とんぼの夢

@u___ron

第1話


例えばあなたが遠く太平洋上に浮かぶ島に生まれたとして、どうしてあなたがその島に生まれたかを知ることはできない。

私は日本、中でも近畿に生まれたが、気がついた時には母と、勝手に押入れのものを食い漁るネズミ、そこらへんを我が物顔で歩き回るいろいろな虫、風呂の天井から降ってくるナメクジなどと暮らしていた。

田舎だったかというと、そうでもない。JRの駅があったし、最寄りの数駅先には新幹線も停まる。そこから10駅も行けば半分くらいは、東京でも聞く有名な地名を冠している。ただ我が家は当時でも珍しい市営の住宅地の一角で、母以外に家賃を払う人間がいなかっただけだ。


その家に暮らしていた頃の記憶はそう多くないが、とんぼの夢を見たのは今でも覚えている。

前後も定かでないながら、日も射さない森の中だった。そこに立つ私はおそらく等身大で、木の幹の、たとえば樹皮の目の細かさや高さなどに違和感を持つことはなかった。

とんぼの目のひとつが、私の頭くらいあった。それが両側にきちんとついているものだから、たぶんあのとんぼは、頭だけで私の頭の2つと半分くらいあっただろう。相応に身体も、羽も大きかった。当時は急に部屋の隅から現れる虫にいちいち慄いていた私だったが、とんぼに対して恐怖はなかった。

そして、とんぼは何かを話した。何を言ったか覚えていない。けれどそれを聞いた瞬間、私は泣きじゃくるほどに安心し、「あぁこれは私の父だ」と思った。


父について、母は語らなかった。聞けば返ってくるのは罵倒だったから、聞かなくなった。ただ死んだのだということは何度も言われたし、その死が彼の行いの悪さゆえで、だからこそ弔いに行く墓もないのだと。

小学校では、「あいつの父親は女作って蒸発しただけで、死んでなんかない」と同級生に言われた。真偽を確かめようにも、その頃には母に父の話をするのをやめていた。

家には、家賃を払わない人間が増えていたからだ。

これもまた前後が記憶にないのだが、父と弟が発生した。その「父」は騒がしい枯れ枝のような人間で、「弟」はたしか私の生まれた病院で同じように生まれたはずだ。「父」と母の子だと聞いている。「弟」が家に増えた頃の、やわらかくてあたたかいにおいと、容赦なく私の髪を掴んだり物を投げたりするものだから、母にバレないよう逃げ出しては泣いていたのを覚えている。が、その頃に枯れ枝の方の父がいたかは覚えていない。


いつのことだか忘れたが、その後に引越しをした。新しい家には枯れ枝も弟もいた。家の真裏が墓だったが、虫やなめくじを見ることは減ったし、ネズミもたぶん、いなくなった。家賃を払うのは変わらず母だけだったが。


母と枯れ枝は仲が悪かった。枯れ枝が酒を飲んでくると母は必ず怒った。私は母の怒りを受け止めつつ、枯れ枝に「心配させないの」と言う日々だった。そのような位置にいたから、母と私の2人になると母は枯れ枝の悪口を言ったし、逆も然り。後に分かったが、弟はクッションにならずに済んでいたようだ。


20歳の夏だったか。家出をした。

その頃には弟も私より背は高く身体が丈夫になっていたから、最悪のことになっても彼に手を出されることはあるまいと思った。

バイト帰りの電車の中で、最寄り駅。立てなかった。そのまま行けるところまで行ってやろうと思い、本州の西の端まで行った。そこらへんのファミレスでものを食べ、ネットカフェのリクライニングチェアの上で膝を抱えて眠った。私は身長が低いから、少々背もたれを倒してやれば家のベッドより快適におさまることができた。

夜中に母といくらかのメッセージをやりとりして、翌日に帰った。


私がすんなり帰宅したことに油断したのだろう。

母はリビングでくつろぎながら、言った。

「子供なんて親の都合のいいように育てるオモチャ」


それからバイトを増やして、夜勤もして、家にいて人が起きている間は極力寝るようにした。みんなが寝静まってから酒を浴びるように飲んで、また寝た。3時間ほどでラム酒の瓶を空にしていたのは、人が起きる頃まで証拠を残しておく気にならなかったからだ。

幸い、近所に長距離トラックが休むような広いコンビニがあったので、飲み終えたら田んぼのあぜ道を通って瓶を捨てた。


私はほとんど誰ともコミュニケーションを取らなくなっていたが、実は、家を出るまでの半年の間に母に「家を出たい」と言ってみたことがある。

「本当に家を出たいのなら、準備を済ませてから言いにくるものだ。お前は口だけだ」

母はそう言ったので、私は二度と帰らないと決めた真冬の夜行バスの中で「もう帰りません」とLINEを送った。


その後、母が私の捜索願を出した。

ばかみたいだと思いながら転居先の近くの警察署に行って、ことの次第を話し、「取り下げさせてもらえないか」と頼んだ。それから、再提出されたという話は聞かない。


母との連絡は、なぜか私の誕生日に届くメッセージに「ありがとうございます」と返すのだけが残っていた。それも去年あたりに届かなくなったので、諦めがついたものと思われる。

弟とは、一度会った。彼は健やかに育っているようであったので、二度と会うまいと思った。第一に、彼はきちんと母と喧嘩をしているようだったから。喧嘩ができるなら、私がその種になる可能性がある。第二に、彼の語る母はまるで別人のようだったから。彼にできたガールフレンドとの関係を心配するさまは確かに私のよく知る過剰さであったけれど、それでも随分人らしく心配を表現するようになったものだと感じた。私で懲りたのであれば良いと思うし、私の母のことを教えてやるほど、私は母を憎んでいない。第三に、弟は私との血縁関係すら知らなかったから。変わったようだけれども、結局母は、話したくないことを話さないままなんだろう。なら、やっぱり私の知ることが弟と母の関係を悪化させる恐れがある。

枯れ枝は、まだ父のようだった。母と2人で旅行をしているという話も聞いた。しかしどうやら、私と弟の間に、私も弟も知らない中子がいるらしい。


私は「帰る家がない」と冗談をいうが、仔細はこの通りである。二度と帰らないと言ったから、帰らない。二度と帰らない方が、あの家も私もきっと幸せだから、帰らない。

死ぬ前に、もう一度だけでいい。

とんぼの夢を見たい。

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