6.
英斗が家に戻ると、いい匂いが家の中に充満していた。甘い焼き菓子の匂いが脳を刺激する。
「おかえり、お兄ちゃん。我が儘聞いてくれたお礼にこの前また食べたいって言っていたお菓子を作ったから良かったら食べてね。はい、ナッツビスコッティだよ」
紅葉がそう言ってラッピングされた手作りのお菓子を差し出した。
「サンキューな。ありがたく頂くよ」
そう言って、英斗はお菓子を受け取った。まだ、ほんのりと温かさが残っている。少し前に出来上がったのだろう。
「お兄ちゃん、何処に行っていたの?」
英斗が何処に出かけたのかが気になって紅葉が聞く。
「秘密の温泉宿だ」
「・・・絶対嘘でしょう」
英斗の意地悪に紅葉がむくれる。しかし、教えてくれないと分かったのでそれ以上は聞き出すことをやめた。
夕飯が終わり、明日のから始まる大学の準備をする。そこへスマホが鳴り響いた。
「もしもし、紅葉?少し電話いい?」
千秋からだった。電話口の様子ではどこかおかしい気がする。少し怒っているような、そんな感じがする雰囲気だった。紅葉が大丈夫な事を言うと、千秋が少し怒り口調で話し始める。
「新さん、バイト先の鈴乃さんって人が好きみたい・・・。ほら、この前私たちが行ったときに声を掛けてきたあの綺麗な女の人よ。好きだけど、叶わない恋だから紅葉と付き合うことにしたって・・・。許さない・・・。そんなの代わりじゃない!紅葉は優しいから新さんをフル事はしないかもしれないけど、思い切って別れるのも一つだからね!」
千秋は怒っていた。でも、何となく本命がいる事は気付いていた。ただ、それを認めてしまったら別れなきゃいけなくなる。それが嫌で知らないふりをしていた。新の傍にいたい・・・。その気持ちがある限り紅葉から別れを切り出すのは無理だろう。
「千秋ちゃん、心配してくれてありがとう。でも、別れたくないよ。私は新さんの事、好きだもん・・・。大事にはしてくれるんだもん・・・。別れたくないよ・・・。代わりでもいい・・・。傍にいられるならそれでもいい・・・」
ぽろぽろと涙が零れる。千秋は紅葉の気持ちに強く言うことができなくなった。
「・・・分かったわ。でも、もし何かあったら言ってね!いつでも話聞くからね!」
千秋がそう言って、電話を切った。新に好きな人がいる。なんとなく分かっていた。誰が好きな人かは分からなかったが、あの時、鈴乃を見る新の表情を間近で見て「ああ、この人なんだ」と、感じたと同時に、紅葉とタイプが全然違うことから鈴乃を忘れるために自分と付き合うことにしたんじゃないかとも何となく感じた。静かに涙を流す・・・。新を失いたくない気持ちが駆け巡る。
「初めて好きって思った人と、そんな簡単に別れることなんてできないよ・・・」
そう小さく呟き、溢れてくる涙を拭った。
英斗は鈴乃からもらったある情報に考えを巡らせていた。どうすれば紅葉にとって一番いいのかを考える。紅葉は大丈夫と言っているが心はボロボロだろう・・・。それを考えるとのんびりしていられないと思った。情報を元に計画を立てる。場合によって紅葉は今よりさらに苦しむかもしれない。でも、それはきっと一時のことだ。そう自分に言い聞かせて思案していく。
(俺がその苦しみから解放してやるからな・・・)
そう言い聞かせながら、紅葉が作ってくれたお菓子を口に放り込む。程よい硬さのビスコッティが大きな咀嚼音を立てて嚙み砕かれていく。初めてこのお菓子を貰った時もこの噛み応えと美味しさが癖になって食べるのが止まらなかった。今まで紅葉が作ってくれたお菓子はどれも美味しくて、美味しさのあまりちょっと意地悪を言ってしまいたくなる。
(昔もそうだったな・・・)
そんなことを思い返しながら、お菓子を平らげていった。
その頃、新は自分の部屋でスマホの中にある写真を眺めていた。バイト先で撮影した集合写真をぼんやりと眺める。写真で新は表情を硬くしている。その理由はすぐ隣に鈴乃がいるからだ。鈴乃は特に緊張した様子もなく、いつもの雰囲気で微笑んでいる。
「やっぱり、大人なんだな・・・」
そう呟きながら写真をスクロールしていく。すると、紅葉の写真が画面に現れた。思わず手を止めて写真を見る。紅葉のことを恋愛として好きかと聞かれれば正直分からない。でも、可愛い子だなという印象はある。一人っ子な分、妹がいたらこんな感じで可愛いのかなと思った。可愛くて、よく笑う優しい女の子・・・。嫌いなところは無い。鈴乃より先に紅葉に会っていたら紅葉が好きな人になっていただろう。でも、先に出会ってしまったのは大人で魅力ある鈴乃だった。先に紅葉に出会っていれば・・・紅葉に出会わなければ・・・こんなに思い悩むことはなかったかもしれない・・・。考えても仕方ない言葉が浮かんでは沈んでいく・・・。
「僕は一体どうしたいんだろう・・・」
その問いに答えてくれる者はいない。ぐちゃぐちゃになっている感情を整理しようとしながら、なかなか整理できない感情が駆け巡る。
そして、無情にも時間だけが過ぎていく・・・。
それぞれの感情が交差しながら、闇が夜を包んでいった・・・。
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