将棋
うどん子
将棋
「桂馬のように生きなさい」
幼い頃に通っていた将棋教室の先生は、よくそう言っていた。名前に馬がつくという親近感からなのか、桂馬はなんとなく相手に取られたくない駒だった。
今でも意味はよく分からないのだが、よく分からないなと感じたことも含めて、この言葉とその周辺の記憶は、大人になった今でも時々思い出す。
「桂馬のように生きるってどういうこと?」
「桂馬だけ変な動き方するじゃん。だからアグレッシブに生きろってことじゃね」
「どうせなら俺は角行みたいにかっこよく生きたいけどな」
「俺は金とか銀たくさん持って、大金持ちになる」
「悠馬、お前は歩だろー」
当時、同じ教室に通っていた生徒たちの解釈もあながち間違っていないのではないかと思えるし、実際に誰かの言った通り、自分は角行でも大金持ちでもなく、歩くらいのささやかな人生を歩んでいる。歩だけに。でも歩兵一人一人にも幸せが訪れるもので、妻の京香と5歳になる娘の飛鳥と、都内のマンションで暮らしている。
日曜日は、京香が起きてくるまで、つまり正午くらいまで、リビングで飛鳥と人形遊びをしている。
怪獣のフィギュアをひもでぐるぐる巻きに巻き付けて物干し竿に吊るす遊びが、彼女の中で今流行っているらしく、既に10体を超える怪獣が無残な姿となった。何体かは爪楊枝で串刺しにされていて、さすがに心配になってくる。親として我が家の邪知暴虐の王を諭すべきなのか、何者にも媚びない純真無垢な発想力を尊重すべきなのかは悩ましい。
そろそろ朝の情報番組が終わり、将棋対局の中継がはじまる時間だ。テレビのリモコンが見当たらず、探していると、物干し竿にそれらしきものが吊るされていた。
「リモコンはとっちゃだめだよ」
父親の動きを目ざとく察知した飛鳥が詰めよってくる。
「でもリモコンがないとテレビが見られないよ」
「パパが見るのは二人のオジサンがずっと動かないテレビでしょ。あれ、つまんないから嫌だ」
結婚する前に京香が「オジサンが漢字の書いた駒を数分おきに動かすだけの中継が日曜日のいい時間帯に、しかも国営の放送局で放送されているなんて、意味が分からなすぎて怖い」と言っていたのを思い出す。自分の興味がないものにはとことん理解を示さない姿勢は、見ていてすがすがしささえ覚える。この子には京香のⅮNAがしっかり刻まれているのだと実感する。
「固まっちゃったオジサンのテレビと世界平和のどっちが大事なの」
世界平和なんていう大きな夢よりも、今は将棋が見たいと思ってしまうのは、自分が大人になってしまったということだろうか。子どもの前でそんなことを言うわけにはいかない。そうだ、怪獣のせいで固まってしまったオジサンをパパは救いたいんだということにすれば納得してもらえるのでは、と葛藤していると、京香が目をつぶったまま起きてきた。
「飛鳥、パパには将棋しか楽しみがないんだから、見せてあげなさい」
「そっか。はーい」
意外とあっさりとひもをほどく飛鳥をみながら、京香の言い草に、悶々とする。無事にテレビがつくと、後手番の棋士が長考に入っていた。
「ほら、やっぱり固まってるじゃん」
「将棋は楽しいんだぞ。飛鳥、やってみない?」
「やめといたほうがいいって。パパね、将棋になると弱い者いじめするんだから」
京香と付き合っていたころ、言い換えると、まだ自分の好きなことを彼女に理解してもらおうとすることを諦めていなかったころ、一回だけ一緒に将棋を指したことがある。ひと通り丁寧にルールを教えたのち、京香の要求に従って、飛車角桂馬金銀香車落ちという、ハンデというよりも意地悪に近い条件で対局したのだ。このときに、金で歩を全滅させることに夢中になった京香が王手に気づかず、屈辱的な敗北を期したことが、将棋に対する彼女の印象を暴落させたことは間違いない。将棋の楽しさを分かってもらおうとするなら、王手なんてするべきではなかったのかもしれない。ただ確実に言えることは、はじめに弱い者いじめをしていたのは京香のほうだということだ。
長らく固まっていた棋士が、駒を動かした。
後手、三七桂馬
「あ、パパの漢字だ」
「そうそう、馬ね」
日曜日の午後らしい会話に、少しほっとした気持ちになる。
「飛鳥、知ってるよ。馬車馬の馬でしょ」
「そうそう、馬車馬のように働く、とかね」
五歳児が馬車馬という単語を用いていることを気に留めない様子の京香が、一番意味が分からなすぎて怖い。
「桂馬の動きは、僕の人生に似ている」
京香の発言がさらに苦い記憶を掘り起こす。
「って、パパが昔、言ってたんだよ」
「京香、それで僕に何て言ったか覚えてる?」
「えー、覚えてないや」
「分かる。桂馬だけさ、動き方、ダサいもんね。って」
当時の京香の言葉は香車になって、降参寸前の心に王手をかけてくる。飛鳥が笑いながら、いち、に、いち、に、と桂馬の動きのステップを踏む遊びをはじめた。
「ママの字もある!」
「そうそう、香車」
「まっすぐつき進むんだよ。ママっぽいよね」
「そうかしら」
褒め言葉のつもりで言ったのに、京香が不満そうな声を出す。
「まっすぐしか進めないなんて、バカっぽいじゃない。京香の京のほうがいいわ。京と言ったら京都、町が碁盤の目になってるでしょ。つまり私は将棋盤そのものくらいすごいってこと」
「おー、ママすごい」
碁盤は囲碁で使うやつだけどね、と言いたくなったが、ここでは発言を差し控えさせていただいた。
結局、桂馬のように生きるというのは、どういう意味なのだろう。一歩進んで、二歩目は斜めに進む。京香の言うように、ダサいなりに頑張りなさいという慰めだったのだろうか。同級生の言ったように、アグレッシブに生きろということだったのだろうか。回り道をしてでも進み続けなさいというエールだろうか。それとも、先生もてきとうに発言していただけだったのか。
やっぱりよく分からないが、とりあえず今のところは、桂馬の動きをする遊びが飛鳥のお気に召して、怪獣への制裁の手を止めてくれることを祈っている。
将棋 うどん子 @endo_been
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