第3章『天泣』
14、呪言
もういいよ、と言った声は彼にきちんと届いただろうか。
冷たい――とても生きている人間とは思えない体温の姉に抱かれながら、時雨は唇を噛み締めた。
青白い肌の姉は、先ほどから何度話しかけても「うん」や「そうね」と意味のない言葉を繰り返しているだけだ。
「お姉ちゃん」
「そうね」
「……何で、生きているの」
「うん」
優しかった笑顔の姉はもういない。
どこかで生きているかもしれないと抱いた淡い希望は儚くも打ち砕かれてしまった。
最後に見た東雲の表情は、幼子のように頼りなくて、見ているこちらの胸が何故か痛くなった。
「久しぶりの再会はどうだ?」
鉄格子が嵌められた扉越しに叔父が姿を見せる。
愉悦に染まった表情で口角を上げる彼に、時雨は吐き気がした。
「おじさん、」
「さぞ、嬉しいだろうな。お前が何より会いたがっていた『姉』だぞ」
「……どうして、こんなひどいこと、するの」
「酷い? 何がだ?」
「お姉ちゃんは、もう死んでるのに……。死んだ人を無理やり操るのなんて、かわいそうだよ」
「く、くくっ! 何が酷いものか! お前たち化け物を死んでも、有効活用してやっているだけだろ」
せいぜい、俺たちのために役に立て。
叔父は、そう吐き捨てると満足そうな顔をして去っていった。
その後ろ姿を睨みつけることしかできない自分に、時雨の眦から涙が溢れ出す。
冷たい体温の姉に抱きついても、生前のように優しく抱き返してはもらえなかった。
◇ ◇ ◇
――ドゴッ。
重い拳が東雲の頬を襲う。
鬼の面で隠されていても分かるほど、小炎の怒りは凄まじかった。
「どうして、手を離した!!」
「お、落ち着けって、小炎。猫の兄さんの傷にも響くだろ」
「煩いッ! 君は口出ししないで!」
東雲から小炎を遠ざけようと羽交い締めにする銀だったが、ただの人間が鬼と人の間の子に叶うはずもなく――。
華麗に裏拳を決められてしまった銀は、小炎を完全に抑えるには至らず、反対に地面へと伸びてしまった。
「答えなヨ! 東雲! どうして時雨の手を離したりしたんだ!」
小炎の言葉に、東雲は漸く身体を起こした。
殴られた頬が変形していないのは、小炎が僅かに残った理性で手心を加えてくれたからだろう。
「……悪い」
「謝る相手が違うだろ」
「…………」
「何があったのサ」
滅多に頭を下げることのない男が、絞り出すような声で謝罪の言を述べたことに、小炎は漸く溜飲を下げた。
直前まで話していた内容まで、洗いざらい吐き出した東雲に、小炎がこれでもか、と顔を顰める。
「なるほど、しーちゃんに拒絶されて、動揺したってワケ」
「…………っ」
「馬鹿だネェ」
小炎は鬼面を半分持ち上げると、少し尖った犬歯を見せて悪戯っ子のような顔で笑った。
「何を迷うことがあるって言うんだヨ。――側から見たら、君がどんなに時雨のことを大事にしてるか一目瞭然なのに」
不敵に瞬く金色の目に、東雲は面食らう。
そんなこと、今まで一度だって言われたことがなかった。
これ以上ないほど、自分に不釣り合いな言葉を寄越された衝撃に固まってしまった東雲の頭を小炎が乱雑に撫で回す。
そう言えば、外見が若い所為で時折忘れそうになるが、眼前に立つ鬼は自分よりも遥かに長い時を生きていた。
久方ぶりの年下扱いに、どこか面映い気持ちが東雲のささくれ立った心にじんわりと広がっていく。
「それで? いつまで、そうして呆けているつもり?」
さっさと助けに行くヨ、と小炎にしては随分と威力の低い手刀が、東雲の頭頂部を捉えた。
「ほら、起きな。君のことだ。どうせ、上手いこと裏で進めてたんだろ」
「…………以心伝心で、嬉しいぜ。そろそろ、俺のモンになる覚悟が決まったってことか?」
「ならないって何回言わせれば気が済むワケ。――冗談言っていい時と場合も分からないんなら、これで心臓突き刺してあげようか?」
利き手に短槍を握りながら、小炎が低い声で吐き捨てる。
鬼面を元に戻した小炎の表情は見えなかったが、面の下ではきっと銀を虜にする美しい(恐ろしい)笑みを浮かべていることだろう。
目抜き穴から覗く金色が弧を描いている様に、彼女の表情を想像した銀が喜色ばんだ。
「さっさと説明しなヨ。僕の気が長くないのは知ってるだろ」
「はいはいったく、情緒もクソもねえな」
「君にだけは言われたくない」
芝居掛かった仕草で大袈裟に肩を竦めると、銀は懐から一枚の紙を取り出した。
「ここにあの女を連れ帰った後すぐに、青蘭の一つ隣にある町へ女を送ってもらっていたんだ」
「いつの間に……」
ずっと和笑亭に滞在しているとばかり思っていた累を移送していたことに、東雲は瞑目した。
「万が一のことを考えて、先に移動させてもらった。『青蘭』の連中は手が早いことで有名だからな」
銀が苦々しい表情を浮かべたのに、東雲は下唇を噛んだ。
腕の中で冷えていく梅雨の姿が、脳裏を過ぎる。
同じ血族であるにも関わらず、梅雨や時雨のことをぞんざいに扱う彼らに腑が煮え返りそうな思いだった。
ふう、と短く息を吐き出す。
指先を掠めた感触が今でもはっきりと残っていた。
――待ってろ、時雨。
すぐに迎えに行ってやる。
そう決心した東雲の目に、もう迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
小炎の伯母である梅たちに別れを告げ、時雨を欠いた三人は青蘭の山向かいに位置する『梅鼠(メイシュ)』へと辿り着いた。
闇の繁華街として名高い青蘭の隣町であることが嘘のように長閑な田園風景の広がる梅鼠に、東雲と小炎が思わず口を開けて固まる。
ここでも、最新式の車は目立つようで、村の子どもたちがわらわらと近付いてくるのを、小炎が窓から身を乗り出す――こういうとき、彼女の鬼面はとても便利である――ことで何とか追い払うと、村の中腹に建てられた大きな屋敷の前に白服たちが並んでいるのが見えた。
「お疲れ様です、若頭!」
「よぉ。悪いな。おめーら」
「ご指示通り、女は地下牢に繋いであります」
「助かる」
部下の一人から鍵を預かり、銀は未だ呆けている東雲と小炎の背を押して屋敷の中へと入った。
昔ながらの趣ある造りの屋敷に、あからさまに不釣り合いな地下室への扉に、銀が先ほど預かった鍵を挿し込んだ。
――ギィイイ。
錆びた扉が嫌な音を立てる。
地下まで手入れが行き届いていないのか、それとも敢えて手入れされていないのか。
この場合は恐らく後者だろうな、と所々に赤黒い染みが飛び散っているのを見て、東雲と小炎は顔を顰めた。
出入り口は先ほどの扉一つだけ。
窓も何もない、閉鎖的な空間の奥に累は居た。
鉄格子に妖力を封じる札を貼られ、無力化された女の姿に小炎が「ハッ」と乾いた笑い声を漏らす。
嘲笑された側の累はと言えば、久方ぶりの来客の中に小炎を見つけて嬉しそうに目を細めている。
「あまり無粋な目を向けてくれるなよ。うっかり嫉妬して、首を落としちまいそうだ」
薄い紫色のレンズ越しに銀の目が弧を描いた。
殺気立つ長身の男を前に、累が肩を竦める。
「まあ、怖い。――小炎様、こんな男のどこが良いと言うのです?」
「誤解があるようだから、言っておくけれど、こいつに対して『良い』と思ったことなんて一度もないから」
「あら? お気付きでない? この男、あの村――」
何事かを告げようとした累の鼻先を、銀の刀が掠める。
ぷつり、と白い肌の上に赤い線が浮かぶのを見て、累は「こわやこわや」と笑いながら、両手を上げた。
「誰が許可なく話していいと言った。俺たちの質問にだけ答えろ」
「うふ。相変わらず、手が早いこと」
「次に無駄口を叩いたら、冗談抜きでその首を落とす」
白刃が物騒に光るのを見て、累が大人しく頷いた。
律儀に言うことを守る彼女の姿に、小炎が珍しく銀に感心を示す。
一人一歩下がってそれまでのやり取りを見守っていた東雲が、ここに来て漸く鉄格子の真ん前に立った。
「お前の後ろ盾は青蘭だな?」
「……ええ。それが何か?」
「俺たちと一緒に居た蓮宿のガキのことをチクったのはお前だろ」
東雲の言葉に、小炎と銀がハッと顔を見合わせる。
一体どこから仕組まれていたのか、東雲と小炎が春海を目指すことになったそもそもの発端は、星羅の誘拐事件と蓮宿の子どもたちを見つけたことだ。
あのとき、星羅と時雨を保護することに必死になっていた小炎は、周囲の警戒を怠っていた。
蜘蛛の能力を持つ累からすれば無防備な獲物を観察するのは、赤子の手を捻るより簡単だったはずだ。
「そうです、と言いたいところですが、私はあくまで自身の『商品』を受け取りに現地へ赴いたまで。そこに偶然、青蘭の縁者が居たことに誰が気付きましょう」
偶然知ったことを伝えただけだ、と宣う彼女に、全員の血が怒りで沸騰した。
もちろん、先に動いたのは、これまで我慢に我慢を重ねていた小炎である。
銀が刀を振るうより早く、何の悪びれもない累の利き腕を、音もなく斬り伏せた。
「ぐ、あああ!?」
妖力を扱えない累はただの人間と同じ。
それどころか、普段は妖力に頼り切っている彼女は、自己再生すらも容易く行えるために、身体の一部を欠損するという初めての事象に汚い叫び声を響かせた。
「こ、んなことをして、タダで済むと……!」
「もう一本の腕も惜しくないと見える。死にたくなければ、さっさとお前の雇い主の居場所を吐くんだな」
俺は小炎みたいに優しくないぞ、と東雲が累の眉間に照準を合わせながら、銃をチラつかせる。
地下牢に冷たい殺気が充満していく。
それが鉄格子越しの向こう側に立つ三人から発せられていることに、今更ながらに気付いて、累の額に冷や汗が滲んだ。
鉄格子の隙間を縫って、正確な斬撃を繰り出した銀や小炎はもちろんのこと、春海の上で見た東雲の射撃が脳裏を過ぎる。
彼女が自らの雇い主を売るのに、そう時間は掛からなかった。
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