第3章
第25話 名前で呼んで
長かった中間試験が終わり、一志と玲は0番街裏通りにある駄菓子屋を久しぶりに訪れる。
「お疲れー。あげパン食うか?」
千代子の問いかけにうなずいてイスに座る。
秋功学園の試験は大変とは聞いていたけれど、予想をはるかに超える難易度に気力も体力も使い果たした。
「玲ちゃん。ゼロせんせー。大丈夫?」
「元気出してね?」
髪の長い女の子と帽子を被った男の子が心配そうにやってきた。彼らは、これまで一志と玲の作った朗読劇のすべてを聴いてくれているファンである。
「ありがとう。もう大丈夫だよ。二人のおかげで元気モミモミ!」
ファンサービスに慣れている玲は、モミジロウくんの口癖を引用して返答する。
「心配してくれてありがとう。新作もがんばって書くから。待っててね」
幼い子との接し方やペンネームで呼ばれることにようやく慣れてきた一志もお礼を言う。
男の子と女の子はうれしそうにうなずくと、お菓子選びに戻っていった。
「あはは! すっかり人気者だな!」
店が震えそうなほど豪快な笑い声と共に千代子が砂糖ときなこのあげパンを持ってくる。
二人は頭だけ下げると、なにも言わずにあげパンを半分ずつに分ける。
それぞれの皿にあげパンが置かれ、互いに食前のあいさつを済ませてから食べ始める。
「ああ……おいしいな……」
「うん……生き返るね……」
ようやく生気を取り戻した一志と玲は、ノートを取り出してアイデアを話し合う。
そこに髪を一本にまとめて地味なスーツに小さな体を収めた女性がやってくる。
「中野零先生。天ヶ沢玲さん。お久しぶりです。試験お疲れさまでした」
秋葉市役所職員で、今は図書館勤務の本山理香が硬い表情と声であいさつする。
「あ、本山さん。過去問ありがとうございました。おかげで赤点は回避できそうです」
秋功学園の試験内容は使いまわされることが多いらしく、一志たちはそれで勉強した。
「いえ、お気になさらず。わたしも先輩として後輩の役に立つことができてうれしいです」
「リカちゃん固いよ! もっと笑って笑って! スマイル! ほら、スマーイル!」
「だからチョコは黙っていてください……と言いたいところですが、今日はいいでしょう」
千代子と本山のいつものやりとりを微笑ましく眺めていた一志と玲は顔を見合わせる。試験が終わったら来てほしいと言われていたけれど、今日はなにかあるのだろうか。
「秋葉市と0番線商店街の合同イベントの企画が上がっているのです」
「二人にもまた脚本と朗読で参加してもらえないかと思って呼んだのさ」
「ぜひやらせてください!」
「私もやります!」
本山と千代子の提案を聞いて、一志も玲もすぐに大きな声で了承する。
「ありがとうございます。こちらが企画書です。ご確認ください」
今回は忘れずに本山が鞄から企画書を取り出した。
【あおぞら朗読劇 0番線商店街】
図書館でやったイベントを今度は0番街に場所を移して実施するという企画らしい。前回のイベントはなかなか好評だったらしく、またやってほしいという要望が多くあったのだそうだ。
市役所は市民の声を無視できないため、商店街との合同企画という形で応えることになった。
「今回もゆるキャラが題材なんですね。そうなると、またいろいろ調べる必要があるなあ」
脚本担当の一志は、頭の中でキャラクターやストーリーについて考えをめぐらせる。
「前回はすみませんでした。でも今回はがんばります!」
図書館のイベントでは、いろいろと迷惑をかけた朗読担当の玲が気まずそうに言う。
「秋葉市のゆるキャラってアレだろ? モミモミだろ? なあ、リカちゃん」
「チョコも商店街側の責任者なんですから。名前くらい覚えておいてくださいよ」
適当という言葉が似合いそうな千代子は、まじめさが
「いや間違ってないだろ? だって秋葉市のゆるキャラは、もみじの妖精なんだからさ」
「キャラの特徴や設定は企画書に書いてあります。わたしがじっくり教えてあげましょう」
『午後5時になりました。それではみなさん、0番街で会いましょう』
街に設置されたスピーカーから時報が流れ、今日はここで解散することになった。
本山は図書館へ戻っていき、一志と玲は
「今度は時間があるからじっくりいろいろ考えられるなあ。どんな話にしようかなあ」
「しかもボランティアじゃなくて謝礼も出る正式な仕事だからね。がんばって中野零先生」
玲がうれしそうに話しかけてくるのに対して一志は恥ずかしそうにうなずいた。
「でも、よかったよね。モミコちゃんがゆるキャラを続けられることになって」
秋葉市のゆるキャラは、もみじの妖精モミジロウくん。そしてモミコちゃんである。
イベントにも
そんな
朗読劇を聞いた子どもたちが「モミコちゃんが見たい」「モミコちゃんに会いたい」と市役所に要望を出したのだ。おかげで
「天ヶ沢もよかったな。今度はステージに立たなくて朗読に専念できるんだから」
0番街のあおぞら朗読劇では、駄菓子屋の前にある公園に特設ステージを建てる予定だ。その脇にテントを設けて玲はそこで朗読する。
彼女の体調を配慮してくれた本山の判断だろう。
あれからしばらく経っているけれど、今もまだ一志は詳しい事情を聞けていない。
「ねぇ一志」
玲が急に足を止めて真剣な面持ちになる。先ほどの発言で怒らせてしまったか。
「どうして名前で呼んでくれないの?」
それは怒りというより不満という感情に近いのかもしれない。
「いや、高校生になっても名前呼びはおかしいだろ」
恋人同士ならともかく、というセリフは恥ずかしくて言えなかった。
「べつに私は気にしないよ?」
玲は、本当に気にしていない様子でケロッとしている。
どうしてそこまで名前で呼ばせようとするのだろう。
「それに、久しぶりに会った時とあおぞら朗読劇では呼んでくれたよね」
「あの時は……つい……」
「一志には名前で呼んでほしい。そうじゃないと調子がおかしくて……だからお願い」
胸を突かれたような気分になる。
前回のあおぞら朗読劇では、一時的に対人恐怖症を忘れさせることができた。けれど、症状が完治したわけでも回復に向かっているわけでもない。
今も学校で人目を気にする玲のことを知っている。少しでも彼女の体調を考えるなら、言う通りにした方がいいのかもしれない。
「わかった。じゃあ……」
名前で呼ぶくらいどうってことない。
昔はいつも名前で呼び合っていたのだから。
玲自身が自身の名前を嫌っていた時期もあったけれど、それもずっと昔の話だから。
一志は震える唇をゆっくりと開き、喉の奥からしぼり出すように……。
「玲!」
呼ばれた相手は、全身に冷水を浴びせられたように目を大きく開いて硬直している。
突然のことに一志も驚いて動けない。
自分はまだ声を出していなかったから。
「玲だよな! お前、天ヶ沢玲だよな!」
名前を呼ばれた彼女の顔がひきつり、呼吸は乱れ、手足は小刻みに震えだす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます