第8話
ぽかんとするわたしたちの前で、黒のパンツスーツに身を包んだ小柄な女性が、体がほとんど半分になるかという勢いで頭を下げた。
「モデルの男性と連絡がつかないんです。女性のほうは着替えを終えてますし、撮影スケジュールが押すとあとに響くので……お願いします! あなたイケメンですし! モデルにぴったりなんです!」
ついさっき譲くんの手をつかんだ別のスタッフも、エントランスホールで一緒に頭を下げた。こちらも上下黒だが、腰の辺りにメイク道具らしい筆がたくさん入ったポーチを提げている。
思わず譲くんと顔を見合わせると、スーツの女性がわたしへすがる目を向けてきた。
「お願いします! 恋人のかたをほんの三十分ほどお借りできないでしょうか? もちろん御礼はいたしますので!」
そう言われても、わたしは恋人でもなんでもないので答えようがない。困って譲くんを見ると、譲くんも苦虫を噛み潰したような顔をした。
「いや俺、今日は打ち合わせにきたので」
「そこをなんとかお願いいたします! 大事なウェディング広告用の撮影なんです。ほかの日は通常営業なので今日しか撮影できなくて……」
「はあ……わかりましたから頭上げてください」
ちら、と見ると譲くんがげんなりしている。これがいわゆる、巻きこまれ案件というやつなのだな。目の当たりにしたのは二度めだけれど、譲くんには日常茶飯事なのか。
あらためて考えても妙にヘビーな人生だな。
「いいんですか!? ありがとうございます! めちゃめちゃ助かります! ほんと困ってたんですよ……! ではさっそくこちらへお願いできますか?」
捕まえた魚は絶対に流さない勢いで、スタッフがエントランスホールから奥のフロアへと譲くんを引っ張っていく。
「頼んでおいていいんですかって聞くなよ……」
譲くんのぼやきは、わたしにしか届かなかったようだ。
「プランナーさんとの打ち合わせはどうする? わたしだけでよければやっておくよ」
「ん、頼むわ」
フロアへドナドナされていく譲くんを見送り、わたしは別のスタッフに用件を告げた。プランナーさんが来るまでお待ちくださいと言われたので、いい具合に褪せた木製のベンチに腰かける。
公園内というロケーションもいい。先日のカフェといいここといい、かれんさんの妖精めいた可愛さにぴったり。
「でもなんか、前途多難の予感……」
くすっと笑ったとき、レストランのドアが荒々しい音を立てて開かれた。
二十歳そこそこの金髪の男性が鼻息も荒く踏みこんでくる。男性はエントランスホールを
「お客様、本日レストランは臨時休業しておりまして……」
「うっせぇ! 邪魔しようたってそうはいかないぞ。今日ここでマキが結婚するってことは知ってんだよ」
男性はスタッフをふり払い、エントランスから個室のひとつに向かう。譲くんがさっき連れていかれた部屋だ。そうっと立ちあがって男性を追う。バン、とこれまた派手な音とともにドアが開く。
「てめえ……! マキは渡さねえ!」
という恨みのこもった声がした直後、骨に響く鈍い音がした。続いてどさりという音がして、わたしも部屋に駆けこんだ。
「譲くん!?」
まことに麗しいタキシード姿の譲くんが頬に手を当て、床に尻餅をついていた。
わたしは譲くんに駆け寄る。スタッフも駆け寄ってきて、譲くんに冷たいおしぼりを差しだした。
「なにがあったの……?」
譲くんはまだ呆けている。わたしは譲くんの代わりにおしぼりを受け取り、赤くなった頬に押し当てた。
「殴られたんだ? 痛そう……」
「うん、地味に痛いわ」
あ、やっと譲くんがしゃべった。
すみませんすみません、とスタッフが悲壮な顔で譲くんに謝る。たぶんスタッフさんは悪くないと思うんだけどな。殴った男性は、スタッフやカメラマンにメイクさんといった面々を見て、ようやく「なんか様子が違うぞ?」と思ったらしい。
きょろきょろと目が泳ぐ。そこに場違いに明るい声が
「あれぇ、ケンくん? 撮影見にきてくれたんだ? ちょー嬉しい~っ! ね、ね、このドレス可愛いでしょ? ……あれ、なんでこの人倒れてるの?」
ドアのほうをふり返る。お姫様みたいなふわふわのウェディングドレスをまとった可愛い女の子が、付き添いのスタッフと一緒に立っていた。
一同、静まりかえった。
ケンくんは読者モデルをしていた女性(十八歳、マキちゃんという。若い)の恋人らしい。
付き合っていた彼女が式場に行った上、別の男と結婚しようとしていると誤解した彼は、恋人を取り返そうとあとを追ってきたのだった。
「ケンくんがゆずるんを殴るところ、私も見たかったあ~! なおっぺもこういうの憧れません? ふたりの男が私を取り合ってるーって」
「はは……そう、かな……?」
実際には取り合われたどころか、ひとりにポイ捨てされた上、もうひとりに譲られた女ですとは言えない。
マキちゃんはぴかぴかのお肌を興奮で赤くしながら、お料理に手をつけていく。前菜のサーモンマリネとカリフラワームース、レンコンとゴボウのケークサレに、キャビアの載ったメインの
わたしももちろんせっせといただく。美味しいものはお腹と心の味方だ。これがさきほどの一件に対する、レストランからのお礼とお詫びとしても。
「ケンくんの台詞もずきゅんときたぁ~あの台詞だけでコース料理もう一周できる」
「あったりまえだろ。マキは俺のものだからな!」
「ケンくんーっ! 大好き! ね、私たちも結婚しよ? なおっぺたちみたいに」
キャビアの載ったステーキを噴きかけた。勘違いもいいところだ。
「おう、それいいな! ゆずるんのカップルにあやかって俺らも結婚しよう! マキ、一生愛してるぜ!!」
「ケンくーんっ!」
ぶっちゅう。
熱いキスを目の前でかまされ、わたしの喉をキャビアが滑っていった。しくじった、味わうつもりが。
わたしは隣で食事をする譲くんの顔をそっとうかがった。おお、「無」だ。
譲くんは基本的に表情に乏しいが、なぜか「無」は別格でわかりやすい。その左頬には冷感シートが貼られているが、「勝手にやってろ」という文字も貼りついているように見える。
騒動のあとの撮影は終始微妙な雰囲気だった。譲くんの頬には化粧が施され、さらには常に左頬を隠した斜めかのカットでの撮影。しかもずっとマキちゃんの彼氏がガンを飛ばしているという……そりゃあ「無」にもなるだろう。
でもタキシード姿は、いつものぼさっとした様子からは想像できないほどスマートだった。髪をうしろに撫でつけたからかもしれない。
新しい発見だ。譲くんに頼んだスタッフさんの目はすごい。
「じゃ、俺たちはこれで。打ち合わせいくか」
デザートのシャンパンベリーのタルトとコーヒーもいただいてひと息つくと、譲くんが席を立った。マキちゃんたちのイチャイチャにも動じない。見事なスルースキル。
わたしもそうだった、と表情を引きしめる。騒動のおかげで、打ち合わせは食事のあとになったのだ。
「そだね。すっかり夜になっちゃったし」
「待った! ねえ、そーだ! なおっぺ、せっかくだから一緒に写真撮ろうよ!」
「いいねいいね! さいっこうに可愛いマキの横だと、なおっぺが可哀想だけどな!」
フラれてからというもの、なにげないディスりが地味にぐさりと響く。これは不運体質ゆえの定めなんだろうか。わたしも譲くんにならって「無」を発動した。
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