第10話
「頭がパンクする!」
一気に十歳ほど老けた気分がする。外はとっぷり夜も更けていて、飲み会……この時期だから送別会かもしれない、サラリーマンのグループがほろ酔いで遊歩道を歩いている。
他人の、それもさほど親しくない相手の好みを想像するのは難問だ。全面的に任せるとは言われていても。
「先が思いやられるな」
「ほんとそうだよね……って譲くん、なに笑ってんの」
「いや、それ」
隣を歩く譲くんが含み笑いで指さしたのは、わたしのパンプスのつま先だ。
「先が思いやられる……」
失礼な。と思ったけれど、譲くんの表情にわたしを揶揄する様子はない。あまりにも笑うので、凹むのを通り越して笑えてくる。
「ぶっ……ほんとにねー。でも譲くんの頬だって、先が思いやられるから」
冷感シートの外された頬は、まだ熱を持っているのかほんのり赤い。早く腫れが引くといいけれど。
譲くんがとうとうお腹を抱えてくつくつと笑い始めた。そういえば、とこんなところで思い出した。
「わたし、間瀬さんとは半年お付き合いしたんだけど」
譲くんが笑いを止めた。
「笑い飛ばされたことなかった。……舌打ちばっか、聞いてたな。思えば、そのときに気づくべきだったのかも」
ははは、と乾いた笑いで湿りかけた空気を吹き飛ばそうとしたわたしの前に、黒のハイカットスニーカーが差しだされた。
「これ、使えば」
「え」
譲くん、スーツの下はスニーカーだったのか。まあ社内の打ち合わせだったなら、そんなものか。ってそうじゃなくて。
「その靴で帰れないでしょ。それか、今から修理いく? 買いにいってもいいけど」
「いやいやいや。タクシーで帰るから。ていうかわたしが履いたら、譲くんが片足おかしなことになるって」
「別に、誰も見ないでしょ」
「見るから! そこは気にしようね」
「……まあ、くさいのは認める。この靴、三日連続で履いてるし」
「それはくさい」
譲くんはむっとすると、差しだしたスニーカーを履き直す。わたしはありがたく気持ちだけもらい、代わりにスニーカーの靴紐だけ借りることにした。
パンプスのつま先をスニーカーの紐で
「ありがと、助かった」
JRの駅前にあるタクシー乗り場で、譲くんと別れた。譲くんはやっぱり、わたしの乗ったタクシーが動きだすまで見守ってから背を向けた。
気持ちいい気怠さのまま、わたしは走り出したタクシーの中で座席にもたれる。なにげなく足元を見ると、通勤用の黒のシンプルなパンプスに何重にも巻かれた紐が目に入った。
軽く足先を振ってみれば、めくれたソールが留めた紐の先でぱたぱたと控えめに乾いた音を鳴らす。
喉元まで笑いがこみ上げてきた。
紐で応急処置をしたのだから、わたしも譲くんと一緒に電車に乗ればよかったな。そうしたら、一緒に笑えたかもしれないのに。
自宅近くでタクシーから降りるまで、わたしは笑いが漏れるのをこらえるのに表情筋を酷使しなければならなかった。
さてと。
マンションの部屋に戻り、スーツから黒スウエットともこもこフーディに着替えたわたしは、肩下までの髪を頭のてっぺんでお団子にし、ヘアバンドで固定して部屋をぐるりと見回した。
片手にはポリ袋をがっつりお供に従えている。
「やりますか」
わたしはまず、寝室のクローゼットを開ける。ざっと見て、目についたものからポリ袋に突っこんだ。といっても、たいした量じゃない。
デートで着た服なんて、ぜんぶかき集めてもそんなになかった。気づいて乾いた笑いが漏れる。
あとは、あのどん底のホワイトデーに身につけた、新品同様の下着。色っぽさあふれるレースのセットで、お財布との相談会に時間がかかった一品だ。けれど、それもえいやっとポリ袋に押しこむ。
映画の半券。水族館の入場券。大河さんの好みに合わせて買った、アクセサリー(買ってもらった、ではない)。なにげなく一緒に立ち寄った店で買った、木彫りの兎の置物。大河さん用に用意したマグカップ。
この半年で、そのマグカップを大河さんが使ったのはたったの二回だ。わたしが気合いを入れたときに限って、お泊まりデートは流れたから。
わたしが好きだった作家の個展のフライヤー。最初に違和感を覚えたのは、この個展にいったときだった。好きなイラストレーターの個展に大河さんを誘っていったが、会場に足を踏み入れて十分もしないうちに大河さんは外に出てしまった。
慌ててあとを追ったら、昼間からラブホに連れこまれかけた……んだっけ。なんであのときに気づかなかったかな。大河さんは自分にしか興味のないひとだった。
わたしは感傷に浸りそうな自分を頭から追いだし、黙々と思い出の品をポリ袋に放りこんだ。それが終わると次にスマホをタップして、大河さんの写った写真を削除する。
最後にSNSのアプリを開く。たっぷり十分以上は大河さんからのメッセージを読み返してしまったが、わたしはとうとう大河さんのアカウント「大河」をブロックした。
仕事上の付き合いは続くので、連絡先を完全に削除するのはやりすぎかもしれないとためらったけれど、そもそも仕事の付き合いは社内メールや社用携帯で事足りる。
ここでやめたら中途半端になる。わたしは手をゆるめなかった。すべて消し終えて、ゴミ袋を見る。
目から塩水が流れても、鼻水をすすっても、止めなかった。大量のティッシュはすべてゴミ袋へ直行させた。
それでも捨てた量は四十五リットルのゴミ袋の、半分ほどにしかならなかった。
「終わった……」
フラれた直後は手をつけられなかった、思い出の断捨離。
大河さんはいい先輩だった。だからこそ、二股なんかかけられた自分が欠陥品のようで、仕事では普通にしていても事実を受け止めるのに時間がかかってしまった。
でも思ったよりは早く、処分できた。できる自分になれたなあ。
ポリ袋をマンションのゴミ捨て場に捨てにいこうと玄関で靴を履く。さっきまで履いていたパンプスが目に入った。
もともとそんなに高い買い物じゃない、仕事の相棒だった黒パンプス。大河さんともこれを履いていくつもの客先を回った。
よしこれも捨てよう。もう大河さんと客先にいくこともない。ソールだってべろんべろんで、このまま履けるものでもないし。
わたしはパンプスをつかんでポリ袋に入れかける。
――けれど、思い直して玄関の端に並べ直した。
けっきょくパンプスには紐を巻いたまま。ゴミを捨てて戻り、わたしは部屋の窓を開け放つ。
月のしらじらと輝く空の下、缶ビールを片手にベランダで深呼吸をする。清々しい夜の空気が肺の奥に満ちてくる。
次の週末は、新しい靴を買いにいこうかな。
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