2. 背後の悪戯っ子

こんなに飲んだのはいつぶりだろう。

前後不覚とはまさにこのこと。

ふらつく頭と足をどうにか正して、あたしは夜の繁華街を歩いていく。

真夜中のこのあたりは昼間の騒がしさをすっかり忘れてしまったように静かだ。

すれ違う人だっていなければ、子猫一匹いやしない。

ぽつぽつと立つしゃれた意匠の街灯が、ただ自分の仕事だけを一心にこなすように、道路を照らすだけ。

あたしは酔った頭がぐらりと揺れるのを感じる。

全部あいつのせいだ。

突然いなくなった彼氏。

いや、もう彼氏なんかじゃない。真っ赤な他人。全くの部外者よ。

あいつ。大学の頃から付き合ってたのに。

急に大事な話がって呼び出すから何かと思えば。もう別れよう、なんて。

長い付き合いだけど、結婚する気がないんだろ、なんて。

ないわけないじゃん。結婚前提だわ。

どーせ向こうの職場で好きな子でもできたのだ。絶対そうだ。そう思えば、最近のよそよそしさも、急にそんなことを言い出したことも、あの変な強引さも納得できる。

全部あいつのせいだ。

と、そんなことを、先ほどまでとある女友達に延々と語っていたのだ。

彼女も大学時代からの付き合いで、愚痴の話し相手になってくれる良き友人だ。

突然泣きついたあたしに、訳を聞いた彼女が開口一番「ハァ?!サイッテーじゃん!」と発してくれたことであたしは相当救われた。それからあれよあれよと愚痴大会が始まり、

「今日は私がおごるから、どんどん飲んで忘れなさい!」という彼女の言葉に甘えて、浴びるように酒を呑んだのだ。

ビールジョッキを3杯おかわり、カクテル、サワー、水割りと、日本酒にも手を出して、店を出る頃には今までにないほどふらふらの状態になっていた。

ぐらぐらする頭を押さえ、あたしたちは帰路に着く。終電だという彼女を駅で見送って、あたしは駅から徒歩15分の家に帰ることにした。

友人は別れる最後まで、酔ったあたしを心配して、送って行こうかと言ってくれた。けれどあたしは断った。終電の時間まで付き合ってくれたのだ。それだけで大感謝である。

あたしなら大丈夫だから、としゃんと立てるフリをして彼女を見送り、彼女が駅のホームに消えて行ったところで、あたしは家に帰宅するため踵を返す。駅の構内ではサラリーマンが終電を逃すまいと走っていく。彼らとは逆方向に向かって、カッ、カッと、ハイヒールの音を鳴らしながら歩いていく。

そうしてやっと、思った以上に自分が酔っていることに気がついた。

頭はふらついて重いし、足元も真っ直ぐ進めないほどおぼつかない。

大丈夫、というのは強がりだったな。

そうやって意識すると、体に溜まったアルコールがぐるぐると回るかのように、さらに酔いが加速していく感覚がする。

だんだんと視界だってぐらぐらし始めた。

目の前のものが近くにあるのか遠くにあるのかわからない感じだ。

これはやばいな、と思ったあたしは、家への帰路を急いだ。

ぐらぐら、カッ、ぐらぐら、カッ

ぐらぐら、カッ、ぐらぐら、カッ

頭の中で唱えながら、あたしは夜の繁華街を歩く。

ぐらぐら、カッ、ぐらぐら、カッ

ぐにゃぐにゃ、カッ、ぐにゃぐにゃ、カッ

駅から自宅なんて何度も通った道で、もちろん風景だって大体知っているはずなのだが、なんだか見覚えのないところに迷い込んだような気持ちになる。

あの電柱も、あのカーブミラーも、あの店も、見覚えがある。けれど、何か違和感を感じる。

それは夜だからなのか、こんなに酒に侵されているからなのか、それすらもはっきりしなかった。そうやって歩き続けて、あたしはやっと曲がり角に出た。

繁華街を抜けて、あたりはすでに住宅街の一角。この曲がり角を右に曲がれば、あとは道なり……

そうして右に曲がろうとした。が、あたしは足を止めた。右に曲がったその先に広がる景色、それが全く知らないものだったからだ。

……あれ?

どこかで道を間違えたかな。

そうやって振り返って、気がついた。

右に曲がって見えると思った景色が、左に曲がった先に広がっている。

どうやら左右を間違えて記憶していたようだ。あたしは首を傾げた。

そうして、あたしは左方向へ曲がって、道を進んでいく。その先は、右へと道なりにカーブしている。

あたしはまたまた首を傾げる。道なりにいくと、左へカーブしていると思ったけれど。あたしは不思議に思いながら、半ばよたよたしつつ帰り道を急ぐ。

そうしてようやくうちへと着いた。ぐらぐらする頭を押さえ、部屋へと入る。

やっぱり変だ。なんか、全部が左右対称みたい。テーブルの上のあの写真たては左にあったはずだし、リモコンは右にあったはず。それが、リモコンは左に、写真たては右に置いてある。

テーブルの位置や、ソファの位置だって、なんだかおかしい気がする。

まるで誰かが勝手に模様替えしたみたい。

左右対称な以外は元と同じなので全く手が込んでるけど。なんだか途端に直したくなって、せめてテーブルの上だけでも直そうと、小物の置き場所を記憶の通りに置き換える。左右が逆のものを入れ替えていく。

リモコンを右に、写真たてを左に、小さな小花の入った花瓶はその後ろに。

そうやってテーブルの上を元の通りに戻したら、あたしはようやくソファに横になって、眠ることができた。



「おいおい、またかよ!」

「しっ!大声を出すなよ!」

真夜中の車の中、作業服を着た男たちが話している。駅ビルの合間の駐車場に停まったボックスカーの中で、二人の男性は体を起こした。一人は助手席の背を起こし、一人は後部座席から運転席に移動する。

少し背の高い男と、少し背の低い男、二人組である。

助手席の男、背の低い方はタブレット画面をスクロールし、運転席の男、背の高い方は車のエンジンを入れた。ほどなくして車が駐車場から出てゆく。

「大声を出したくもなるよ……

またこいつ!悪戯ミラー!こっちの仕事が増えるだけなんだから、勘弁してくれよ」

助手席の男が身振りも大袈裟に、本当にうんざりだと言いたげにため息をつく。

「こいつのやってることはただの悪戯で、なんの意味もないんだからさ」

悪戯ミラー。彼のいうそれは、どこにでも起こりえる現象の一つだ。日本風に言うと、妖怪、なんていうのだろうか。覗き込んだ人間を鏡の向こうの世界に移動させる。向こうの世界の自分と入れ替えに。

「……ばれないからって酔った人間を使って遊ぶのはやめてほしいよな。後処理はこっちがするんだから」

「そうそう、遊んだらそのままほいっ。ちゃんと後片付けまでやってほしいよな」

「ま、でもそれが俺たちの仕事さ」

もう一方の男は冷静である。淡々とそう告げながら、車を目的地へと走らせる。

「へーへー、わかってるって。俺らは末端のアルバイトですしね」

「原因はどこのミラーだって?」

「繁華街のカーブミラー」

「またか」

「ほら!言いたくなるだろ!」

運転席の彼よりも少し背の低めな彼は、助手席でうれしそうに声を上げる。

「大声を出すなよ……まぁ、あんまり事例が多ければ、個別に対処が入るんだろ」

「ああ、その鏡がもう悪戯できないようにってやつ?効力あるのか?」

「ミラーを歪めたり割ったりな。そりゃ、効果あるんじゃないのか」

「まぁ末端は知らなくていいことだよな…」

車は人通りの少ない夜の街を滑っていく。


対象の彼女の家から、少し離れたところに車を停める。そこからは徒歩で移動する。そうして彼らは速やかに、密やかに作業を進める。

特殊な鍵で彼女の部屋を開けるとソファで寝ている彼女を確認した。

背の高い男がパタパタと何かを組み立てていく。それは人一人、いや二人ほどが十分に姿を写せるほどの大きな姿見であった。折りたたみ式だが、真っ直ぐ組み立てた今、鏡の表面につなぎ目はほとんど見えない。彼女の小さな部屋にどうにかしてそれを立たせた。その間、もう一方の男は着替えたり、派手な色の手袋をはめたりと、何やら準備をしていた。

「んじゃ、俺はあっちの彼女を連れてくるから」

ようやく準備の終わった様子の彼は、防護服のようなスーツで全身包まれている。こともなげにそう言うと、手袋をはめたその手で姿見の鏡面に触れる。

「覆い忘れはないか?」

「ないって。何回目だと思ってんだ」

そして彼はその鏡面がないかのように、向こうの世界に入って行った。

彼が着ているのは、屈折率を変えて、鏡の向こうとの境界線を曖昧にするスーツだ。このスーツを着て鏡に写ろうとしても、鏡には“もや”のような物体しか映らない。

このスーツを着ていれば、鏡の向こうの世界に行くことが可能になる。ただ、少しでも覆われていないところがあれば、そこだけこちらの世界に取り残されてしまうのだから恐ろしいことだ。体の一部が取り残されたらどうなるのか? 実際のところはわからないが、あまり想像したくない。

背の高い彼はこちら側で待機していた。

そして、向こうに背の低い彼が行ってからしばらくして、ソファの上の彼女の上で作業する“もや”と、動かされる彼女を見た。それは、寝相が悪いとの言葉では済まされない、なにかに抱えられているような動きだった。そうしてしばらく動きがあった後、彼女がぼやけて、同じく“もや”のようになるのを確認した。そろそろかと彼は大きな姿見を見やる。

それからしばらくして、同じ防護服の頭が鏡から飛び出た。それは同じ防護服を着せられた彼女である。出てきた彼女を丁寧に受け取ると、同じようにソファに寝かせ、防護服を脱がしてやった。

そうしているうちに、背の低い彼も姿見から出てきて、防護服を脱いでいる。

「わりと慣れてきたんじゃないか?」

「まぁ時間は縮まってる気がするな」

「今度測っといてくれよ。タイムアタックに挑戦したい」

「そんなことして事故っても知らんぞ」

彼らは防護服や姿見を元の通りに片付け終えると、部屋を出るため玄関へと向かう。

「もう直すところはないか?」

「大丈夫だろ。向こうのものにも何も触れてないし」

「ちゃんと元通りにしとかないと減給だぞ」

「大丈夫、大丈夫だって」

背の低い男はあしらうようにそう言うと、もう一度部屋を一瞥して確認した後、ドアノブに手をかけた。

「んじゃ、いい夢を」

そう言葉をかけて、彼らはそっと戸を閉めた。

来た時と同じように、速やかに、音もせず移動し、車に乗り込むとまた移動を始める。

「いや、簡単な仕事で助かったな」

「そもそもなければよかったんだがな」

「はは!そりゃ違いない」

街はまだ夜の中だ。



あたしはふわぁと目を覚ます。

体を起こして、途端に頭がズキンと響く。

やっぱり二日酔いだ。あんなに飲むんじゃなかった。

起き上がり、水を飲みに洗面所に行こうとして……リビングの机が目に入った。

なんだか違和感があって、よくよく眺めて見れば、机の上の、写真立ての位置とリモコンの位置が逆になっていることに気がついた。

また酔ってるうちに変なことしたのね。

あたしは特に気に留めず、元の位置に戻す。

リモコンを右に、写真たてを左に。花瓶をその奥に。

そしてやっと落ち着いた気分になった。

洗面所で水を飲んで、顔を洗う。

目の前の鏡に、自分が写っている。

どこかスッキリしたような顔のあたしが、曖昧に微笑んだ。










⭐︎妖怪:悪戯ミラー

すべての鏡はあちら側とこちら側のどちらも見ているのだ。そうして、時たま人間を入れ替えては楽しんでいる。酔った人間なんかは遊びやすい。あべこべの世界でも酔った幻覚だと思ってくれるからだ。

最近は人間たちが気づいて、元通りに戻しているようだけど、そうでなくても酔いが覚めるあたりで、そっと元の場所に戻してあげるつもりでいる。鏡だって、人間たちが思うほど無責任ではないのだ。


⭐︎人間:B

彼氏に振られたのでヤケ酒した。

今回のことでちょっとだけ反省したので、しばらくはお酒を控えようと思う。


⭐︎バイト

夜勤。タブレットで発生報告を受け取る。

基本的には各スポットの駐車場で待機だが、対処要請があれば出動する。


・バイト(背の低い方)

ミラーの対処には少し慣れてきた。ガサツなところがあるとよく言われる。

バイト後のファミレスハンバーグが楽しみ。


・バイト(背の高い方)

給料がいいからやっているが、正直あまり気乗りしない。慎重派。

バイト後はすぐに寝たい。

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