002 ただ椅子を温める

 いったい何なんだ、この状況は。


 いくら美少女だからといって、別に彼女の要請を素直に聞き入れる必要はないはずだ。


 ここは、

 この場所は、

 誰もが大声で語り合うことができる、

 公共の、

 自由な酒場<かささぎ亭>だ!


 そう思うのだが、やはり面と向かって抗議するのも気が引ける。

 ラースはとりあえず機をうかがうように自分のジョッキを指差して、それを飲んで良いかを無言で訊ねてみた。


 睨まれるかと思ったが、予想に反して彼女は笑顔で「どうぞ」と囁いた。

 ラースは会釈で応えて、エール酒を一口飲む。

「良ければ貴方も笑ってくれませんか? そうね、付き合いはじめの恋人同士みたいな感じというものを知っていますか?」


 変な日本語だな、と思ったがそれは口にせず、彼女の要望にしたがって微笑んでみる。

 引きつけを起こしたカエルのように、自分の口元が痙攣しているのがわかる。

 はたしてこれを笑顔と呼んでいいのだろうか? という笑顔だと思った。


「それが笑顔ですか? 私の認識とはズレがあるようですが」

「……おおきなお世話です」


 そっちの要望に応えてやっているのに、なんて言い草だ。

 馬鹿馬鹿しくなって笑顔をやめる。

 そのとき店のドアが開き、それに連動してドアに吊るされている小さな呼び鈴の音が店内に優しく鳴り響く。


 誰か知り合いが来て助けてくれないものかと、ラースは引きつった頬を擦りながらドアの方を見やる。


 入ってきたのは見慣れた友人たちではなく、光沢のある青銅色の、見慣れない甲冑を着込んだ騎士だった。


 見たことのない装備だな、とラースは思った。

 特別なクエストか何かで手に入るのだろうか。それとも見かけだけのアセット品か……。


 その青銀の騎士は、店内の入口付近で立ち止まり、誰かを探すように首をゆっくりと動かしていた。その後ろから、さらに同じ青銀のよろいを着込んだ騎士が店に入ってくる。


 ……ペアで装備しているということは、ある程度の数がある装備だな。少なくともスーパー・レアSRってほどではなさそうだ。


 珍しい装備について、目の前に座っている彼女――バーナデットにも教えてあげようと向き直ると、彼女の表情は硬く強張っていた。


 どうかした? という風に覗き込むラース。


 それに気付いたバーナデットはふるふると首を振り、また笑顔を作り直すと、目配せでラースにも同じことをするよう促してきた。


 ラースは精一杯の抵抗に、肩を竦めてみせる。


 どういうんだろう? この子とあの騎士たちとの間で、なにかトラブルでも起きているのだろうか?


 ラースは盗み見るように、今店内に入ってきた騎士たちを観察してみる。

 おそらく材質はそのまま青銀ブルーミスリルであろう。頭部はフルフェイスのかぶと――アーメット――を被っているせいで、表情はまったくわからない。


 とは言え、これまでに見たことがないデザインではあるものの、その風体に怪しいところは何もない。


 このゲームの世界において完全武装の鎧姿なんてものは、どちらかと言えば定番のスタイルである。その証拠に、店内の客は誰ひとりとして彼らに関心を持たなかった。


 せいぜい店に入ってきたときに、自分の知り合いかどうかを確認するために数人が振り向いた程度である。


 店のテーブル席に座っているプレイヤーたちは、仲間同士だけで会話ができるプライベート・モードで話しているグループも多い。そういった連中は、そもそもどこの誰がこの店にやってくるのかなんてことすら、興味がない。


 だがラースにとっては、いきなり目の前に美少女が座り込み、何も喋るなと釘を刺され、訝しんでいる間に見知らぬ甲冑姿の連中が来た途端、その美少女が顔を強張らせて身じろぎひとつしないで固まっているのを見れば、それが無関係なことではないというくらいの察しはつく。


 二人の青銀の騎士が歩くたび、その甲冑がカチャカチャと無機質で無遠慮な音を鳴り響かせる。


 不穏な騎士と美少女神官。

 なんともファンタジーな組み合わせだ、とラースは思った。


 アーメットを被っているせいで、騎士たちが正確にどこを向いているのか分からない。なので、ラースは不審な動きにならない程度にさり気なく店内に目を走らせる。

 そして客がひっきりなしに出入りする店のドア越しに外も注視してみる。


 一瞬だけだが、店内にいる青銀の騎士と同じ風体のアバターがさらに一体、外にいるのが確認できた。


 もしかしたらもっといるのかもしれないが、それ以上の確認はできなかった。


 それにしても……と、ラースは眉根を寄せて訝しむ。


 冷静にじっくり観察していると、青銀の騎士たちの挙動は、明らかにおかしいところがある。


 なんだ? なにを見ている?


 なにかを探しているような動きではあるが、彼らはテーブルに座る人々の顔を見るために視線を下げるような動作をしない。どちらかといえば、少し上ぐらいの宙空を眺めるように顔を少しだけ上げている。


 顔を確認しているわけじゃない……とすると……。


 トントン。


 指先でテーブルを叩く音。その音にハッとして、ラースは彼女に視線を戻す。

 彼女の笑顔は眉毛の部分だけ怒りで痙攣している。


 しかめっ面しないで笑ってくれませんか?


 あの眉毛の痙攣はきっとそう言っているに違いない。


 ラースが頑張って笑顔を作ろうと奮闘していると、そこに板金鎧プレートメイルの擦れる音が近づいてくる。

 青銀の騎士がひとり、こちらのテーブルの前までやってきた。


 ふいに、彼女の手がラースの手を優しく握りしめる。


 驚いて彼女をまじまじと見つめると、照れたように視線を逸らす。

 ――が、すぐに思い直したのか笑顔を作り直してラースへ向き直る。


 ラースは、今彼女が作っている偽物の笑顔より、刹那に見せた照れくさそうな顔の方がよっぽど可愛いと思った。


 もしこれが……と、ラースは思う。もしこれが、なんのいわくも疑念もない本物のデートだったとして、はたして俺は彼女に応えて、まともに笑顔で見つめ返すことができるのだろうか?


 彼女の手が震えていた。ラースはそっと彼女の手を包み込むように握り返した。


 青銀の騎士は、しばらくラース達の周囲をいったりきたりしていた。彼らが何を探そうとしているのかはわからない。おそらくは彼女――バーナデットに用事があるのだろうが、目の前を通り過ぎても、こちらになんらかのアクションをしてくることはなかった。


 どれくらいの時間が経っただろう。数分、あるいは数秒。一瞬のことのようでもあり、いつまでも続く隠れん坊のようでもあった。


 相変わらず、店内の客は楽しげに、思い思いの会話を楽しんでいる。


 店内で注文ができる飲み物も、料理も、すべては仮想空間の擬似的なものである。それらはすべて『フォース・ギア』と呼ばれるヘッドマウントディスプレイHMDと拡張操作用パワーグローブによって体感可能となっている。脳と筋電位に、ある種の『錯覚』を生じさせる電磁パルスが放出され、その勘違いさせる電磁パルスのおかげで、プレイヤーは味わいや質感を感じ取ることができるのだ。


 ラースは自分が握っている彼女の手の温かさを『錯覚』として感じ取っている。

 おそらく自分の体温も、相手には伝わっているだろう。


 空腹も喉の乾きも本質的には満たされないが、この世界にいる限り満足感を得ることはできる。しかし、現実の体が極端に衰弱したり、脱水症状が現れたりすると、セーフティ・プログラムが作動してゲームは強制的に中断される。

 どれほど居心地の良い快適な世界だったとしても、飲まず食わずで続けられないようになっている。これは法律で定められた企業側の責任として、ユーザーの体調管理が義務付けられているからだ。


 青銀の騎士は、さらに店内を何度か周回するように歩き回っていた。

 しかし、さすがに何組かの客がその不審な動きに気付いて、気味の悪い顔で騎士たちを睨みはじめていた。


 とうとう、観念したように青銀の騎士はひとりずつ、ゆっくりとした足取りで店を出ていった。


 店内は再び陽気な喧騒に包まれる。


 ラースは、念のため入口のドアを見張り続けた。他の客によってドアが開閉するたびに外側を確認するが、自分の席から見る限り、どうやら外で待ち伏せしている様子はなさそうだった。


 そこまで確信を得て、ようやく安堵の吐息を漏らす。


「あの……」と彼女が言った。「痛いんですけど……手」

「え? あっ! ご、ごめん」

 彼女の震える手を、安心させるために握り返したはずなのに、いつの間にか自分の方が緊張してがっしり鷲掴みにしていた。

 ラースは慌てて手を引っ込める。


 バーナデットは軽く手を擦っただけで、大して気にしている様子ではなかった。

「だ、大丈夫?」

「問題ありません」と彼女は言った。「……攻撃じゃなければ、痛覚システムが作動するということも理解できましたし」

「……? なんのこと?」

「ごめんなさい。独り言です」


 そう言って微笑む彼女の笑顔は、たぶん本当の笑みなんだろう。


 その可愛さに、思わずラースのほうが照れてしまい、目を逸らしてしまった。


「それよりも、お礼を言わないといけないですね」

 彼女はそう言うと、背筋を伸ばして姿勢を正した。

「いや、別にお礼なんて……」

「ありがとうございました」とバーナデットは続ける。「いきなり変なお願いをして、それを何も言わずに聞き入れてくれたことに感謝します」

 深々と頭を下げる。


「……ワケは、聞かないほうがいいんだろうね」とラースは肩をすくめる。

「そうですね」とバーナデットは頭を上げて言った。「理由は聞かないほうがいいと思います。それがアナタにとって最良の選択です」


 困ったような、寂しいような、そんな彼女の苦笑。


 どんなワケなのかわからない。もしかしたらゲーム内だけの話ではないのかもしれない。


 それでも、とラースは思った。

「もし……もし、何か力になれるようなことがあったら、遠慮なく相談してくれて構わないよ。大概は、この店のこの席でウダウダしているだけだから」


 柄にもないことを言っている。トラブルとは無縁に過ごしたい。波風が立たない平穏な日常こそが幸せだと信じてやまない自分が、何に首を突っ込もうとしているのかすら分からない事態に対して、助け舟を出している。


 いや違う。こいつは単なる社交辞令だ。

 ラースはそう自分に言い聞かせる。

 彼女だってまさか本気で自分に助けを求めようなんて思っていないさ。お互いプロフィール・ウィンドウで名前は知ることができるけど、面と向かって自己紹介の挨拶すらしていないんだ。


「ありがとうございます」と彼女はもう一度軽くお辞儀をした。「それではお言葉に甘えて、ひとつだけお願いしてもいいですか?」


 ひとつ? ああ、それくらいならいいじゃないか。何か知らないが、せっかく知り合ったんだ。なにかひとつくらい手助けできるなら、それで終わりにすればいい。


「構わないよ」とラースは言った。「こう見えて、このゲームはそこそこやり込んでいるんだ。分からないことがあったら……」


 バーナデットはラースの言葉が終わる前に席を立ち、何も言わずに彼に抱きついた。


 え? ……ええっ! な、な、なっ! ええっ?


 どれくらいの時間抱きつかれていたのだろう。ちゃんと最初から数えておけばよかった、とラースは意味のないことを考えた。


 彼女の柔らかさ、温かさ、ほのかに漂ってくる甘い果実のような香り。この香りは何と言うのだろう。あとでミアに聞いてみよう。いや、しかし、香りってどうやって説明すればいいんだろう……。


 とつぜんのことにラースの頭はまったく関係のないことを次から次へと考えはじめる。混乱する思考を落ち着かせるために脳細胞が勝手に動いているような感覚だった。


 動転しっぱなしの思考回路は、ついに最後までまともに動こうとはしてくれなかった。


「これでいいわ。ありがとう」

 音もなくバーナデットは離れた。

 呆気にとられて言葉すら出ないラースに構わず、彼女は周囲を見渡す。すると、後方を見たまま動きが止まる。

 ラースは彼女の挙動につられて、同じ方へ視線を向ける。


 そこにはクエストから戻ってきたヨハンが、驚愕の表情のまま固まっていた。

 しかし、バーナデットはそんなヨハンには関心を示すことなく、ラースへ向き直った。

「それでは、さようなら」

 そう言って足早に店を出て行ってしまった。


 あまりに唐突なことに、ラースもまた黙って見送ることしかできなかった。

 ヨハンは金魚のように口をパクパクさせながら、やっとのことで声を絞り出し、ラースを指差した。

「な……なに? 今のなに? ラース君、きみは今、超絶美少女と思いっきり抱き合っていなかったかい?」


「そんなに驚くなよヨハン君」と調子を合わせるラース。「ほら、俺だって驚きで手が震えているんだ」

 そう言って掲げたジョッキが小刻みに振動している。


 ヨハンは滑り込むように、さっきまでバーナデットが座っていた席へ着く。

「いったい何が起きた? ……いや、そもそも、どこであんな美少女と出会ったんだ? 俺はほんの数分クエストへ行っていただけだよな? 知らないうちに時空の狭間に迷い込んで『ラースに恋人が存在しているパラレル・ワールド』に異世界転生しちゃったわけじゃないんだよな?」


「恋人だったら、あんなにさっさと出ていかないし、ヨハンにもちゃんと紹介しているよ」

 ようやく震えが止まった手で、エール酒の残りを飲み干した。仮想世界だというのに喉がカラカラに乾いている。


 『錯覚』ではあるものの、喉に液体を流し込む感覚は乾きを和らげてくれる。

「とりあえずパラレル・ワールドじゃないことがわかって安心したよ」とヨハンが続ける。「それにしたって、どこでどうしたらあんな可愛い女神神官様と出会えるんだ?」


「それは、わりと簡単だった」とラースは何でもなさそうに言った。「ここで数時間、ただ椅子を温めるだけでいい」

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