身内が一番の敵なのでは

 「……何だか危ない匂いがする」


 遊馬さんのアパートに到着したと同時にナルが引っ込み、代わりにクロが顔を出す。

 ハイライトが失われた瞳で迫って来て、逃げ場を失くした俺は壁際に追い詰められてしまう。


 「危ない匂いは現在進行形でしてるんだが……」


 フロントマンを務めていたホノさんが、疲労により戦線離脱を余儀なくされたため、ここ数日メインの人格はクロが担っている。


 学校では完璧な擬態をして振る舞っているので、今のところホノさん不在の影響は表立っていない。クロ自身、以前のように男女ともに見境なく愛想を振りまくことは無くなったのも有難く、意図して振りまいたテンプテーションの効果は薄れつつあった。

 しかし、周囲の目の有無によって覗かせる素の性格は、やはり心臓に悪いのも事実。

 二人きりになった途端、生き生きとして迫ってくるのは勘弁して貰いたい。幾度となく本人に伝えているが、暖簾に腕押し、馬耳東風。己の行動を省みる気配は微塵も感じられない。


 「――鳴雷と何かあったの?」


 いきなりの芯を食った問い掛けに、答えに窮してしまう。

 結果として、予め準備したテンプレ染みた返答で俺はお茶を濁す。


 「……別に何もないよ。初めての雷神との顔合わせは未だに緊張するし、ナルが最後だって考えたら気張るなって方が無理だろ」

 「ナル……か。随分と仲良くなったみたいだね? 体に甘い匂いまで付けて……二人で仲良くデートでもしてきたのかな?」


 壁ドンされたまま身動きの取れない俺の胸や首筋に、クロは顔を埋めて浅く呼吸を繰り返す。

 身体的接触に加え、鼻孔を刺激する彼女の匂いが容赦なく襲い掛かってくる。

 力任せに振り払えない雷神のフィジカルの強靭さと俺の貧相貧弱さ、と表現してみたはいいものの、実際は強引な手段に訴えかけて、クロに逆ギレされたらお手上げなのでビビり散らかしているだけである。


 性格面だけで言えば一番の適任はツチちゃん辺りなのだが、他の雷神たちを御する必要もあるので、必然的に選択肢は限られてきてしまう。

 クロだって、俺に対する異常な執着がなければ良い子だし。

 ……まあ、その一点が重すぎるのは事実だ。


 「初日の行動に関しては、クロも一緒だっただろ? 別にナルが特別って訳じゃないからな?」


 クロとの初顔合わせの際も、挨拶を済ませてあだ名呼びをねだられたり、ご希望通りに校内を隅々まで案内したり、喫茶店で身も心も温まる時間を過ごしたではないか。

 ……後から振り返ってみれば、彼女の壮大な仕込みだったのは置いておくとしよう。


 「…………」

 「く、クロ?」


 反応がない。

 俺の首筋に顔を埋めたまま、黙り込んでいる彼女に恐怖を感じてしまう。

 校内でのひと悶着を経験している身からすると、クロの沈黙ほど恐怖心を煽る動作はない。他の雷神に比べて表面化していない地雷が群を抜いて多いのだ。会話の一つ一つに気を配らなければいけないのは、ネゴシエーションを済ませた今でも変わりはない。

 肩を揺さぶりつつ呼びかけを繰り返し、ようやくクロが身を離す。


 「……ごめん、定期的に八雲の匂いを肺に入れておかないと禁断症状が」

 「耳馴染みのない疾患だからアドバイスのしようもない」

 「古来から数多の犠牲者を出してきた難病――いわゆる恋煩い」

 「あっ……はい」


 瞬きもせずに至近距離で俺を凝視するクロの瞳。視線に物理的な力があれば、きっと今頃穴だらけになっているはずだ。

 怖い怖い怖い。

 かといって、俺は女の子でもなければヒロインでもない。壁ドンされた状態からロマンスに発展する可能性は皆無。現状を打破すべく室内に視線を巡らせていると、家主がデカめの独り言を漏らしつつ、ベランダから帰還するところだった。


 「寒い寒い……真冬ともなると二本目を吸うには根性が――おや?」


 壁際に追い詰められて半泣きになっている俺、目を爛々と輝かせて迫るクロ。

 客観的に見ても穏やかな状況ではないのは明白である。


 「……煙草が切れたからコンビニに行ってくるよ、ごゆっくり」


 菩薩を思わせる微笑みを貼り付けたまま、平坦な声で告げた遊馬さん。

 音のない足運びで外に逃走しかける彼女を、俺は悲痛な声で静止する。


 「ちょ、遊馬さん!? 緊急事態だって一目で分るでしょう!?」

 「今更な日常茶飯事じゃないか、むしろ今まで一線を越えないで踏みとどまっている八雲くんの精神力に感服するよ」

 「むつみに顔向け出来ない真似はしませんよ」

 「これまたアツいことを言う」


 偽りのない本音ではあったが、遊馬さんはニヤニヤと面白がっている。人の気も知らないで随分と楽しそうだ。


 「……むぅ」


 クロは内心穏やかではない様子で、頬を膨らませながらバチバチと帯電していた。


 「おやおや、黒雷がご立腹じゃないか。これは優しく慰めてあげないとヘソを曲げられてしまうんじゃないかな?」


 感情の一切こもっていない棒演技で、遊馬さんがとんでもないセリフを吐く。

 実妹の体とはいえ中身は別人、煽ってくる思考回路が全く理解できない。この人、正気か?


 「聞いた八雲? 遊馬さんが良いこと言ったよ? 私はとても傷ついたから、優しく抱きしめて愛を囁いてくれないと協力出来ない気がする。間違いない」


 まんまと乗せられたクロの要求と誘惑を何とか振り切り、話題を逸らして夕飯に漕ぎつけた時には、時刻は夜の九時を回っていた。


 騒がしくも賑やかな交流。

 以前のクロであれば、決して同じように過ごすことなど出来なかったはずだ。

 お互い本音をぶつけ合えたからこそ交わせる言葉が、思いがある。

 それは、人間も雷神も同じなのだろう。

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