8、鬼の宿命


 小炎の発作は日に日に酷くなる一方だった。

 いよいよ明日、小炎の伯母である梅が旅館に戻ってくる予定だったが、それよりも先に小炎が爆発してしまいそうな状態である。

 面によって鬼火を制御していた小炎にとって、面を外すということは即ち鬼の力を常時解放しているようなもので、普段は押さえ込んでいる殺戮衝動が剥き出しになっているのだ。

 ぜえはあ、と肩で息を切らす東雲と銀を尻目に、小炎は「ごめん」と珍しく素直に謝罪を溢した。


「こうなったら、最初から池に突っ込んどけ。その方が炎も調整できるんじゃねえのか」

「それいいかも。ちょっと池に誰も近付けないでネ」

「お、おい! 小炎! 冗談のつもりだったんだが……」

「それくらい、アイツも切羽詰まってるってことだろ。見ろよ、俺たちの惨状を、」


 一般人はもちろんのこと、和笑亭の面々に襲い掛かることがないよう、昼夜問わず小炎と戦闘を繰り返していた東雲と銀の有様は酷いものだった。

 赤く線を引いた生傷は痛々しく、着ている衣服もボロボロになってしまっている。

 唯一無事なのは、攻撃対象から外れている時雨だけだった。

 本能から時雨を攻撃してはならないと思っているのか、鬼化が始まっても、小炎は時雨にだけは手を上げなかった。

 そのおかげで毎回東雲たちが戦闘を行なっている間に、時雨が小炎に水をぶっかける役割を担っている。

 攻撃されないから、とは言え時雨の疲労も凄まじかった。

 何せ、昼夜問わず暴れる小炎に付き合っているのだ。

 やっと眠りにつけたと思っても、二時間後に叩き起こされるなんてこともザラだった。

 まるで生まれたばかりの赤ん坊の夜泣きを相手にしているような気分である。


「…………眠い」

「そうだな。眠いなあ」

「旦那と嬢ちゃんは少し休んできなよ。小炎のことは俺が見てるからさ」

「ん、悪いな」

「はいよ」


 銀がへらりと笑う。

 その横顔を眩しそうに見送って、東雲は今にも寝落ちてしまいそうな時雨を抱き上げ部屋へと戻った。



――落ち着く。


 水芭蕉に彩られた池の中で脱力しながら、小炎はぼうっと空を見上げた。


「へえ? 綺麗なもんだな」

「……何しにきたのサ」

「溺れてないか見にきてやったんだろ。可愛くねえな」

「僕に可愛げ(そんなもの)求められても困るんだケド」


 ふん、と鼻を鳴らした小炎に、銀が肩を竦ませる。

 池の畔に胡座を掻いて座ると、水の中に広がった小炎の白銀の髪に手を伸ばした。

 触れるより早く、小炎が動いた所為で、指先は水を掴むだけだ。


「何、」

「ちょっと触ってみたくなっただけだ」

「やめてよ、気持ち悪い」

「……そんな嫌がらなくてもいーだろ」


 年甲斐も無く拗ねたような口調が衝いて出てしまったことに、銀はぐっと奥歯を噛み締める。

 だが、小炎はそれに気付いた様子もなく、水の中へと更に深く身を沈めてしまった。

 完全に沈んだ彼の姿は水中だと輪郭が定まらず、ぼやけて見える。

 白銀になった髪だけが、水の中でも陽の光を吸収してきらきらと輝いていた。


「俺はよぉ、小炎」


 声が届かないことを承知で、銀は言葉を紡いだ。


「お前が俺のことを思い出さなくても、ずーっとアンタのことが好きだぜ」


 無造作に水中へと手を突っ込む。

 とても人肌とは思えない温度の腕をがしり、と捕まえて、無理やり引っ張り上げた。


「ちょっと……!!」


 何すんのサ、と喚く小炎の目は、いつかと同じ金色で。

 それを懐かしく思いながら、銀は無邪気に笑ってみせた。


「水も滴るってな感じに仕上がってるとこ悪ぃんだが、側から見ると完全に水死体なんだよなあ」

「なっ」

「一応、旅館なんだから、景観的に足だけ浸かるとか配慮した方がいいんじゃねえの?」

「…………正論だけど、君に言われるとなんかムカつく」


 指先から伝わってくる小炎の温度は、常人のそれを遥かに超えていた。

 宛ら、熱湯の中に手を突っ込んでいるような感覚だった。


「お前さん、熱くないのか?」

「熱いに決まってんでショ。僕の周りだけ湯気が出てるのが見えないワケ……」


 その言葉通り、小炎の身体が浸かっている部分だけ薄らと湯気が噴き出している。


「一家に一人、今のお前さんが居たら便利だろうな」

「どういう意味?」

「湯沸かし器を一台取り付けるのにいくら掛かるか知ってるか?」

「……誰が人力湯沸かし器だって?」

「はははっ」


 珍しく殺し合うこともなく穏やかな会話が続いていることに、銀は嬉しそうに破顔した。


「何がそんなに嬉しいんだか」

「……嬉しいよ」

「だから、何がって言って、」


 続きの言葉は紡げなかった。

 真剣な顔でこちらを見る銀の目に、言葉が喉の奥に落ちていってしまったのだ。


「お前とこんな風に話せる日が来ると思ってなかったからな」


 真っ直ぐに小炎を見たまま銀は恥ずかしげもなく、そう告げた。


「…………っ」


 鬼火の熱だけではない、別の何かが腹の底から這い上がってくる。

 ぐらり、と身体が傾ぐほどの衝動に、小炎は言葉を詰まらせた。


「ちかい」


 動揺のあまり、舌足らずな声が唇の隙間から呼吸と一緒に零れ落ちる。

 けれども、銀は小炎から離れようとはしなかった。

 自分の服が濡れるのも厭わずに、拳ひとつ分の距離を置いて小炎と向き合う。


「ちょ、っと」

「ん?」

「だから、近いって言って……」

「わざとだよって、言ったら?」

「なっ、」


 気不味くて逸らしていた視線を上げて、小炎は固まった。

 額に、銀の息が当たっている。

 次いで、角に何かが触れたのが分かった。


「……っあ、なに、して」

「頑張ったご褒美もらうくらい良いだろうが」

「はあ!?」

「何だ? もしかして、口にして欲しかったのか?」

「そんなワケないでしょ!!」

「はははっ! その割に、顔が真っ赤だぜ~?」

「~~~このっ!!!!」


 面のない小炎を見るのは楽しい。

 普段は拝むことのできない色んな表情を見せる彼に、銀はゆるりと目を細めた。

 今日を乗り切れば、小炎の暴走も収まる。

 誰もが一刻も早い梅の帰りを待ち望んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 銀が小炎の見張りを勤めている間、東雲と時雨は布団で横になっていた。

 だが、相次ぐ戦闘の影響か、昂った身体は眠ることを良しとはせず、東雲はすぐに目が覚めてしまった。


「まだ一時間も経ってねえのか……」


 自身の懐に潜ってすやすやと眠る時雨を眺めながら、東雲が大きな欠伸を零す。

 小炎がああなってから、人探しでもして時間を潰すかとは言ったものの、彼を抑えながらではなかなかそれも進んでいない。

 仕方なく、この旅館の若女将である柚月の手を借りて、怪しい『白頭巾の女』を探してもらっているが、目新しい情報を得ることは出来なかった。

 時雨を起こさないようにそっと身体を起こした東雲だったが、身動いだ気配に少女の瞼がぱちり、と開いてしまう。


「悪い。起こしたか?」

「……どこ行くの」

「あ~ちょっとな」

「ちょっとって?」

「だから、ちょっと……」

「?」


 便所に行こうとしただけだと言っても通じないときの顔をしている。

 どうしたもんか、と東雲が顔を顰めたのと、襖が勢い良く開いたのは同時だった。

 険しい顔をした黒猫が「宿し子は居るか!!」と飛び込んでくる。


「な、何だ? 何かあったのか」

「すぐに来てくれ! お前の力がいる!」

「え、ちょ、ちょっと待って……!」

「おい! 待てよ!」


 抗議の声を上げた東雲の腕の中から事態を把握できていない時雨を抱き上げると、夜雨は風のような速さで廊下を駆け抜けた。


「俺の妹が『輝石』の粉が入った酒を飲まされた!! すぐに浄化してくれ!!」


 連れられた部屋の中では夜雨にそっくりな女性が、青白い顔をして横たわっていた。


「……はあっ……げほっ……、飲んだって、いつだ?」

 

 息を切らしながら夜雨を追いかけてやってきた東雲が襖を支えに、夜雨へと問いかける。


「半刻ほど前になる。仕事終わりに顔を見せに来たんだ。そのときは変わった様子もなかったんだが、酒を飛ばすために水を飲んだ途端、苦しみ始めた」


 ひゅーひゅー、と苦しそうに漏らす息の音が、静まり返った部屋の中でやけに大きく響いた。

 黒い髪に、青白い表情。

 梅雨(あね)の遺体と、眼前に横たわる夜雨の妹の姿が重なる。


「……潮、」


 名前を呼ぶだけで精一杯だった。

 けれど、彼女にはそれだけで全て伝わる。


『良かった。飲んだ量は少ないみたいね』

「治せるか?」

『ええ、すぐにでも』


 そう言うと、時雨の手を介して潮は夜雨の妹の額に触れた。

 雨の匂いが部屋を満たす。

 水の球に包まれた輝石の欠片が、身体の中から弾き出される。

 潮はそれを手元に引き寄せた。

 こんな大きさになっても感じる嫌な気配に、思わず眉間に力が篭る。


『全部取り出したわよ』

「……もう、大丈夫なのか?」

『暫くすれば目を覚ますと思うわ』

「そうか」


 あからさまにホッとした様子の夜雨に、東雲は口元を綻ばせた。

 見た目と態度は怖いが、妹思いの一面があるらしい。

 良かったな、と声を掛けてやろうとして、未だに女性の側を離れようとしない時雨に違和感を抱く。


「時雨?」


 呼びかけるも返事はない。

 小さな身体は小刻みに震えていた。


「時雨、どうした」

「……お、お姉ちゃん、」

「!」


 夜雨を追いかけることに必死で、今初めて彼の妹の姿をはっきりと見た東雲は息を飲んだ。

 黒い髪に、血色の悪い顔。

 その姿は冷たくなった梅雨を彷彿とさせた。

 かた、と時雨の震えが伝染したかのように、東雲の指先に震えが走る。


「……大丈夫、大丈夫だ。この人は、助かった」

「で、でも、」

「時雨」


 東雲は唇を強く噛み締めた。

 今から紡ぐ言葉はきっと、この少女を酷く傷付ける。

 それを承知の上で、東雲は彼女を真っ直ぐに見据えた。


「その人は梅雨じゃない」

「……っ」

「梅雨は、もういないんだ」


 はらはら、と。

 幼気な少女の頬を流れ落ちる雫に、東雲はそっと手を伸ばす。

 たった一人の姉を失った少女の喪失感が如何程のものか、東雲には分からない。

 けれど、時雨に向けた言葉は全て自分に言い聞かせるためのものでもあった。


――梅雨はもうここにいないのだ、と。


 胸にぽっかりと空いた穴は、埋まることはない。

 抱きしめられるまま微動だにしない時雨の頭に鼻先を埋めながら、東雲は瞼を閉じた。


「本当にありがとうございました。貴方たちは命の恩人だわ」


 潮のおかげで危機を脱した夜雨の妹――夢雨(むう)は、それから半刻ほどで目を覚ました。

 兄とは似ても似つかない社交的な彼女に首を傾げたのは東雲だけではない。

 騒ぎを聞きつけてやってきた小炎と銀も、怪訝な顔をして夜雨と夢雨の間で視線を行ったり来たりしている。


「……何だ?」

「いや、あんまり似てないなと思って」


 じっと見ていたのが良くなかったらしい。

 威嚇するように紅の眼が東雲を射抜いた。


「顔なら、そっくりだろうが」


 そこは自負してるのか。

 うっかり口を衝いて出そうになった言葉を、咳払いで何とか誤魔化すと、東雲は上体を起こした夢雨に視線を戻した。


「病み上がりに申し訳ないんだが、この石が入った酒はどこで?」

「……確か、朧屋の姉さんが持って来てたような気がする」

「朧屋?」

「三味線の上手な芸妓さんが有名な見世です。だけど私、その石が入ったお酒は変な匂いがしたので飲まないようにしてたの」

「知らないうちに混ぜられたってことか……」


 小指の先ほどの大きさに砕かれた輝石は潮と淡の力で二重に密閉し、今は小瓶の中に入れられている。

 冬の朝空を彷彿とさせる色合いのそれを見ながら、小炎が「あのさ、」とか絞り出すように声を漏らした。


「朧屋ってことは、その芸妓『累』って名前だったりしない?」

「え、ええ。もしかして、お知り合いですか?」


 夢雨が是と堪えるのとほとんど同時に、小炎は襖を蹴り飛ばすようにして外へと飛び出した。

 

「小炎……!」


 時雨が追い縋るように彼の名前を紡ぐ。

 小炎の身体を陽炎が包み込む。

 真昼の青に反したそれは、触れれば消え去ってしまいそうな、そんなどうしようもない焦燥感を時雨に植え付けた。

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