錯綜する故郷

かつエッグ

錯綜する故郷

ひらタン)


 久しぶりに、帰郷した。

 実家を継いだ弟が、家を売るという。

 正確には、もう売ったということだったが。

 私が小学生の頃まで暮らしていた、木造平屋建ての小さな家である。

 父が独立して小売店を始めることになり、私たち一家は、住居付きの店舗に引っ越した。

 住まなくなったそれまでの家は、身内の者に貸したりしていたのだが、その身内も自分の家を建てて出て行き、もう長いこと空き家であった。住むものもなく時が経過し、あちこちガタが来て、床も沈み、壁紙も剥がれ、建て替えに等しいくらいのリフォームを行わなければ、もう住めそうになく、弟は、土地ごと家を売ってしまうことにしたのだった。

 その知らせがとどき、私は、この機会にいちど見ておこうと、長く帰ってなかった郷里の町を訪れたのだ。

 ローカル線の駅は、記憶にあった木造からコンクリ製の無骨な建物にかわり、駅員の常駐もない、無人駅となっていた。

 私は、切符を、改札(といってもただの出入り口でしかない)の、切符入れの箱に放りこんで、駅を出た。

 学校も冬休みのこの時期、駅に人の気配はない。

 さて。

 弟のところに——。

 いや、その前に、あの古い家の方にいってみよう。

 幸い、駅から歩いても、そんなに離れているわけではない。

 気温は低いが、天気は良い。行けるだろう。

 私は、コートの襟を立て、かつて住んでいた、裏通りの小さな家に向かって歩き出した。


 天神通、という市道がある。

 名前は立派だが、繁華街などではなく、ごく普通の道路の両側に、一般の家にまじって、製茶屋、米屋、電気屋などが並んでいた。今はそれらの店も、ほとんど廃業してしまい、ほぼすべて普通の民家にかわっているが、家の造りや、看板の外されたあとに、かつての名残があった。

 私は懐かしみながら、その通りを歩いていった。

 と、そんな中に見つけたのは「平澤工務店」という、ペンキも褪せた木の看板であった。

 大きなガラス戸が通りに面したその古びた工務店は、他の店が閉じていく中、まだ営業を続けているらしかった。

 ああ、これ、ひらタンの家じゃないか!

 私の中で、あのころの記憶が蘇る。

 幼稚園、小学校と、同級生だったその少年を、私はひらタンと呼び、よくいっしょに遊んだものだ。その平澤工務店にも、なんども遊びに行った。

 いろいろな機材や道具が並んだ店をぬけて、裏に入ると、中庭があって、その奥にようやくひらたんの部屋があった。お母さんが出してくれたスイカの種を、中庭に飛ばして遊んだ。ひらタンの綺麗なお姉さんが、スイカの種を間違って呑みこむと、腹の中で発芽し、耳から芽が出てくると言って、幼稚園児の私は恐怖におののいた。笑い話だ。

 私はひらタンの家の前を通りすぎる。

 通りすぎながら、ちらっとのぞきこむと、店の奥、作業台のところに、人影があった。

 白髪の、眼鏡をかけた丸顔の老人が、うつむいて、何か作業をしていた。

 どきり、と胸が鳴った。

 ひらタン、あれはひらタンなのか?

 もどって話しかければはっきりするかもしれないが、何十年も言葉を交わしていない。そもそも、あれがひらタンである確証はない。

 ためらわれ、私は、とりあえず、ひらタンのことはそのままにして、先に進んだのだ。


 ここだ。

 裏通りに入り、かつての家があった場所にきた。

 そのころの隣人、通称あだちの爺の家がみえた。偏屈なじいさんで、私はよく怒られた。

 あだちの爺の家は、完全な廃屋になり、屋根が傾いていた。

 それはそうだ。あれから何年経っている。

 横の小道から、自分たちの家の前に——。

 えっ?

 私は、ぽかんとしてしまった。

 なにも、ない。

 私たちの住んだ家があった場所は、完全な更地になっていた。

 家は取り壊され、整地され、砂利が敷かれていた。

 こうなったのは最近のことのようだ。

 整地の跡も新しい。雑草もない。

 たぶん、弟が家を売る条件に、更地にすること、というのがあったのだろう。

 それで弟はさっさと作業をすすめたのだろう。

 それはしかたのないことだ。私にどうこう言える話ではない。

 ただ、喪失感はあった。

 私は、その砂利の上に立ち、ぐるりとみまわす。

 こんなに狭かったのか、私たちが住んでいた家は?

 そういえば、ひらタンがうちに遊びに来たこともあったな。

 かわいそうなひらタン。

 あんなことがなければ。

 ひらタンは、あの夏に、赤痢にかかってしまったのだ。

 いまどき、赤痢などと言うと笑われそうだが、当時は深刻だった。

 ひらタンは、感染症病棟に隔離され、友だちと会うこともできず、そして。

 私は衝撃とともに、思い出した。

 担任の教師が、沈痛な顔で、教室のみんなに告げたあの日。


「みなさんの仲間の、平澤くんが、亡くなりました——」


 空の光がまぶしい。



かっちん)


 平澤正は、作業台で、塩ビパイプのねじを切っていた。

 すでに工務店の運営は、息子に任せているが、作業はまだまだやれる。

 老眼のため細かいところが見にくいのはつらいが。

 しかし、高校を出てからずっとやってきたこの仕事は習い性になっていて、なにかしないと落ち着かない。

 天神通に面したガラス戸から射しこむ日射しが明るい。

 その日射しをなにかがさえぎった。

 しかし、このタイミングで手は離せない。

 ねじを切り終わって顔を上げると、ガラス戸の向こうを歩き去っていく人影があった。

 自分といくらも年の変わらない、初老の男。

 近所の人ではない。

 なにしろ、生まれてからずっとこの歳になるまで、地元を離れたことはない。

 同じこの場所に住んでいるのだから、住人はみな顔見知りだ。

 だから、近隣住民ではないのはすぐわかった。

 だが——なにかひっかかる。

 なにかあの男にはみおぼえがあって。

 平澤は、遠ざかるその男を目で追った。

 小柄な男だ。

 あの、なんとなく不器用そうな、片方だけ肩を上げ下げする歩き方。

 見ていると、男がたちどまり、顔を横に向けた。

 懐かしそうに、通りの、もう閉じてしまった店をみている。

 あれは、夏目酒店の前だ。

 夏目酒店も、十年前には閉店してしまったが、あの店にはずいぶんお世話になったな。

 それよりも。

 その男の横顔に、平澤は驚きの声をあげた。


「かっちん? まさかね」


 かっちん。

 野沢克之という名のその同級生は、幼稚園から小学校まで同じ学校で、気が合って、いっしょに遊んだものだ。

 この家に遊びに来たこともある。

 ああ、そういえば、かっちんと俺とスイカを食べていたら、姉貴が、スイカの種を呑みこむと鼻から芽が出てくるとかいって脅して、かっちん真っ青な顔になっていたな。あれは悪かった。

 中学以降は、二人に接点があまりなくて、俺とは疎遠になってしまったが。

 かっちんは隣町の進学校に通い、めでたく東京の大学に進学して、向こうで就職したと聞いた。

 最後にかっちんの噂をきいたのは、あれは——


 あれは!


 平澤の身体がこわばる。

 同窓会で、のぶちが教えてくれた、高速道路で事故にまきこまれ、亡くなったという話ではなかったか。

 ずいぶん前のことだが。

 では、あれはかっちんではないよな。

 そんなはずはない。まさかね。

 訝る平澤の視線の向こうで、その男の影は、裏通りにはいって消えていった。

 平澤は、また塩ビパイプに顔を落とし、そしてねじを切る。

 これまで、ずっとやってきたように。

 ガラス戸から、まぶしい光がさす。

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