第110話 悶絶チキンレース
ぜぇ、はぁ、と肩で息をしながら家に戻る頃には、月と太陽がバトンタッチして、すっかり朝になっていた。
玄関の鍵を開けて中に入ると、トタトタとこちらの方まで足音が聞こえてくる。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
帰ると恋人がメイド服で出迎えてくれた。
「ただいま」
「びっくりしましたよ。朝来たらいないし、スマホは置いて行っているしで。……ん?」
有希は俺の顔を見ると、何かに気が付いて俺の髪の毛を掻き分けるように触ってくる。
「あ、ちょ。汗だくで汚いぞ」
「晃くんに汚いところなどありません」
嫌悪感など持ち合わせていないと言わんばかりのセリフと顔つきに、嬉しいんだけど、反応に困ると言うか……。
「凄い汗ですよ。ちょっと待って下さい」
有希はポケットからハンカチを取り出して俺の額の汗を拭いてくれる。
有希のポケットに入っていた温もりと、洗剤の香りが顔を包む。
「家の中だし、俺の家のタオルでも良かったんじゃない?」
「あ……」
気が付いてなかったみたい。ちょっと抜けてるところも持ち合わせているよな。
「こ、これは、あえて、です。晃くんが私のハンカチで顔を拭きたいと思っての、メイドの思いやりです」
「間違いではないけど、その発想はなかったかな」
「別に良いでしょ。洗うのは私なんだし」
ちょっと拗ねた言い方に頭を下げる。
「いつもありがとうございます」
「好きでやっていることなので」
答えながら、「よし」と職人が作品を作り上げたような声を出す。
「はい。オッケーですよ」
「ありがと」
礼を言いながら家に上がり、短い廊下を歩くと有希が聞いてくる。
「もしかして、トレーニングでも?」
短い廊下を歩き終わると同時に投げられた質問に、部屋のコタツテーブルのいつもの席に座りながら答えた。
「うん。早く目が覚めたから、ちょっと走りに行ってた」
「今日も冷えるのに、汗だくになるなんて、どれくらい走っていたのです?」
聞かれて、置きっぱなしにしていたコタツテーブルのスマホを見てみると、7時を過ぎた辺りだった。
「2時間くらい」
「2時間!? 凄い体力ですね」
驚きながらも、いつの間に淹れてたのやら。俺へ水の入ったコップを渡してくれる。
「ありがと」
家に帰って既に3度目のありがとうを言い放ちながら、俺は今後彼女へ何億回のありがとうを言うのだろうと、少しだけ気になった。ありがとうを言うってことは、それくらいお世話になっているって意味だから、俺もありがとうを言われる様にしないとな。
「全然だよ」
水を飲み干して、先の有希の言葉を返す。
「中学の頃とは比べ物にならないくらい体力が減っている」
「元日本代表と言えど、2年のブランクは大きいと」
「そゆこと」
言いながら俺はそのまま寝転がる。
絨毯も何もひいていないフローリングは冷たくて、一瞬で俺の体温を奪っていく。しかし、熱った体には今くらいが丁度良い。
見慣れた天井を眺めながら、ボソリとつぶやく。
「もちろん、焦ってもなにも始まらないから無理はしていないけど、現状の自分の体力を知るとなんか不安になるな」
「でしたら」
「うぉ」
天井を映していた俺の瞳は、瞬時に綺麗な顔立ちの美少女へと移り変わる。
「私もご一緒にトレーニングお付き合い致しましょうか?」
有希の提案に体を起こして、「一緒に?」とオウム返しで聞き直す。
「はい。ご一緒に。早朝のランニングは健康にも良いですし、一緒に走りましょ」
「その格好で?」
「流石に着替えますよ」
「てか、恋人になってもメイド服着てくれんだな」
「当然です。これは晃くんをお世話する聖服なのですから」
せいふくの漢字が聖なる服って言わんばかりの言い方の様な気がしたけど、まぁ良いか。
「無論。なにを着ていても、晃くんへの愛は変わりません♪」
てへっ。なんて茶目っ気たっぷりで言われてしまう。
あざとさをわざと出して自分自身で恥ずかしさを誤魔化しているような言い方だったな。
「なら、いっか」
「あの」
拗ねた声を出しながら俺のジャージを、クイッと引っ張ってくる。
「さっきのセリフ、ツッコミをもらわないと恥ずかしいのですけど……」
やはり、わざとらしく言っていたのか。
「あざとくてもかわいいとかどんだけー」
「棒読み!? ちゃんとツッコミを入れてくださいよっ!」
「お手本は?」
「お手本!? ええっと……。『どんな言い方しても可愛いなぁ。有希ちゃん♡』とか?」
それはツッコミではないと思います。
「てか、ちゃん付で呼ばれたいの?」
聞くと有希は指を振って、「ちっちっちっ」としながら、わかってないなぁと言わんばかりに言ってくる。
「たまにポロリと出るちゃん付が萌えるんですよ」
「なるほど。勉強になります。有希ちゃん」
「はぅ♡」
適当に言い放った口撃が有希に効いている。
「今のはポロリと出たちゃん付じゃないけど?」
「どうやら私は晃くんに、ちゃん付で呼ばれると悶える体にされてしまった様です」
そんな体にした覚えはないし、それで良いのか生徒会長。最近、チョロさが極まっているぞ。
「も、もっとください!」
「有希ちゃん♪」
「はぅぁ♡ もっと!!」
「有希ちゃん♡」
「はぅぁん♡ 晃♡」
「はぅ♡」
な、なんだ今の感触は……。有希に呼び捨てされると体が、ゾクゾクっとしたぞ……?
「ぬ……?」
俺の異変に気が付いた有希が耳元に口を近づけて言い放ってくる。
「大好きだよ。晃♡」
「jxcusblbacb!?」
反射的に耳を塞いで有希の方へと振り返る。
「ふっふっふっ。どうやら晃くんは呼び捨てされると悶える体にされてしまったみたいですね。この私にっ!」
ドヤっ。としているその顔は、誇らしくも美しい。
「ふっ……。どうやらそうみたいだな。有希ちゃん」
「うっ……。ふふ。なら、とことん言い合いましょう。晃」
「「どっちが先にギブアップするか勝負」」
謎の悶絶チキンレースが開催され、結果は同点で幕を下ろした。
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