二章 女神は不要品を捨てます

第7話

 地下鉄の出口を出ると、とたんにひんやりとした風が首筋をすり抜けた。スプリングコートが風になびき、わたしはぎゅっと身をすくめる。

 今年は例年の三月よりも平均気温が低いらしい。言われてみれば、公園の木々もまだ寒々さむざむとしている。


「かれんさんには恐れ入ったよ……」


 わたしたちは、かれんさんが押さえたというパーティー会場のレストランへ歩いていた。会場の下見と、プランナーさんと打ち合わせをするためだ。

 この週末はウエディングの貸し切り客で埋まっているからと、定時で退勤できる日を狙って譲くんと待ち合わせしたのだ。


「な? 初対面の相手は、たいていあの見た目に騙される。姉さんもそれをわかってて演出するし。で、いつのまにか言いなり」

「まさにそれ。ぜんぜん太刀打ちできなかった」


 思い返しても、どうしてこうなったのか説明できない。事前に譲くんから頼みの内容を聞いていたし、断る気満々でいどんだというのに。

 あれよあれよというまに、わたしは譲くんと結婚パーティーの幹事をすることになっていた。


「かれんさん、お見事でした。圧勝」

「ご愁傷様」

 そんな他人事みたいな。

「譲くんもやるんだからね? わたしだけじゃ無理だからね?」

「わかってるって」

 とたんに譲くんがげんなりした様子で顔を歪める。

「いま譲くんから、宿命を背負ったオーラが見えた」

「だいたい、結婚の件も俺にだけ知らされてなかったのおかしいでしょ」


 実はホテルでわたしたちが出会ったとき、譲くんはなんと、かれんさんの夫になるひととの顔合わせをしていたのだとか。

 譲くんはその場で初めて、お姉さんの結婚を聞かされたらしい。


「式まで二ヶ月を切ってから紹介されるのは、さすがに驚きだね」

「な」


 といっても、かれんさんのお相手は譲くんの実家近くの歯医者。家族全員の歯を知る男。もちろん、譲くんの歯も歯茎も知る仲。

 そんなわけで家族のあいだではふたりの結婚は周知の事実だったらしく、当然譲くんも知っているものと誰もが思っていた結果、誰も連絡しなかったということらしかった。


「俺の家族は、有休を取る苦労を知らないんだよ……」

 譲くんの遠い目が、なにやら可笑しい。設計部の激務ぶりは社内の人間なら誰もが知るところなので、笑っちゃだめだけど。

「仕事はどんな感じ?」

「直近の納期が四月末」


 うわあ、と想像して左腕をさすった。ちょうど結婚式と時期が被る。

 しかも、かれんさんたちはハワイ挙式の予定なので家族は一週間ほど渡航する。

 譲くんの来月の業務を想像しただけで身震いした。

 わたしが指名されたのには、そんな背景もあるのだった。不在のあいだにパーティーの準備を進めるためにも幹事が必要、というね。


「なぜわたしなのかっていう疑問は残るけど」

「俺も姉さんの思考についていくのは諦めた。けど、あれでもいい姉なんだわ」


 譲くんは公園を左手に見て歩きながら、目を細める。視線の先では小学校低学年だろう男の子が、ごはんだから帰るよ、と母親に引っ張られていた。


「俺らは三姉弟で、下に十歳離れた弟がいるんだよ。あまりに歳の差があるから家族全員が弟に激甘でさ。あの姉さんも弟には別人。姉さんにはいいように使われて、それはもういいように使われてばかりだけど、歩ーー弟にはめちゃくちゃ甘い」

 途中、やたらと実感がこもってたような。

「誕生祝いのホールケーキをさ、母親は八等分するんだ。最初は五人全員が一ピースずつ食う。さて、残りの三ピースはどうやって分けると思う?」

「それはやっぱり、子ども三人でじゃない?」

「甘い。姉さんと弟で一ピース食ったあと、姉さんは最後の一ピースを当然のように弟にやるんだよ。俺の誕生日だって言うと『じゃああんたは歩が食べられなくて可哀想だと思わないの?』と返される」

「かれんさん、つよっ……」

「ちなみに、『ゆずるくんお誕生日おめでとう』と書かれたチョコレートのプレートも、姉さんが問答無用で歩にやる」

 譲くんは重々しく告げた。

「歩は可愛いから、なにやってもいいんだけどさ。姉さんにはどれだけ我慢させられてきたか……。両親は放任主義なひとで当てにならねーし。……けど」


 公園の入口を見つけ、敷地に入る。夕食前だからか、ひとはまばらだ。公園を通り抜けるのは、だいたいが終業後のサラリーマンというところ。

 ほとんど藍色の空の遠く先、地平に近い場所だけはまだか細くもやわらかな光が残っている。


「俺が中三のときかな。弟とふたりで留守番してるときに、弟が熱を出したんだよ。喉がヒューヒュー言って、顔色は悪いしおでこは焼けるかと思うほど熱いしそのくせ全身ブルブル震えて、俺は完全にパニクってさ」


 そこに高校から帰ってきた姉さんが「譲、歩を病院に連れてくよ!」と、おろおろする譲くんをよそにお金やら保険証やら全部準備してタクシーを呼んで、親の代わりに歩を医者に診せた。


「正直、俺だけだったらなんもできなかった。横暴だし逆らったらろくなことにならないけど、頼りになる姉で……だからうん、姉さんには幸せになってほしいし」


 ふと、譲くんの巻きこまれ体質たるゆえんがわかった気がした。

 家族思いで、相手思い。だから巻きこまれても突き放さないんだ。


「こうなったら、最高のパーティーにしよう! わたしも不運に遭わないように注意する」

「直央のは、注意でどうにかなるものじゃなさそうだけど」

「うっ……せいぜい譲くんを巻きこまないようにするよ」


 普段なら、不運は自分だけのこととして諦めもつく。けれど、ザ・巻きこまれ男の譲くんがいるとなると話は別。巻きこんでパーティーを台無しにしてしまったら、目も当てられない。


「頼むわ、切実に」

「だよね」


 目指すレストランは公園の隅にあるらしい。芝生広場の脇の遊歩道を歩きつつ、左右を見渡す。公園内には何軒かカフェやレストランがある。チャペルや花屋まであるので、パーティーどころか結婚式もできそうだ。

 今は春休みに入った時期でもあり、家族連れもちらほら見る。さすがに夜六時前なので、どの家族も帰るところという雰囲気だけれど。


「で、そっちはその後どうなの」

「ん? あー……ほんとに付き合ってたのかな、っていうくらいなんもないよ。あはは、あっけないもんだね」

「知らずに二股かけられたままよりいいんじゃない」

「あれ、なんかこの前より優しくない? この前はもっと意地が悪かったのに」


 ぶっきらぼうな言いかただけど、前と違って棘がない。てっきりまたディスられるかと思った。譲くんを見あげると、決まり悪そうな表情で頭を下げられた。


「あれは……悪かった。八つ当たりみたいなもんだった」

「あー、巻きこまれたんだしね。そうなってもおかしくないか」


 なんだ、そういうことか。やけに突っかかってきたから、頭の軽い女だと思われたんだろうなと思っていた。


「あ、あれかな? かれんさんがパーティー用に押さえたっていうレストラン」


 譲くんはなにか言いたそうにしたけれど、わたしはすっきりしてレストランを指さす。譲くんも口をつぐんだ。

 遊歩道の右手に、いかにもファンタジックな雰囲気漂うレストランが現れる。樹齢が千年くらいあってもふしぎではない大木が枝葉を広げた下に、隠れ家のような佇まいのレストランだ。ナチュラルテイストは、かれんさんの好みらしい。

 オープンテラスもあり、パーティーが予定されている五月の初めなら、外で食べるのも気持ちがよさそう。かれんさんは、最近できたばかりのこのレストランで、プロポーズされたのだと少女のように頬を染めていた。

 幹事を引き受けたからには、まず会場の下見と打ち合わせが必要だ。

 ということで、わたしたちはレストラン側から対応可能と言われた平日の今日、会社上がりにお邪魔することにしたのだった。譲くんも本社での打ち合わせがあったので、ちょうどよかった。


「幹事ってなにやるのかわかんねー……面倒くさい……」


 怠そうにした譲くんに忍び笑いをして、わたしはレストランの扉を開けた。


「いらっしゃいま……イケメン発見……! いいところにいらっしゃいました! そちらのかた! すみませんお願いです助けてください……っ」


 にこやかに出迎えたスタッフが、譲くんの顔を見るなりその左手をがっしりとつかんだ。

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