第89話

 「っ!!」

 

 小屋から出たノルトールは文字通りに絶句した。とっさに言葉がでなかったのだ。

 だがそこは弱小とはいえ商人であり、なんとか気持ちを持ち直して口を開く。

 

 「これはもしや……風呂……ですか?」

 「温泉という……ま、風呂の一種だな」

 

 続いてタオル一枚で出てきたバルドゥルに、ノルトールがなんとか絞り出すように質問する。

 地方でならともかく、王都では風呂といえばぜいたく品ではあるが、さりとてまるで見ないという程のものでもない。だがこんな湯の湧く泉など、さすがにノルトールは見たことがなかった。

 

 「っ! ふぅぅぅ……」

 

 言われるままに体の汚れを流し、そして湯に入ると再びノルトールは驚愕し、その後は驚愕も戸惑いも全て溶けるように消え、後には心地よさだけが残る。

 

 「いいもんだろ? 騎士団の若いのがタヌキを散歩させてる時に見つけたらしいんだが……、いつの間にかこんなものができていてなぁ。これはすごいぞってことになって管理小屋やら囲いやらを作ってこうして町の皆の憩いの場にしてる」

 「タヌキ……? いつの間にか……?」

 

 ノルトールは聞かされた説明に知らない言葉や驚くような内容があって再び戸惑う。しかしそれ以上に気になることがあった。

 

 「有志で管理と言っていましたよね。それに町の方だけで利用されていると……」

 「ああ、そうだ。お前さんが疲れているようだったからな、そういう時はコレに限る!」

 

 バルドゥルはよそ者であるノルトールを特別に誘ってくれた理由を説明したが、ノルトールが引っ掛かったのはそこではなかった。

 

 「これはすごいものですよ! 国中を回って商売をしている私も見たことがないものです!」

 「ははっ、商人らしさが戻ってきたな。儲けを出せるはずってことだろ? だが元よりセヴィは観光に旅人がくるような場所でもないし、何より商売や他領のことにも詳しいような専属の管理人なんぞそう都合よくおらんからなぁ……おや?」

 

 話の流れから、バルドゥルがわざとらしく眉を跳ね上げてノルトールをたまたま見つけたような仕草をする。こういう話の流れに持っていきたかったという様子だった。

 とはいえ話半分。王都に店を持つノルトールが田舎領のセヴィまで移住してくるとも思ってはいないようだった。だがバルドゥルはノルトールが王都の商人とは知っていても、その商店の経営状況までは知っているはずもない。

 

 「やります、やらせてください! すぐに荷物をまとめて両親も連れてきますので、ここの管理人にならせてください!」

 「お、おう……」

 

 勢いのある承諾宣言をするノルトールに、バルドゥルがのけぞって頷く。

 半ば勢いで決まった温泉の管理人だったが、王都に戻った後で言葉通りにすぐセヴィへと移住してきたノルトールが“番頭”としてここを盛り上げていくことになるのだった。

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