引退したマル暴刑事、地下アイドルを推す

筋肉痛隊長

ふぁーすとこんたくと (1)

「――ライブやりまーす、お願いしまーす」


「カラオケ居酒屋いかがっすかぁ」


「ねぇねぇ、おじさん! わたしたちの知ってるお店でぇ、一緒に飲みませんかぁ?」


「騒がしい街だな、おい……」


 まだ陽も落ちきらない木曜夕方、地方都市の歓楽街。

 春の陽気に浮かれて、または深夜とはまた違った客層を狙って、もしくはただ気が早いだけの店が商売に精を出している。騒がしくて、臭くて、落ち着かない街だ。

 仕事で慣れ親しんだ街が、こんなにもよそよそしく感じるとは思わなかった。


 元・県警本部組織犯罪対策局課長代理、『仏の健さん』こと虎杖浜健造こじょうはま けんぞうは少し引きずる左脚を止める。やっぱり帰ろうかと思い始めていた。


 先月末で五体満足で定年退職したばかりだ。

 階級は警部、大卒にして出世と縁はなかったが、その分自由にやらせてもらった。

 一番長かったのは最後の部署だ。


 マル暴はどこの署でも「どっちがヤクザかわからない」と言われる程に強面が多い。

 健さんもガタイの良さと顔で選ばれた一人だ。身長178cm・体重70kg、禿げない代わりにゴワゴワした頭髪、放っておいても細い眉毛、厚ぼったいまぶたに鷲鼻、柔道耳。親子連れを睨めば親が泣く。


 一番の武勇伝は日本刀ポントウ持ってアパートに立てこもった『構成員』を一人で取り押さえたことだ。相手はクスリで錯乱していた。


 左脚が時々痛むのはその時の怪我のせいで、膝を刺し貫かれている。健さんが『マル暴の虎』と呼ばれるようになったのはそれからだった。

 元々学生時代に修めた柔道は三段、任官後に始めた剣道は六段。それが怪我で弱くなったはずなのに、ヤクザからは余計に恐れられた。


 そんな健さんが術科指導員のクチを断って無職になった途端、三回連続でキャッチに声を掛けられるとは。

 無職の役得と平日飲みに出たのは失敗だったか。


 ――まぁ、勤務明けはいつも飲んでたんだけどなぁ。


 ここ数年、酒もめっきり減った。退職から二週間ほど経ち、ようやく自分に言い訳してまで外へ出てきたのに。


 子供二人は独立し、妻は三年前病死した。郊外に買った家には誰もいない。そして趣味もない。

 今までは「趣味の時間がほしいから」と退職する若いのを、「家族のため」と休みを取る同僚を、どこか違う生き物だと思って見ていた。


 今なら「自分には仕事だけあればいい」など大間違いだったとわかる。趣味と違って仕事はいつか、必ず辞める時が来るのだ。


「――いいじゃん、どっか行こうよ。俺たちクルマで来てんだけどさぁ」


「ギャハハッ! まわしてやるぜ! まわしてやるぜ!」


「ごめんなさい、これからライブで――」


「ネットライブで見せつけてやるぜ!」


「君、声かわいいから絶対バズるよ。クルマあっちだから――」


 殺気立ったものを感じた健さんが目を向ける。ここは通りから外れていて店舗が少ないため、人目に付かない。繁華街のちょっとした真空地帯だ。


 見ればビラ配りの少女がチャラい風体の若い男三人から強引に迫られていた。うち二人は世紀末からコンニチワしたようにも見える。


 健さんは少女の服装を見て眉をひそめた。白を基調にした女子高の制服のような、しかし作り物を感じさせる衣装コスチューム。ある意味この街によく馴染む服だ。


 ――こんな場所で風俗のキャッチか。いくら取り締まっても湧いてきやがるな。


 この地域は『客引き禁止エリア』と市の条例で定められている。違反と知って、なお客引きを行う店は後ろ暗い店だと看板に書いているようなものだ。


 つまり健さんが街に入った時から感じていたイラ立ちの原因は、増えたキャッチだった。ここはつい先月まで健さんの――『俺の現場』だったのだ。

 小さな違反が増えるのは街が荒れる前兆、後を任せた後輩たちはそれを見逃していることになる。


 それにしても目に余る、と男たちの背後へ静かに近付く健さんは、一瞬足を止めた。

少女の顔立ちがここにいるはずのない人物の記憶とつながる。『その名』を呼びそうになるが思いとどまった。


 ――歳が合わないじゃねぇかよ、別人だ……。


 自分に言い聞かせる。過去からチクリとした胸の痛みが届いた。


 だが男の手が少女のスカートに伸びると――


「おい、免許証あるか? 酒飲んでるだろ」


「いてててっ、誰だ爺さん!?」


 健さんは自然な動きで男の腕を後ろにひねっていた。これだけで素人なら身動きできなくなる。呼吸も苦しくなってきただろう。身元を取ろうとしたのはただの癖だ。

 少女の持っていたビラがアスファルトに散らばる。


「「ヒッ……!?」」


 他の二人は健さんの見た目にビビって手を出す様子はない。興がそがれて引き下がるだろう、と健さんは手を離した。

 すると健さんの背後に黒のワンボックスカーが停まり、若い男が二人降りる。


「なんだ女一人かよ……足りん、まだまだ足りんぞぉ!」


「ベトベトになるまでまわしてやるぜ! ジイさんもまわしてやるぜ!」


 世紀末からさらに二人がコンニチワした。


 ――特殊警棒とスタンガン、催涙スプレーに粘着テープ……クルマに積んでやがったな? 常習犯じゃねぇか。


 行きずりの女の子を車に押し込むつもりだったのだろう、物騒なものも持っている。ビビっていた他の連中もニヤニヤと健さんとの距離を詰め始めた。


 健さんはつい癖でジャケットの内ポケットを探るが、そこに慣れ親しんだ感触はない。


 ――警察手帳おふだがあれば……なんて、いかんいかん……。


 自分は仕事と一緒に、何か大事なものをなくしたんじゃないか――そんな不安が健さんの胸をよぎった。

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