蜜柑に刃を突き立てる

碧宮かなた

八朔院編

序章

緋桃の追憶

 あわく色づいた桃の花がわらい、空気が日の光をはらんでいるようなあたたかな陽気の日のことだった。

 あの日は、さる御方の屋敷で庭師として働いている父さんに、俺はくっついて行っていた。


 最初のうちは、手際よく草木を整えていく父さんの手をじっとみていた。何かのじゅつを使ったのでは、と疑うほどに早く、けれど丁寧なその仕事ぶりに見惚れていた。植物を観賞する良さなど俺には分からないが、それでも父さんが整えた庭の花たちは一等美しく目に映った。

 しかし、俺はそれにすぐ飽きてしまった。代わり映えのしない単調な作業は、おさなごの興味を引き続けるには力不足だった。

 あらゆる箇所を直しながらなんとか住んでいる俺の家とは違い、そこら中が埃一つ許さないほどに清められた大きな屋敷へと、興味は移っていた。花に囲まれた邸宅は俺にとって夢の世界だった。この綺麗な屋敷の中を自由に歩きまわる想像をして、胸をおどらせた。


 俺はちょうど父さんが切り落とした桃の枝を拾い上げ、頭上に掲げた。枝の先には小さな花が付いていて、薄い花弁が光を浴び、青空を透かして輝いていた。花から少し目線をずらすと、美麗な庭と屋敷が広がっていた。

 いつだったか街で見かけた絵巻物の中の世界がそこにあった。

 ちょろちょろ動き回らず傍にいろ、という父の言い付けは、とうに頭から抜けていた。足は自然と動き出した。

 桃の花を目印に、と考えるとくすぐったい気持ちになった。この美しい場所を自分の物に出来たような、未知の世界を手中に収めていっているような、冒険でもしているような心地だった。


 俺がこの屋敷の蜜柑の木を見つけた時だった。

 厳重に柵に囲われているその木を眺めている姫君に目を奪われた。


 ——美しい。


 ただ、その言葉しか出てこなかった。

 肩の辺りで切り揃えられた、絹糸を思わせる緑の黒髪が風の動きに合わせてさらりと揺れ、珠のようにすべやかな肌は白く、頬のところだけあわく染まっている。眉は柳のように形がよく、水分をよく含んだ黒曜石のような瞳は甘く垂れ、分厚いまつげで彩られている。小ぶりな鼻は筋が通っていて、桜色に染まった薄い唇が緩く弧を描いている。

 姫君は濃萌黄こきもえぎの単の上にだんだん色を薄くしていった紅梅色こうばいしょくの衣を重ね、あかい袴をまとっていた。

 ふいに、姫君が俺の方を向いた。

 天女のような姫君と急に目が合って、ごくりと唾を飲みこんだ。


「あら、見慣れない顔ね。どなた?」


 ころりと鈴を転がしたような声で姫君はそう俺に話しかけた。姫君はゆるやかな動きで袴を捌き、一歩ずつ近づいてきた。

 何か話さなければ、と分かっていながらも俺は水面に浮かんでいる魚のように口をぱくぱくとさせることしか出来なかった。そんな俺に姫君は歩みを止め、困ったように眉尻を下げた。その彼女の表情に焦った俺は何を思ったか、手に持っていた桃の枝を少女に差し出した。差し出してから、はたと気がついた。

 これは、失礼にあたるのではないか、と。

 俺は俯き、口をきつく結んだ。

 今差しだしている枝は剪定で切り落とされたものだ。いくらこの屋敷の木から出たものだとしても、姫君に渡すものではない。それに、うす汚い小僧が高貴な姫君に何かを差し上げる、という構図がまずよろしくない。


 つうと冷や汗が俺の背中を伝っていった。震える手で枝を握りしめ、気を紛らわせるように花を見つめた。

 と、白魚のような指が視界に入った。縦長の形の良い爪が乗っている傷一つ無い指が、持っている枝に触れた。

 弾かれたように俺は顔を上げた。視界いっぱいに姫君の美しいかんばせが映って、心臓が大きく跳ねた。

 姫君は頬を緩ませて小さく口を開いた。


「わたくしに、くださるの?」


 姫君のその問いかけに勢いよく頷いた。俺の反応に姫君は目を丸めながら、そうっと枝を受け取った。


「ありがとう」


 姫君はそう言って桃の花に頰を寄せ、ふわりと顔を綻ばせた。


 ——この方をお護りしたい。


 身分不相応にもそう思ったのはその時だった。

 具体的にどう、というのはなかった。ただ、漠然と胸の中にその想いは浮かんだ。無手っ法な思いであったが、まるで最初から定められていたことわりかのように俺の中にそれはすとんと落ちた。


 ぶしつけに姫君を見つめ続けていると、照れたような彼女と目が合った。泡を食って謝ろうと口を開こうとした時、遠くの方から「姫さまぁ」という女房の声が聞こえた。

 姫君は肩を大きく震わせ、苦い笑みを浮かべた。


「あらやだ、もう気づかれたのね……あ、お花。本当にありがとう。わたくしは、これで失礼するわ」


 ぽかんと口を間抜けに開けている俺には気がついていないような様子で、姫君は着物の裾を摑み、どこかへ走っていってしまった。


「結局、話せなかった……」


 嵐のように過ぎ去っていた幻のような出来事にしばらく惚けていると、鈍い痛みが頭に走った。頭を両手で押さえて涙目で上を見上げると、目をつり上げた父さんがいた。


「お前は何をやっているんだ! まったく、ろくなことをしないな、お前は。あれだけ言いつけたのに!」


 殴られた頭と父さんの怒鳴り声が響く耳は痛かったが、俺の心はその日中ふわふわとあの人に囚われていた。

 あか い桃の花が視界の隅で、緩く揺れていた。

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