15、懐かしい色

「時雨……!」


 小さな身体を抱き寄せる。

 子ども特有の高い体温が、触れている場所から伝わってきた。


――生きている。


 ほっと胸を撫で下ろした東雲とは対照的に、腕の中の時雨は目を白黒させていた。

 

「ど、どうして、ここに」


 来なくていいと告げたはずだ、と可愛げもないことを宣う少女に、東雲は優しく目を細めた。


「俺が、お前に会いたかったからだ」


 もう一度、お前に会いたかった。


 時雨の身体を抱きしめながら、眼前の大男がそう震える声で囁いた。

 ぎゅう、と痛いくらいの力で抱きしめられて、時雨は漸くこれが現実であることを理解する。

 鼻の奥が痛い。

 煙草と硝煙、それから少しだけ混じる汗の匂いが、時雨を包み込んだ。


――時は彼らが再開する、少し前に遡る。


 東雲たちは、累の雇い主が時雨の叔父であることを突き止めた。

 彼が所有している青蘭の屋敷に侵入を果たすと、小炎が突拍子もなく叫び声を上げたのだ。


「侵入者ダ!!!」


 自ら侵入しておいて、これ見よがしに叫ぶ阿呆など居ない。

 これに「げ」と顔を顰めたのは東雲だけで、戦闘が好きな――累のお陰で気が立っていたとも言う――銀と小炎の二人は爛々と目を輝かせながら、敵の登場を待ち侘びた。

 程なくしてわらわらとまるで羽虫のように姿を見せた男たちに、銀と小炎が猛威を振るった。

 文字通りちぎっては投げ、を繰り返す彼らの後ろを、東雲が時折援護しながら追いかける。


「ったく、お前らはもう少し大人しく家探し出来ねえのか……」

「やだなぁ~。君のために、派手にしてあげたんじゃないか」

「そうだぜ、旦那。こんだけドンパチ騒げば、嬢ちゃんにも聞こえるだろ」


 迎えに来たぜってな、と銀が茶目っけたっぷりに片目を瞑った。

 

「余計なお世話だっつの」


 そう毒吐いた東雲の顔は笑っている。

 それに気を良くした銀が、彼の胸にトンと拳を預けた。


「退路は確保しといてやるから、大船に乗ったつもりで嬢ちゃんを探してきな」

「……泥舟の間違いじゃねえのか?」

「っか~~! 今のは黙って頷く場面だろうが!」

「いやいや、僕もドンに賛成。間違っても君は大船じゃないよ、良くて渡し船だ」

「ひでえ!」


 騒がしくなった二人のやり取りに、東雲は口元を綻ばせた。

 こんなときでも、普段と変わらぬ彼らの姿に、緊張と焦りがすーっと音を立てて引いていく。


「そんなに言うなら、任せたぜ」


 お返しだと言わんばかりに、東雲が銀の胸を拳で叩く。


「任せとけって」

「そこはかとなく、不安だな……」

「まあ、僕も一緒だし、心配することないヨ」


 それが一番の不安要素だ、なんてことは口が裂けても言えない。

 東雲はその場を二人に預けると、時雨を探して屋敷の中を走り始めるのだった。


 この界隈じゃ名を知らぬ者が居ない『一匹狼』の後ろ姿を見送った銀の目が弧を描く。


「何、笑ってんのサ」


 不気味だと言外に告げられて、銀は背を預ける――小炎はかなり嫌がっていたが――相手に目配せした。


「いや、何。東雲の旦那も随分丸くなったな、と思ってよ」

「……まあ、そうだね」


 小炎も何か思うところがあったのか、一瞬だけ言葉を詰まらせる。


「ドンはあれで、根っこは昔から変わってないからなァ」


 どこか懐かしむように呟いた声に、銀は口を開けて呆けた。

 今、背中を預けていることが酷く惜しい。

 きっと自分に向けられることはない、優しい目をしていたに違いない。

 滅多に見られないそれを見逃したことに銀が舌打ちを溢したのと、『それ』が姿を見せたのは同時だった。


――ドガンッ!!


 味方を無視して天井と一緒に降ってきた『それ』に、銀が眉間に皺を寄せる。


「出やがったな……!」


 青白く、血の気ない肌をした男が一人、不気味に身体を揺らしていた。

 背後に立つ小炎の空気が揺らいだのが嫌でも分かる。

 小炎を気遣うよりも先に、銀は飛び出した。

 この男は自分の獲物だと言わんばかりに。


「しつけーんだよ!」


 それ、君が言う?

 小炎は思い浮かんだ言葉を飲み込むと、風通りが良くなった背中側を振り返った。

 銀色が二つ。

 長刀と拳が打つかりあう。

 

 累の放った言葉が、頭の端でずっと引っ掛かっていた。


『あら? お気付きでない? この男、あの村――』


 あの村、と言われて心当たりがあるのは一つだけだ。

 かつて心を許した只一人の相手。

 白が暮らしていた銀細工の里。

 この辺りでは珍しい銀を細工できる数少ない里で、そこに暮らす青年と小炎は恋に落ちた。


――眼前で銀と戦う不気味な男、白と。


 里の民は、銀の髪に銀の瞳を持つ。

 己の身体から銀を生成できる不思議な力を秘めていた。

 練度の高い職人は確か、刀や武器も錬成できたはずだ。

 

 銀が振るう長刀に、小炎は視線が釘付けになった。

 迫り来る敵を斬り伏せながら、その白刃が鈍く光る様に、記憶を辿る。


『紅姉!』


 白の弟が、初めて造った武器を見せにきたときのことが脳裏を掠めた。

『見てみて』と嬉しそうに駆け寄ってきた幼い少年と、眼前で白と戦う青年の横顔が、不自然に重なる。


「…………藤」


 ぽつり、と溢されたそれに、銀の動きが止まった。

 驚愕に目を見開いてこちらを見る彼に、小炎が目を細める。


「今、何て、」

「……さあ? 忘れちゃった」

「小炎」

「ちょっと、敵に背を向ける気?」


 鋭い舌打ちと共に銀が白に再度襲いかかった。

 単純な男だ、と小炎が喉を逸らして笑えば、恨めしそうな声で「小炎~~」と名前を紡がれる。


「君の獲物、僕が貰ってもいいんだヨ」

「……だめだ」

「なら、さっさと倒しておいで」


 そしたら、さっきの続きを話してあげてもいい。


 緋色の目が意地悪く細められる。

 いつもと違う温度が込められたその視線に射抜かれて、銀は自身が昂るのを感じた。

 改めて、白――兄の屍と向き合った銀は柄を握る手に力を込めた。


 銀の冷たい殺気を感じ取ったのか、白の動きが止まる。

 その隙に、銀は再び小炎に声を掛けた。


「……僵屍ってのは厄介だな。斬れば血も出るが、致命傷になる前に再生されちまう」

「動きを止めるには核を叩くか、首を斬るしかないヨ。だけど、妙だな」

「何が?」

「再生が早すぎる」

「ってことは、もしかして」


 僵屍は術者が近くに居るほど、その強さを発揮する。

 小炎と銀は、無言で背中合わせになると、互いに意識を集中させた。

 術を使うということは妖力を用いているということ。

 気配に敏感な鬼の小炎と悪きものを退ける蓮を宿した銀が、術者の居場所を察するのに、そう時間は掛からなかった。


「そこか……!!」


 銀の白刃が唸りを上げる。

 近くにあった書棚が、斬撃に耐えかねて真っ二つに割れた。


「そう焦らずとも、俺は逃げんよ」


 不敵な笑みを携えて出てきた痩躰の男に、銀は我が目を疑った。


「……劉の兄貴」

「久しぶりだなァ、銀。親父は元気にしてるかい?」


 かつて、白蜂会に所属していた男――劉蓬リュウホウが黒縁の眼鏡を親指で押し上げる。


「まさか、アンタが僵屍の術者だとか、笑えない冗談を吐いたりしないよな?」


 劉蓬は狐のように眼を細めるだけだ。

 それが答えだった。


「……ふざけんなよッ! アンタ、自分が何をしているのか分かってんのか!」

「親父は俺のやり方を否定した。だから俺は、腕一本を対価に組を抜けたんだ。――生者を兵として扱わず、死者を兵として扱う。そうすれば、誰も血を流さずに済む。そんな簡単なことがどうして分からない」

「死者にだって生者だった頃があるんだ。それを人形のように扱って……。人としてやっちゃあいけないことの区別まで分からなくなったのか!」


 銀の言葉に劉蓬は薄ら笑いを浮かべた。

 

「やはり、お前とは分かり合えんな。兄貴と一緒に葬っておくべきだったか……」

「何?」

「まだ、気付かないのか? お前の里を襲ったのは、あの女と俺だぞ」


 厭らしく三日月を描いた目に、銀の唇が戦慄いた。

 この男が、兄を。

 あまりの衝撃に固まってしまった銀の背後で、火柱が立つ。


「…………会いたかったよ、劉蓬ッ!!」


 緋色が、銀の眼前で揺らめいた。

 獰猛な炎を宿した金色が目抜き穴からでも分かるほど、爛々と不気味な光を放つ。


「お前も居たとは驚きだ。小炎、いや紅炎と呼ぶべきか?」

「黙れ!! その名は白にしか呼ぶことを許していないっ!!」


 かつてないほど、怒り狂った小炎が衝動のままに短槍を振るった。

 劉蓬の青みがかった毛先を、槍が掠める。

 肌の上に赤い線が彩ると、それまで穏やかな表情を浮かべていた劉蓬の気配が変わった。


「相変わらず、可愛げのない女だ。お前が俺の女になると言っていれば、白だけでも生かしてやったものを」

「……黙れ」

「だが、それも昔の話だ。今のお前には毛ほども興味がない。大人しく、昔の男の手にかかって死ね」


 劉蓬が静かに両手を合わせる。

 術者の印を受け取った白が、その拳を小炎に向けて放った。

 

――避けられない!


 息を呑む一瞬で、距離を詰められて小炎は堪らず槍を前に突き出していた。

 少しでも衝撃が吸収できれば御の字だ。

 最悪、新調したばかりの面が割れるのも仕方がない。

 そう腹を括っていたというのに。

 待てど暮らせど、予想していた衝撃が来なくて、小炎は眉間に皺を寄せた。


 眼前に広がる真っ白なスーツと、銀色の髪に「え」と間抜けな声が零れ落ちる。


「その手で、二度と小炎に触れるな」


 今まで聞いたこともないような低い声で、銀が獣のように唸った。

 ぎくり、と身体を強張らせたのは小炎だけではない。

 意識を持たないはずの白は勿論、その術者である劉蓬も銀の気迫に目を見開いている。


「……ずっと、兄貴を好きでいてくれてありがとう」

「な、に」

「でも、もう良いんだ小炎」

「銀」

「終わりにしよう」


 アンタが悲しむ姿はもう見たくない。

 銀色の青年はそれだけ告げると、自身の刃を振り翳した。


――ヒュン。


 まるで、意思を持った生き物のような動きで、白刃が宙を舞う。

 白の僵屍が、人間離れした瞬発力でそれを躱すも、やがて、彼の足首を銀の刃が捉えた。

 柔らかい果物を切り取るように、両の足首が吹っ飛ぶ。


「何をしている! こんな奴ら、さっさと倒せ!」


 劉蓬が、白の身体を再生しようと印を結んだ。

 それを見た銀が、己の内に宿る女神の名を囁く。


「淡」

『ええ』


 言葉は何もいらなかった。

 淡がふう、と軽く息を吐き出す。

 室内であるというのに、どこからともなく雷雲が生じ、屋敷の中に充満していく。

 

「……ごめん。取り乱して。アイツは僕に任せて」


 銀の背から、小炎が身を乗り出した。

 その穂先が向かう人物に、銀が笑みを深める。


「男の趣味が悪いのは、変わらねえな」

「煩い」

「……じゃ、とっとと片付けちまうか」

「うん」


 何の合図も無しに、二人は同時に飛び出した。

 銀が指を鳴らす。

 すると、淡の展開した雷雲から稲妻が迸った。

 ドンドン、とまるで太鼓を打ち鳴らすように等間隔で落ちる稲妻に、劉蓬が悲鳴を上げながら逃げ惑う。


「アンタには聞きたいことが山ほどあるんだ。――楽に死ねると思うなよ」


 薄く、極限まで研ぎ澄まされた、布のように繊細な造りの刃が劉蓬の身体に巻きついた。

 少しでも力を込めれば、四肢が捩じ切れる。

 きゅっとそれを自覚させるように軽く力を込めただけで、彼は泡を吐いて気絶した。


「張り合いがねえなぁ」

『あら、そう思うなら、どうしてあちらに行かなかったの?』

「……これが最後の逢瀬になるんだ。どうせ殺されるなら、俺だったら好いた女の手に掛かりたいね」

『人間って難儀な生き物なのねぇ』

「お前にだけは言われたくないっての」


 銀はそう言って苦笑を溢すと、背後でぶつかり合う金属音に目を向けた。

 小炎の短槍が、白に猛威を振るっている。

 その横顔は、鬼面に隠れて見えない。

 けれど、先ほど目抜き穴越しに合った目に迷いはなかった。


「ごめんね、白。今、楽にしてあげるから……!」


 小炎の短槍が白の心臓を捉える。

 獲ったと誰もがそう思った。


――白の腕が、小炎の腹を突き刺すまでは。


「小炎!!」


 叫ぶと同時に走り出していた。

 絡め取っていたままの劉蓬を地面に叩きつけ、小炎に手を伸ばすより先に、白刃を振るう。

 華奢な身体を貫いていた腕が吹っ飛んだのを横目に、白の横っ面に拳を叩き込んだ。


「いい加減にしやがれってんだ!! このクソ兄貴!! 自分が好いていた女の顔も忘れちまったのかよ!!!」


 淀んだ闇を思わせる底の見えない真っ黒な眼が、銀を捉える。


『と、う?』

「……皮肉なもんだな。俺の顔は覚えているのに、紅姉の顔は忘れちまったのか?」


 小炎が息を飲む音が、背中越しに伝わってくる。

 銀はそれに気付いていない振りをして、男の首筋に刃を添えた。


「まあ、でも当然か? アンタは俺たちを助けに来てくれた紅姉を見て『醜い』って言っていたものな。その所為で、この人がどんなに苦しんでいたと思う? アンタの一言で、この人は顔を隠して生きる羽目になった。こんなに綺麗で優しい人を、アンタは自分の身可愛さに詰って捨てたんだ」


 銀は言葉を吐き出す度に、兄の肌に刃を押し進めた。

 生身の人間とは違い、僵屍の肉を断っても出血は少ない。

 痛覚も麻痺させられているのか、人間であれば死んでいてもおかしくはない位置まで刃を入れているのに、白の表情は変わらなかった。


「俺が解放してやる。だから、先に地獄で待っていてくれ」


 銀を見つめる白の目に、もう淀みは無かった。

 懐かしい星屑を散りばめたような銀色が、己をじっと見つめるのに、銀は歯を食いしばって、ゆっくりと息を吐き出す。


「それから――紅炎は俺が幸せにする」


 白は何も言わなかった。

 グッと銀が力を籠めれば、白の首はあっけなく宙を舞う。その表情は、憑き物が取れたように穏やかで、かつての優しかった兄の姿を思わせた。


「ぎ、ん……っ」


 愛しい人が自分を呼ぶ。

 その声は僅かに震えていた。

 何だ、と答えを返すよりも早く、鈍い衝撃が銀を襲う。


「銀」


 小炎の華奢な腕が銀の背に回っていた。 


「んえっ!?」

「……いつから?」

「二年前。春海で、アンタの顔を見たときかな?」


 銀の骨張った手が、小炎に付けられた唇の傷跡を辿る。


「あの戦い方には見覚えがあった。それに、アンタのあかは一度見たら絶対に忘れられない」


 柔く髪を掴まれたかと思うと、自然に口付けられて、小炎は瞑目した。

 すっかり元の銀色に戻っていた髪が、銀に触れられている場所から熱が広がるように赤く色付く。


「……返事は別に要らないけどさ、聞いてくれるかい?」

「な、にを、」

「好きだ」


 まじまじと見つめられながらそんなことを誰かに言われたのは、初めてで――。

 小炎は自分の顔が赤くなるのが嫌でも分かった。


「な、」

「うし! すっきりした! とっとと片付けて、旦那たちと合流しようぜ!」

「ハア!?」

「どうした? 何か変なこと言ったか?」


 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべてそんなことを宣う男に、小炎の頬がピクリと引き攣った。


「何でもないヨ!!」

「ふ~ん?」


 そんな小炎の姿を見て、銀が至極楽しそうに目を細める。 

 今度は銀が小炎の腕を捕まえる番だった。


「なに、」


 今まで紫色のレンズを一枚隔ててしか見たことのなかった、透き通った銀の瞳が、眼前に惜しみなく晒された。


「ドキドキした?」

「してない。それより、ドンたちと合流するんでしょ? ならさっさと――」


 ちゅ。

 唇に柔らかい何かが押し当てられる。

 至近距離で感じる他人の体温に小炎が奇声を上げたのと時を同じくして、囚われの少女は無事に救出されたのだった。

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