側にある、リフレッシュルームの自販機で飲み物でも買おう。

 ところがリフレッシュルームに入るなり、はかったように着信音が鳴った。


 譲くんからだ。


「お疲れ。今いい?」

「ちょうど休憩するところだった、譲くんタイミングばっちり。挙式は無事、終わった?」

「ん。あの姉さんが完璧に化けてた。演技のたまもの?」


 譲くんの声は、普段よりも心持ちトーンが高い。ハワイの青い空を脳裏に思い浮かべる。


「かれんさんは演技なしでもすっごく可愛いから」

 笑った譲くんが、しみじみとした声で言った。

「……いい式だったよ」

「そっか。かれんさんも譲くんもおめでとう」

「俺も?」

「もちろんだよ。家族だからね。苑田家の皆様、おめでとうございます」


 わたしはスマホを握ったまま、頭を下げる。画面の向こうで譲くんが小さく笑った気配がした。

 ああ、いいなあ。電話越しにあったかい雰囲気が流れこんでくる。


「そっちはどう?」

「ん、順調だよ。さすがに展示会直前なのでバタバタしてるけど。あー、お腹空いた」


 わたしはわざと軽い調子で答える。大河さんの件は、伝えるほどのことでもないだろう。思い出したらむかむかしそうになったので、わたしは無理やり大河さんのことを頭から追いだす。


「そっちは夜じゃないの? 夕飯は?」

「夕食どころかお昼も取り損ねて……ってそっちは今何時?」

「夜中の零時。眠いのに目が冴えて寝られねー」


 だから電話をくれたのかな。お姉さんの結婚式の話だから、幹事のわたしに報告しておこうと思ってくれたのかも。

 理由はなんであれ、胸の奥がくすぐったくなる。


「子守歌でも歌ってあげようか。それとも、怪談をお伝えするほうがいい?」

「怪談はやめて。飯テロ写真で対抗する」

「譲くん、ホラーは苦手なんだ」

「ホラーは平気だけど、怪談はまじやめて」


 なんでもない会話。だけど肩に乗っていた疲労が軽くなった気がする。まだ頑張れるなと思う。


「あー、直央の声聞いたら、寝れる気がしてきた」


 ああほら、そういうことをさらっと言わないで。またくすぐったくなるから。


「催眠作用があるとは、またひとつわたしの能力が開花したね。もっと話す?」

「いや、仕事の邪魔になるしもう切るわ」

 わたしは、「譲くん」と呼びかけた。

「パーティーも、絶対いいものにしようね」

「ん。サンキュ。そっちもまずメシ食えよ。無理しなくていいか――」

「なーおー」


 唐突に背後から大声で呼ばれ、わたしはぱっとふり向いた。大河さんではないか。


「間瀬さん!? なんですか」


 つい眉が寄ってしまった。先週、お客様の接待に連行されてからというもの、わたしは立て続けに大河さんのお客様の接待をさせられていた。昨日はランチミーティングにも同席させられ、夜も当然のように連れていかれた。ぜんぜん食べた気がしなかった。

 しかも提案資料の作成まで手伝わされそうになり、さすがに抗議したけれど聞く耳を持たれなかったのだ。展示会前で、ほかの仕事を抱える余力もないのに。

 三國さんに相談したいけれど、三國さんは一昨日からお休みが続いている。なんでも息子さんが水疱瘡みずぼうそうになったとか。


「早く用意しろよ。待ってんだよ、こっちは」

「行かないって言いましたよね?」

「客を捨てるんだ? 自分たちじゃ稼げないくせに、いいご身分だよな」


 イライラする。第一線で直接稼いではいなくても、営業企画だって漫然と座ってるだけの部署じゃない。なんでこういちいち癇にさわる言いかたをするんだろう。

 けれど「客」を持ち出されると拒否できない。

 大河さんのお客様のなかには、かつてわたしが担当していたお客様もいる。慌ただしく引き継ぎしたせいで、わたしとしてもその後が気になっていた。どうしても捨て置くことができない。


「……わかりました」

「――あのひとになんかされてんの?」


 電話口から聞こえてきた声に、わたしはどきりとした。通話口を押さえることもせずに大河さんと話してしまっていたらしい。譲くんの声は冷ややかだった。しまった。

 触れたくないものに触れさせてしまった。譲くんにとって、間瀬さんは鬼門のはずだ。


「ううん、ただの仕事の話」

 うそではない。わたしはよけいな言葉が零れないように、ぎゅっと唇を引き結ぶ。

「ほんとうに? 嫌な思いをさせられてないか?」

「……ほんとうに仕事の話だから」

「なおー、遅い。待たせんなよ」


 いつのまにかすぐ横に立った大河さんに、髪を引っ張られる。あやうく悲鳴じみた声を上げるところだった。


「今いきます! ……じゃあ、譲くん、また」


 せっかくいい気分で電話していたのに、台無しだ。わたしはそそくさと譲くんとの通話を切った。


「あのやろう……」


 譲くんが画面の向こうで毒づいたとは知るよしもなく。

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