そのころりゆうの河底にんでおった妖怪ばけものの総数およそ一万三千、なかで、かればかり心弱きはなかった。かれに言わせると、自分は今までに九人のそうりよった罰で、それら九人のしやれこうべが自分のくび周囲まわりについて離れないのだそうだが、他の妖怪ばけものらには誰にもそんなしやれこうべは見えなかった。「見えない。それはおまえの気の迷いだ」と言うと、かれは信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の妖怪ばけものらは互いに言合うた。「あいつは、そうりよどころか、ろくに人間さえったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。ふなを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らはかれあだして、どくげんじようと呼んだ。かれが常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔にさいなまれ、心の中ではんすうされるそのかなしい自己しやくが、ついひとり言となってれるがゆえである。遠方から見ると小さなあわかれの口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼がかすかな声でつぶやいているのである。「おれはばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺はてん使だ」とか。

 当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かのと信じられておった。悟浄がかつててんじようかいりようしよう殿でんけんれん大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての妖怪ばけものの中でかれ一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。身体からだが同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問をかれらすと、妖怪ばけものどもは「また、始まった」といってわらうのである。あるものはちようろうするように、あるものはれんびんの面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。


 事実、かれは病気だった。

 いつのころから、また、何がもとでこんな病気になったか、じようはそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このようないとわしいものが、周囲に重々しくたちめておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分がいとわしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日もほらあなこもって、食をらず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。不意に立上がってその辺を歩きまわり、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。それさえ渠にはわからなんだ。ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今までまとまった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。

 医者でもあり・せんせいでもあり・とうしやでもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。いんな病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人まではみじめな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間をうようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・しようしんしようめいの・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜおれは俺を俺と思うのか? ほかの者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪いちようこうじゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分でなおすよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」

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